古代日本五国王朝説

古代日本五国王朝説

古代日本の歴史書である「古事記」や「日本書紀」は天皇家の正当性を認めさせるために7世紀ごろに書かれたとされています。

しかし、古代日本はそれ以前より存在していました。縄文時代と弥生時代と言われる時代ですが、その時代には国は存在せず村が点在していたと考えられています。

しかし、国というのはそうした人の集団が寄り集まっていった結果なので、その時代に国が存在していない事は考えにくく、人が生活をしていたのならば国も存在していたと考えることの方が自然です。

日本以外でも黄河文明やインダス文明、エジプト文明など至る所で文明が起こりそして国が存在していた事実からも、日本だけが未開の地だったとは考えにくいのです。

1970年代に古田武彦教授によって唱えられた「多元王朝説」というものがあります。

古代日本列島には複数の王朝が存在しており、一つの国ではなかったという説です。

多元王朝説では、出雲王朝、大和王朝、関東王朝、東北王朝、九州王朝があったとされています。南宋時代に書かれた歴史書「宋書」に倭国の五人の王の記述があります。

この五王については、大和王朝の歴代天皇というのが通説ですが、多元王朝説の五代王朝の王のことを指すこともできるのではないでしょうか。確証はないので、あくまでも考え方の一つですが。

出雲の国

また、古事記に出てくる「国譲り」の話は、出雲王朝と大和王朝との間で取り交わされた併合の話だったと考えることもできます。というか、その方が自然です。古事記の中で出雲は1/3も占める内容なので、本家筋だったのではないかと考えております。分家に実権を譲ったということが国譲りの実態だったのではないでしょうか。

邪馬台国

九州王朝は邪馬台国(やまたいこく)とされていますが、7世紀ごろまで存在しており、その後、大和王朝に征服されたものと考えられます。古事記にある熊襲建(クマソタケル)兄弟の討伐がこれにあたると考えられます。

吉野ヶ里遺跡

日高見国

関東王朝は日高見国(ひたかみのくに)と考えられ、高橋富雄教授によれば

この「日高見」とは「日の本」のことであり、古代の東北地方にあった日高見国(つまり日本という国)が大和の国に併合され、「日本」という国号が奪われたもの、としている

Wikipedia

とのことです。征夷大将軍とは、討伐軍の総司令官を指しており討伐される側は全て蝦夷(えみし)という蛮族扱いをされています。しかし、最近の研究では蛮族とされていた地域から文化的な発掘も起こっており、大和王朝に与しない人たちが蝦夷として討伐というなの侵略戦争を強いられていくわけです。

みちのおく

日本武尊(やまとたけるのみこと)による東国征討によって、日高見国は征服されてしまいました。日本武尊はその後、東北地方の山形付近まで来ていたようですが、戦いで負った怪我によりそれ以上の進行はできなかったようです。

山形県にある蔵王温泉開湯の言い伝えによると

東征した日本武尊に従った吉備多賀由(キビノタガユ)によって西暦110年頃発見され[2]、多賀由から転じて高湯標準語共通語:たかゆ、山形弁:たがゆ)と呼ばれるようになったという[3]。

Wikipedia

とあります。この時点で東北の蝦夷は征伐されていないことになります。しかし、大化の改新以降、大和朝廷の基盤は揺るぎないものとなり、積極的に東方遠征に向かうようになります。宮城県中部、山形県以北に出羽国という国が存在しており、「みちのおく」と呼ばれていました。そして、道の奥が転じて「みちのく」というようになりました。

三内丸山遺跡

大和王朝による中央集権国家

道は国と同じ同義語で使われていたこともあり、一つの国が存在していたと考えられます。

8世紀までに東北地方も征服し、中央集権国家の母体が完成したと考えられます。

昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」

Wikipedia

これは、先述した宋書にあった記述です。倭王武が宋(南朝)に提出した上表文に書かれていたものだと言います。渡りて海北を平らぐるの記述が北海道なのか?とも思ってしまいますが、果たしてそこまでいっていたのか?渡った海は日本海で朝鮮半島だったのか?

海を渡って朝鮮半島にまで行ったという史実はあるようなので、そっちに行ったようです。

また、蝦夷討伐は西暦100年ごろから始まり、800年ごろにようやく東北地方を手中に収めることができたようですが、その後も1300年ごろまで反乱が続いており、完全統治されるまで1200年かかったと考えられます。

岩手県の二戸や青森県の八戸は、昔の関所の名残と言われており、一戸から順番に九戸まであったとされています。そして今でも地名として残っています。戸というのは境界を示す言葉です。家と外の境界を示す戸、戸籍はその家族を一つの単位として数えていました。関所でもある訳もそこからきます。この戸は蝦夷と大和朝廷の境を意味していたのではないかと考えられます。特に岩手北部から青森にかけて蝦夷が1300年代まで反乱を起こしていたことを考慮すれば、あながち間違いではないかもしれません。

今、学校で教えられている歴史や研究者による正史とは異なる見解かしれませんが、そもそも、その時代を生きてきた人など誰もいないので、想像力が歴史を作っていると言っても過言ではありません。それを実証する手段が近い将来できるかもしれませんが、それまでは、誰が研究していようとも空想の域を出ないのが歴史というものです。

私の説も、全く違うと否定できるほど、人類はまだ万能ではありません。

参考文献