アパルトヘイト

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はじめに

ある新聞記事が、すでに撤回されたはずの南アフリカ共和国による人種差別政策(アパルトヘイト)の傷跡を知らせていた。調べてみると、実際アパルトヘイトがなくなった今でも、色々と問題はあるようであった。
そこで、南アフリカ共和国の歴史とアパルトヘイトが施行されるようなるまでの変遷を追い、アパルトヘイト撤退後の現状の問題を観ていきたいとおもう。

アパルトヘイト撤廃までの歴史

起源は、大航海時代まで溯る。南アフリカははじめオランダの植民地として支配されていた。正確に言えば、1602年にオランダに東インド会社を設立しその後、1652年に民間の入植者をオランダから受け入れ、増えてったオランダ移民(ボーア人)が住民から土地を奪っていって、ケープ植民地を作った。その頃から、奴隷制度を積極的に導入し、また、ケープで成功を収められなかった人々は、徐々に東方や北東に移動・拡大していった。1795年にイギリスがオランダからケープ植民地の支配権を奪い、イギリスの支配が始まるが、それと同時期に奴隷制度を廃止していた。その4年後の1799年にオランダは東インド会社を解散した。そのことで1814年には正式にイギリス領となったが、オランダ移民は北方に移住しナタール共和国を建国するも、イギリスに敗北し、1830~40年にオランダ移民はより内陸部へと移住(グレート・トレック)を余儀なくされた。1852年にトランスバール共和国、54年にオレンジ自由国を建設し、そこでダイヤモンドが発見された。話が少し前後するが、最初に発見されダイヤモンドにまつわる話があった。
「1866年、南アフリカの大地で一人の農夫が石を拾った。光る石である。その3年後に羊飼いも光る石を拾った……羊飼いはその石を、牛十頭、羊五百頭と交換したという。ほどなく、後に『アフリカの星』と呼ばれる巨大なダイヤモンドが採掘された。オランダで二つにカットされたひとつは530カラット、イギリス王室のシンボルである笏に取り付けられた。もうひとつは317カラット、これは王冠に嵌め込まれた。ついで100個以上のダイヤが誕生し各地に渡った。合計3106カラットである。」
【http://www.3ac.co.jp/wed/rekishi/09c6c001.html – top:9/11】
その次に年には、ダイヤモンド鉱脈をオレンジ自由国で発見され、1886年には、トランスバール共和国で金脈が発見された。
「この頃は、1869年にスエズ運河が完成し、ヨーロッパ船は地中海からインド洋に抜けることができるようになった。そのため、東方貿易の中継基地としてのケープ植民地の意義が、著しく低下していた時期に当たる。また、アメリカやドイツの台頭により、世界の覇者としてのイギリスの地位は脅かされつつあった。これらの要因が重なり、南アフリカの戦略的重要性が高まることとなる。」【http://www.yata.co.jp/safrica/about01.htm:9/11】
現在南アフリカ共和国は4つの州からなっている。その州とは、ケープ、ナタール、オレンジそして、トランスバーグである。ケープとナタールはイギリス領であり、オレンジとトランスバーグはオランダ移民領である。また、この両州同士は対立し戦争へと発展していった。その戦争は、1880~81年にかけて起こった第1次ボーア戦争と1899~1902年に起こった第2次ボーア戦争である。ボーアとはオランダ移民のことをさすが、オランダ移民のことをアフリカーナとも呼ぶ。結局この戦争の結果イギリスが勝利し、1910年にイギリス自治領南アフリカ連邦が発足し事実上、南アフリカはイギリス領となった。
1911年に、白人労働者の為の最初の人種差別法、鉱山・労働法を制定し、1913年には土地法が成立した。この土地法というものは、南アフリカの一部の農村地帯をアフリカ人向けの居住地に指定するというもので、これ以外の土地ではアフリカ人は土地の購入や賃借が出来なくなるというものであった。そして、この法律の制定によりアパルトヘイトの枠組みが出来た。1934年にはイギリス連邦内で独立を果たし、その2年後の1936年以降より黒人の参政権は剥奪され、よりアパルトヘイトは強化されていった。
第2次世界大戦後の1948年に初の総選挙が行われ、そのときの与党である連合党と野党である国民党の一騎打ちとなり、アパルトヘイトをスローガンに掲げ国民党が政権を握ることになる。その国民党は、1950年に人民登録法を制定し、1959年にはバントゥースタンを作る。このバントゥースタンは白人国家から黒人国家を分離する政策である。これにより、事実上アパルトヘイトは完成する。
南アフリカはその後の1960年に共和制に移行し、その1年後にはイギリス連邦から脱退した。70年代末からは、武力闘争を強化し、南アフリカの内紛は激化する。78年に発足したボタ政権では黒人以外の有色人種を体制内に取り込み、多数の黒人と分断、84年9月に白人、カラード(混血)、インド系の3人種体制が確立した。その結果黒人の暴動はさたに激化・頻発し、政府は86年6月に全土に非常事態を宣言。アメリカやヨーロッパ連合(EU)などは、対南アフリカ経済制裁を実行した。
1989年9月にボタ大統領辞任を受けて、デクラークが大統領に就任し、91年6月にアパルトヘイトの根幹である人種登録法、集団地域法、土地法を全廃し、事実上アパルトヘイトは廃止された。

アパルトヘイトと反対運動

そもそもアパルトヘイトとは、オランダ語で「隔離」を意味する。(正確にいえば、アフリカーンス語となるが、ドイツ語に近い語であることからオランダ語が変化したのだと思われる。また、アメリカ最高裁が1896年に『分離すれども平等』という判決によって人種差別を養護したことに起因するとも言われている。なぜなら、南アフリカの白人はこのアメリカ製の修辞を用いて人種差別を否定していたからだ) そして、一般的に知られるものは、南アフリカの人種差別政策である。先に歴史の部分で挙げた法律を見てもらえばわかるが、アパルトヘイトは黒人を白人から隔離することが目的である。また、アパルトヘイトに基づく具体的な法律は、土地法、人口登録法、不道徳法、雑婚禁止法、集団居住地法、公共施設分離法が挙げられる。
南アフリカには少なくとも3つの民族が生活している。それは、はじめに入植したアメリカーナ(オランダ移民またはボーア人とも言う)と、イギリス系移民、そして原住民であるアフリカ系黒人である。アパルトヘイトとは、言葉を見てもわかるようにアフリカーナ(オランダ系移民)の国民党による政策であった。
また、アパルトヘイトを作らなければならなかった理由が2つあるとも言われている。
「一つは南アフリカ戦争によるアフリカーナの貧困の激化、もう一つはアフリカーナの信仰するオランダ改革派教会の教義に由来する。それは、全ての人間は神に救われる物と救われざる物に分かれ、非白人は生まれつき白人の下僕になることが運命づけられているというもの」
【http://www.geocities.co.jp/WallStreet/6112/katudou/20010416.html:9/11】
この中に出てきた南アフリカ戦争というのは、第1次、2次ボーア戦争のことである。アフリカーナは、戦争と民族移動をしたためにイギリス系白人よりも生活水準が低く、よりやすい賃金で働くアフリカ系黒人との中間に位置していた。入植者には、新教徒が多かった。ユグノーやオランダ改革派などのカルヴァン派は選民思想を持ち、教義中の運命予定説は人種差別を神学的に裏付けた。すなわち、神は黒人を白人の奴隷として作り賜うたという世界理解である。
1948年の総選挙で国民党が勝利したことにより、政権を樹立し先の2つの理由を表現することとなるが、いかなる理由があろうとも、人種差別を目的とした法律を施行して良い訳も無く、勿論この政策に対する先住民族である黒人達は反発した。その主な団体にネルソン・マンデラ氏が属するアフリカ民族会議(ANC)があった。その他にも、南アフリカ・インド人会議(SAIC)と、後にアフリカ民族会議から分裂するパンアフリカニスト会議(PAC)があった。
1955年に「ANCとSAICなどによりクリップタウンで『南アフリカは、黒人、白人を問わす、そこに住む全ての人々に属する。』という文言で始まる『自由憲章』が採択される。」
【http://www.geocities.co.jp/WallStreet/6112/katudou/20010416.html:9/11】
しかし、政府はその集会に集まった群集を解散させ、1956年に中心的活動家を反逆罪で告訴した。
イギリス連邦から脱退する前の年である1960年に、シャープビル虐殺事件が起こっている。これは、PACの呼びかけに集まったアフリカ人群集に向かって、警官隊が一斉射撃を行い67人が虐殺され、170人が負傷、ANC、PACが非合法化され大衆運動を力で押さえ込むような政策をとった。それにより、約2万人が逮捕され、その中にはANCの最高指導者であったネルソン・マンデラ氏もいた。彼は非武力闘争を続けていたが、政府の武力での取り締まりに対して武力で応じることを決意するが、この武力闘争によって終身刑を受けた。
76年にソウェト蜂起事件が発生し70年代末になると、アパルトヘイト打倒を目指すANCが武力闘争を強化した。
ボタ政権での非常事態宣言は、各国の非難を呼びそのことになった。
それに対する弁明は、
『各民族が自己の個性を保ちながら、他の民族の個性を尊重して独自の発展を追求』するために必要だというもの。

【http://www.kitakyudai.net/~rateken/study/nijinokuni.htm:9/11】
であった。
世界には人種差別を行っている国は、多数あるはずなのに、なぜこれほど国際的に非難を浴びたのだろうか。その理由は、南アフリカでは人種差別が合法であったためであり、差別しないことが違法とされたからである。
こうした国際世論の高まりによって、デクラーク氏が革命を主張し選挙戦で勝利を収めることになる。1991年にはアパルトヘイトは撤廃されるが、白人のみの国民投票では3割の人々がまだこの人種差別政策を続けたいと思っていた。

アパルトヘイト撤廃後

1990年にネルソン・マンデラ氏釈放をきっかけとして、翌91年には全政治犯を釈放し、同年6月にアパルトヘイトが撤廃された後、12月には政府やANCなどの主要政治勢力19団体が参加して「民主的な南アフリカを目指す大会」(CODESA)第1回全体会議が開かれて、本格的な制憲交渉が始まった。しかし、1992年5月のCDESA第2回全体会議で交渉は決裂し、ANCは翌月の6月に交渉から離脱した。「独立」ホームランド(1959年のバントゥースタンによって隔離された黒人民族別居住地域であるが、70年からホームランドと呼ばれ独立を与えられていた)シスカイでのANCデモ隊に対する発砲事件を受けて9月にデクラーク大統領とマンデラANC議長の首脳会談が行われ、けん制交渉再開に合意した。国内政治勢力26団体が参加した多党間制憲会議は、1993年7月に全人種選挙の94年4月実施で合意した。同年12月にはデクラーク大統領とマンデラANC議長がノーベル平和賞を受賞。
94年4月26~29日に実施された全人種選挙では、下院(国民議会)や州議会の選挙には19政党が参加、約2200万人の有権者が投票しその結果、下院は、ANCが有効投票数の62.6%を得て圧勝した。州議会選挙でも、ANCが首都圏、東ケープなど7州で過半数を制した。これは、国内の黒人の約77%に支持された結果となる。
この選挙結果によって、マンデラANC議長は94年5月9日に下院で大統領に選出され、南アフリカ史上初の黒人大統領として10日に就任し、その就任式で人種融和に向けた新国家建設を宣言した。このとき、マンデラ氏は76歳であった。また、第1副大統領にはANCのムベキ氏が、第2副大統領には国民党のデクラーク氏ガ就任し国民統合政府が成立する。
マンデラ大統領は、就任後にまず貧困問題に着手した。選挙前から打ち出していた公約の格差を是正する復興開発計画(RPD)を進めた。その内容は、住宅の建設、電化・上下水道の整備、土地の再配分、雇用創出などといった貧困層向けの社会政策であった。RPD事務局が1995年に発表した報告書によれば、南アフリカの約半数の52.8%もの人が貧困とされ、この人たちの失業率は50%の水準に達していた。人種別では、貧困層の94.7%を占めているのはアフリカ系黒人である。現在の日本も不況にあえいでいるが、先日の失業率5%とは比べ物にならない比率である。失業率50%とは、国の存亡にも関わってくると思われる比率だと思われる。
1996年には、マクロ経済成長戦略(GERE)を実施している。これは、成長、雇用、再配分と題された包括的なマクロ経済政策である。
その後、1999年からマンデラ氏の跡を受け継ぎムベキ氏が大統領となっているが、政策のほうはうまくいっていないようである。この年の経済成長率は0.7%で、失業率は30%以上でアフリカ系黒人であれば、40%以上だという。まだまだ、再生には時間がかかるようである。また、この貧困は犯罪件数の増加にもつながり、南アフリカでは凶悪犯罪は後を絶たないという。

新聞記事について

001年9月9日付けの朝日新聞に、「心臓移植と人種差別主義」と見出し付けたれた記事があった。(資料編①参照)
黒人男性の死体の心臓を白人男性に移植したことが、この医師を「差別主義者」だと位置付けたらしいが、よく南アフリカの歴史を見て見ると、そういったことは必ずしも当てはまらないといえる。この記事では、1652年以来18世紀まで現地女性との間で子どもを作ることを奨励していたとある。

「一七ー一八世紀には植民地の労働力の確保のため、マダガスカル、インド、セイロン、インドネシアなどから奴隷が輸入された。白人男性と女奴隷との婚外交渉によってたくさんの子供が生まれ通常は奴隷となったが、女の子の中には白人男性の妻となるものもいた。そのため、アフリカーナ(オランダ系白人は自分たちをこう呼ぶ)の血には非白人の先祖の血が混じっており、現在でもアフリカーナの両親から色黒で髪の毛の縮れた子供が生まれることがある。」

http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/kak2/1212282.htm:9/11】
南アフリカ