科学の考え方

科学とは、広い意味では、体系化された知識や経験。狭い意味では科学的方法による学術的な知識、学問と言われる。

体系化された知識や経験は、一般的な人たちによる科学であり、研究者による科学は、狭義の意味を持つ事が多い。

科学的方法とは、物事を調査し、結果を整理し、新たな知見を導き出し、その知見の正しさを立証するまでの事をを言う。

簡単に言い換えるならば、観察することである。

小学校時代、夏休みの自由研究などの宿題があったかと思うが、最も初歩的な研究手法を学ばせるために必要な事だ。

朝顔の観察や、虫の観察など多くの場合、観察する事が評価の対象となる。

自分は、「カビ」の観察を経験がある。最も手軽に行なえ、手間もかからず、自由研究の意義にも沿う。自由研究について困ったときには一考の余地有りだ。

ただ、観察するだけなら小学生でも出来るわけでが、研究となると科学的か否かという事が重要になる。

いかに、科学的か否かを判断する事を考察した人がいた。

ハンガリーの科学哲学者であるラカトシュ・イムレ(Lakatos Imre、1922年11月9日 – 1974年2月2日)は、研究プログラムを提唱し「漸進的プログラム」と「退行的プログラム」の2つによって説明してる。

研究プログラムとは、「堅い核」と呼ばれる命題を中心にして構成される命題群であり、この堅い核は補助仮説のつくる「防御帯」によって、どのようなことがあっても反証から保護される。

というものである。

ニュートン力学も、相対性理論も、マルクス主義も、フロイト主義も、どれも全て研究プログラムであり、いずれも防御される堅い核を持っている。

新しい事実を予測し、発見を促す研究を「前進的プログラム」と呼び、そのような性質のないプログラム(疑似科学的な研究)を「退行的プログラム」と呼んだ。

前進的なプログラムとして代表的なものは、ハレー彗星、ニュートン力学、相対性理論、量子力学等がある。

対して退行的なプログラム(疑似科学)は、理論自体は既に知っている事実からなるもので、予測的な事はしない。たとえば、フロイト主義(精神分析)、マルクス主義、占星術、精神医学、社会学、ダーウィン理論等がある。

個人的に、社会学を疑似科学と言われることについては、反論したくなるが、ラカトシュの理論については、既に、反論している人がいた。

ポール・ファイヤアーベント(Paul Karl Feyerabend,1924年1月13日 – 1994年2月11日)は、ラカトシュの方法論は全くもって方法論などではなく、「方法論の要素であるかのように『聞こえる』言葉」にすぎないと主張した。

実は、この理論には欠陥があり、ラカトシュもそれを自覚していたと言われる。

堅い核とは、あくまでも研究の結果から見えるものであり、研究時においては何が堅い核となるかは特定できないという点である。

ニュートン力学は、その当時は、前進的なプログラムだったかもしれないが、既に既知の事実なっている現在において、果たして前進的なプログラムと呼べるだろうか?

リンゴがなぜ木から落ちるのかは、今や小学生でも知っている。

また、ラカトシュの理論についてはもう一つ研究者達による問題をはらんでいる。

研究者達は、必ずしも他の理論より優れているからその理論を選ぶわけではないということだ。

ラカトシュの理論とそれに反するファイヤアーベントの理論について、どちらを選択すべきかは、研究者の手に委ねられている。

現在研究している分野において2つ以上の理論が存在する場合もある。

特に最先端科学においては、幾つもの理論が展開され、立証されていく過程においてそれらが淘汰されるという流れがある。

Aの理論を選ぶも、Bの理論を選ぶも、実は、研究者の好き嫌いによって選ばれるケースも珍しくない。もちろんその理論が、最も予測を成功させる為に優れている場合もあるが、未知なる研究をしていく分野においては、どの理論が正解かは、立証してみないとわからないからである。

A理論を選ぶのは、実はたまたまだったかもしれない。

実際にそれを提唱する人もいる。

カナダの科学哲学者イアン・ハッキング(Ian Hacking、1936年2月18日-)は、

xの存在に必然性がない、ないしはそれが現在あるようなしかたをしている必然性はまったくない。xを存在せしめたり、今日あるあように形づくったのは、社会的な出来事、力、歴史であるが、これらすべては、違ったあり方をとることが十分可能であった。

参考:理系人に役立つ科学哲学

何のことを言っているのかよくわからないですが、要するに、今ある生活は社会とか歴史とか、何かの力とかそういったものがあるから存在しているわけで、もしかしたら違った生活もあったかもしれない。。。

実際、いろんな要素があって初めて今の状況が出来上がっているという視点を抜きにしては、確かに語れない。

最先端の科学分野において、有力候補と呼ばれる理論は、学界で優勢になったこともその理論が選ばれる要因になっているともいう。

若い研究者がある研究において多数派に加わらない事は、ほとんど自殺行為であり、別の理論を研究する学者が減ってしまい、それが悪循環として少数派を生み出してしまう。そこには、人間関係(社会的構成主義)が介在している。

ひとつ言えることは、優れた理論には必ず反論がつきものだ。