情報の価値

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今日は、もったいぶらずに結論を一言で述べます。

「情報は明文化した時点で価値が半減する」のです。

これ以降の文章は、理由について延々と語っていくため、結論だけで十分な人は読まなくてかまいません。

いつも結論をもったいつけて、うんちくを延々と書き続けるマルコ式には珍しい文体で驚いた方もいるかもしれませんが、この事については、先に結論を持ってきた方が話として落としやすいと思ったのです。

なぜ、こんな事を思ったのか?それは自分でもわかりません。ふと、閃いたのです。
誰かとそんな話をしていた訳ではないのです。
いつもと同じようにブログを書いていたときに、思ったのです。

はじめに、情報とは何かという事を考えていました。
それは以前、情報について「情報を制するものは世界を制する」という事で書いています。

それを書いているときに、インターネットが普及して以降、情報の価値が著しく低下しているようにも思ったのです。情報が今以上に取得が容易でなかった時代には、ほんの些細な出来事ですら重要な情報だったと思います。
また、遠くはなれた人が、昨日、何をしていたかなどという事も知る由もなかった訳です。(別に今でも知る必要はありませんが、それが好きな人だったら話は別でしょう)

口頭伝承方式(口伝)による情報の伝達は、時として正確な情報を伝える事ができないため、多くの情報は明文化されることによって正確に後世まで伝える事ができるのです。

しかし、明文化をよしとせず、口伝のみだけの分野も存在します。それは、職人の世界に顕著に現れています。特に独自の技を持っている職人の多くは、明文化せず口伝のみでその技を後世に伝えているのです。
決して、明文化するのが面倒だからという理由ではありません。明文化をし、誰にでもできるようなると、価値がなくなってしまうからです。

私が、はじめに結論を持ってきたのはそうした理由もあったからです。
誰もがそれを知ってしまえば、私の考えについての価値は無いに等しいのです。コロンブスの卵が物語るように、知ってしまえば誰でもそれは容易な事だと認識するものなのです。

多くの高名な哲学者の書物が難解なのは、そんな理由もあるのかもしれません。
また、宗教の教義もしかり。難解にする事によって、代弁者の存在意義が成立します。もっと簡単で誰でも一言で理解できる教義だとすれば、代弁者はいりませんし、存在意義もありません。

私にとって、考えを巡らせている瞬間が最も価値のある時間なのかも知れません。そして、最も充実している時間だと私は感じます。それを、明文化していく作業は、既に終わった事に対する記録をとっているにすぎないのです。

しかし、明文化する事によってよい事もあります。情報の価値はなくなるかもしれませんが、それが良い情報であればあるほど、その情報を出した人の価値は高まるのです。

価値のある存在になりたければ、価値のある情報を出し続ける事です。