個人主義について

個人主義について

スペンサーの個人主義に対する批判

個人主義は、中世のあらゆる束縛(貴族の支配、教会組織のヒエラルヒー、重商主義の支配)からの解放によって、生み出され台頭する中産階級の活動原理となったものである。また、個人の自由という価値意識のもとに確立したものである。

社会学の早い段階では、H.スペンサーがこの問題に着手し功利・合理主義的個人主義といった見解に達した。これは、個人は社会の利益のために存在するのではなく、社会が個人の利益のために存在しているというものである。H.スペンサーは、社会を社会有機体であるとも考えていた。そのため、社会は人間よって作られるものではなく、社会はそれ自体が成長・発達するとの見解を持っていた。この見解は、社会ダーウィン主義(Social Darwinism)として、19世紀後半のアメリカ合衆国で顕著に見られた理論に類似している。これは自由放任思想的な社会概念であり、自由競争による自然力的淘汰が行われ進化論的水準を引き上げるということである。

有機体としての社会では、個々人間のつながりも強くなくてはならない。言い換えれば、個々人の行う社会的諸活動の緊密なネットワークの制度化が必要であるということだ。

そして、H.スペンサーは分業によって社会生活が営まれるとも考えた。彼の場合は、政治的分業、生理的分業、といった視点から社会的分業、社会学的分業へのアプローチ経ていたものであるが、この考えは、E.デュルケムの著書『社会分業論』の中で否定された。E.デュルケムのよれば、「契約が存在する場合、契約は常にある規定に従っている」とし、「契約の非契約的要素」(契約に先立ってこれを可能にしている規範的要素がなければ、契約関係は成立しない)を主張しなくてはならないのである。【山岸:153】もう少し、具体的にわかりやすく言い換えると、E.デュルケムはH.スペンサーと違って個人は社会によって作られるという認識をもっていた。したがって、H.スペンサーの考えた「契約的秩序」は、相容れないものなのである。なぜなら、根本的に社会と個人との捕らえ方が違うので、批判は容易にできるのである。また、この「契約的秩序」は個人を前提にした考え方であり、社会的紐帯は私的な利害に基づいて結ばれる個人間の契約によるものであるというのが、主な内容である。これに対して、E.デュルケムは社会を前提とした考え方であり、契約を結ぶためにはそれを行う上でルールが存在しその規範がなければ、契約関係は成立しないというものである。私的利害の個人間における関係に対しても、このような規範的要素(社会的拘束力)が優先していなければならないのである。

お互いこの問題に関しては、どちらも選択できる可能性があり、一概に一方だけを選択すればそこから先のより高度な論争には到達できなくなってしまう。要するに、2つとも重要な概念であるという認識をもつことが、もっとも望ましい立場であろう。

デュルケムの個人主義

先ほども触れたが、デュルケムは「個人は社会によって形成される」という立場をとっている。そのため、集団意識(社会的規範)が個人の意識から独立したものとして存在し、自覚の有無にとらわれず、個人の行動や思考を往々にして方向付けていると考えた。これは、生を受けたばかりの子供は、利己的で非社会的な存在であり(性悪説)、そのままでは社会生活に適合することはできない。この純粋な存在の中に社会的存在を形成し、体系的に社会化していくという営みを、教育を通してなされなければならないと考えた。「教育は、その社会的な要求にしたがって一定の肉体的・知的・道徳的状態を子どもの中に発現させ、発達させる役割を担う。人間は、教育を通じ、社会的な雛型にしたがって形成されていくのである。」【山岸:154】

E.デュルケムは、H.スペンサーを批判しながらも、「社会は個人によって形成される」という理論全般を否定したわけではなかった。彼もまた、私と同様に2つの理論を受け入れながらも、矛盾した2つのパラドックスに陥っていたのである。彼は、歴史的な変動の過程で既存の集合意識(社会的規範)が解体し、新たな行為・思考様式が形成されていく条件を問題にしている。より具体的な事例を挙げると、現在もまた、この集団意識が解体され始め新たな行為・思考様式が形成されている段階だと、私は考えている。

冷戦構想が解体した役10年前から世界の集団意識は変動しつづけている。そして、新たな思考様式として、グローバリズムが生まれた。その思考様式を実践する行為として、インターネットのめまぐるしい普及があった。そして、新たにアメリカを中心とした資本主義体制国対それに反発するものという構想が、ここ最近生まれてしまった。この構想は、冷戦と同じくらいかそれ以上続く可能性は大きい。それにより、また新たな段階へと社会は移行していくだろう。物質が大量に行き交う時代は終わりを告げ、情報が大量に行き交う時代が幕を開けた。

E.デュルケムの考える個人と社会の関わりを論じるときは、現代の分析を踏まえた上で考えると、よりわかりやすくなると思われる。

内容が少しわき道にそれてしまったが、E.デュルケムは「社会は個人によって形成」されることも視野に入れていたのである。彼によれば、集団意識の生成は個人間の接触(コミュニケーション)が母体となっていると『宗教生活の原初形態』で論じている。しかし、「社会が個人を形成する」という見解と、「個人が社会を形成する」という一面は、E.デュルケムによって体系的に理論化されたものではない。それに、この問題は「卵が先か、鶏が先か」という論争と同じであり、議論したところで理論化できる結論は見出せないと思われる。

参考文献一覧

  • 今村仁司 『現代思想を読む事典』 1988 講談社現代新書
  • 富永健一 『社会学講義』 1995 中公新書
  • 丸山哲央 監訳・編集 『新しい世紀の社会学中辞典』 1996 ミネルヴァ書房
  • 山岸健・船津衛 編著 『社会学史の展開』1993 北樹出版
  • 山崎正一・市川浩 編 『現代哲学事典』 1970 講談社現代新書