日本を支えてきた人

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僕の知人に、今年で92歳になるおばあちゃんがいます。
はじめてあったときは90歳でした。

なんでそんな人と知り合いかというと、実はこのおばあちゃん、大学で国文学を勉強しているのです。

 学校の喫茶店で友達と食事をしているとき、相席をしたのがきっかけでした。
はじめは70歳ぐらいかと思ったのですが、実際は20歳も歳が上でした。
僕らの感覚の20歳とは少し違うかもしれないですが、大抵70ぐらいに見られるらしいです。

 このおばあちゃんのすごいところは「年齢」だけではありません。
書道の先生であり、お茶の先生であり、趣味で写真を取ったり、源氏物語を研究したりと様々です。
それから、70歳のときに中国に行ったという話も聞きました。

 このおばあちゃんの変わっているところは、あまり昔のことは話したがらないという点です。
僕が接してきた高齢者は大抵昔の話をしたがります。
僕はそういった話を聞くのも嫌いじゃないので、老人受けは良い方の人間です。

 このおばあちゃんと会うときは、大体学校の喫茶店でお茶を飲みながら話をするのですが、「今度お茶会があって」とか、
「書道の展覧会に出してくれと頼まれたから今からそれも書かなければならない」とか、彼女は常に未来のことを話します。

 そういう話を聞くと、僕もがんばらないとな~と強く思います。
だって大正元年生まれですよ。明治最後の年に生まれてるんです。
「約1世紀もの間日本や世界を見た来た人の話」は実に面白いです。

「若い人と話して元気なエネルギーをもらう」とよく言ってますが、僕もこのおばあちゃんからは元気なエネルギーをもらっています。

 

 おばあちゃんは若いころ『小学校の先生』だったそうです。
そのころのお話をしたいと思います。

 おばあちゃんが学校の先生だったころは、ちょうど第2次世界大戦の時期で学童疎開も経験されたそうです。
その小学校の疎開先は山形県で、おばあちゃんは疎開が始まると児童を見送って、戦争が終わった後は山形に児童を迎えに行ったそうです。

 その後も山形を気に入って何回か行ったそうですが、実は僕の実家も山形なので結構山形の話で盛り上がったりもします。

 

 日本が戦争に負けた後は、明日食べるのもに困るほどの生活をしていたということでした。この話は、どんな人に聞いても
「戦後の日本を知っている人」ならみな同じ事を言います。国全体が貧しかった時代だったのです。

 僕を含めた「20才代あるいはそれ未満の人」には全く実感の持てないことです。
でも、そういった時代があったということはもっと伝えていかなくてはなりません。それを忘れてしまうことは、
貧しい人の気持ちを忘れてしまうことになるからです。

 ちょっと横道にそれましたが話を続けましょう。
おばあちゃんの旦那さんは「学校で知り合った人」だそうです。
職場結婚ですね。今はもう旦那さまはいらっしゃらないそうですが。

 小学校の先生は定年まで続けたそうですが、最後は学校の頂点である『校長』にまでなられたそうです。

 実は、この校長になるまでにはちょっとした逸話があるそうです。
都の教育委員会から校長への打診があったのですが、初めは「男性の方々を差し置いて、私が校長にはなれません。」と断っていたそうです。

 しかし、委員会も決定を覆すわけにはゆかないということで、結局その話を受けることにしたということでした。

 

 実はこのおばあちゃん、【日本で始めての女性校長】だったのです。
この話を聞いたときすごくびっくりしました。
歴史上の人物と話しているような高揚も覚えたほどです。

 定年退職した後は、2年間「写真の専門学校」へ行って写真の勉強をしたそうです。

 『自分のやりたいことをいつまでもやり続ける』ということと、『実はやりたいことっていうのは意外といつでもできる』という2つのことを、
おばあちゃんと話しているとよく思います。

 最後にこのおばあちゃんの『先生にまつわる特技』(もしかしたら職業病)をご紹介します。

 黒板に向かって何か書いているときでも、どこの席で誰と誰が話をしているとか、
誰がノートも書かずにぼけっとしているとかが分かるそうです。

 僕は小学校のとき悪ガキだったのでその話には実感がありました。
「何で見てないのにわかるんだろう」っていつも不思議に思って「先生には後ろにも目があるの?」と聞いたことがあると話したところ、
おばあちゃんは笑っていました。