アイヌに関するレポート

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はじめに

日本民俗学に於いて、数多く研究されている分野の一つが「アイヌ文化」である。今回のレポートでは、アイヌ人とはどのような人々であるかということを、簡単にまとめた初級アイヌ民族入門とも言えるものである。この分野のより深い研究においては、多くの高名な先生方の著書にゆだねることにする。

アイヌ人とは

アイヌ人のおもなイメージは、伝統的な衣装に身を包み勇壮な風貌で立っているというイメージが強い。なぜなら北海道に行けば、必ずみやげ物屋に置いてあるタペストリーやのれん、置物は同じようなデザインであるからだ。また、大和民族とは違い毛深いということも言われている。この身体的相違が、差別を生み「アイヌ人」と一言でいうと、差別用語に当たるといわれる場合がある。

【http://www.osamushi.com/about_kinshi.html:差別用語について 参照】

しかし、アイヌの人々を語る場合他の民族との比較から、「アイヌ人」を使用することには、何ら問題は無いと思われる。この言葉を使うことに悪意が無いことをはじめに断っておきたい。

アイヌ人とは、アイヌ語を話しアイヌの音楽、舞踏、工芸やその他の文化的所産を継承、発展させてきた人々のことをいう。要するに、文化人類学における民族区分を当てはめたものと考えてもらえばいい。アイヌ(aynu)という言葉は、アイヌ語で、「人」「人間」という意味で使用される。また、アイヌ人の精神観(宗教観)も他の民族とはことなる特徴をもつ。

アイヌ人の信じる神は、カムイ(kamuy)といい生き物に限らず、火、水や雷などの自然現象、果ては人間の作り出した舟などの道具や物など、身のまわりの事象にカムイの存在を認めている。これは、神道における八百万の神々という概念に類似しているが、八百万の神は神社や祠、お稲荷様といった形で祭られていることが多いため、アイヌ人の言うカムイとは異なる。また、カムイは普段はカムイモシリ(kamuy-mosir) といわれる神の世界に住んでおり、人間と同じような姿で生活していると考えられているが、カムイがアイヌモシリ(aynu-mosir)と呼ばれる人間の世界にやって来る場合に動植物、自然現象や人間の作りし物に姿を変えてやってくると考えられている。アイヌ人は、このように我々の存在する現象界にはさまざまなカムイが存在するとする自然観・精神観を持っている。

アイヌ人のルーツ

アイヌ人のルーツは、一般的に南方系モンゴロイドではないかといわれている。これに対し、和人は北方系モンゴロイドの影響を強く受けたのではないかと言われている。

縄文人の顔を想像してみる。顔形は骨からわかる。それ以外のところは何からわかるかというと、いちばん確実なのはDNAである。縄文人の骨から採ったDNAとアイヌの人たちのDNAを比べたところ、非常に似ているということが最近わかっている。だから風貌は、アイヌ人のようだったかもしれない。またインドネシア人などの顔の形と非常によく似ていることから、その人たちの持つ目鼻の細かい特徴もあったのかもしれない。

また縄文時代の遺跡からは、ピアスのイヤリングをした土偶や、大きな耳飾りが見つかっている。縄文人は、大きな耳飾りをしていたらしい。大きなピアスを入れられるということは、縄文人は耳たぶが大きかったということだ。いわゆる福耳だったらしい。それも南方アジア人によく似ているところだ。

【馬場 悠男:http://www.wnn.or.jp/wnn-history/jomon/sannai-file/other/other/other.html】

縄文人やその祖先である港川人(※沖縄で今から18000年昔の人骨が発見されている)の顔と、弥生人やその血を色濃く受け継いでいる古墳時代人、鎌倉・江戸時代人のような人たちの顔にはギャップがある。

どうも縄文時代と弥生時代の間で、何かがあったらしい。これは生活環境が変わったということだけでは考えられない話である。実は大陸からたくさんの人々が渡ってきて弥生人となったのだ。

私たちの祖先は、どこからやってきて、どう混ざり合っているのか。

まずは「縄文人」の流れをみていくが、恐らくインドネシア付近の南方アジア人が今から約三万年前にやってきたのではなかろうか。それが日本列島で港川人となり縄文人となった。そういう考え方がかなり代表的なものとしてある。

私自身は、縄文人が南方からやって来たと無理やり考えるよりは、縄文人はもともと日本にいたと考えてもいいと思っている。

【馬場 悠男:http://www.wnn.or.jp/wnn-history/jomon/sannai-file/other/other/other.html 】

また、余談ではあるが縄文人の特色を色濃く残しているのは、アイヌ民族だけではない。沖縄人も、縄文人の特色があるといわれている。

アイヌ人のルーツは、一説では次のように言われている。縄文時代以前、 まだ陸続きだった大陸から南方系モンゴロイドが移住してきた。そして、 弥生時代以後、北方系モンゴロイドの影響を受けたのが現在の和人であり、 あまり影響を受けなかったのが琉球(沖縄)人とアイヌ人だというもので ある。

【城口千純:http://www.w-digest.com/mm/mm0002/bk/000018.html 】

私の見解では、氷河期の陸続きであった時代に縄文人といわれる南方系モンゴロイドが、日本へ移って来た。その時、そこに留まるものもいたが、どんどん北へ北へと移動して行ったと思われる。とすると、弥生人が大陸から入ってくるまでは、縄文人が日本のほぼ全土で生活していたと考えられる。これは、歴史的視点から裏付けられる。

(図1)

【いつから日本の歴史に登場するか:http://www.ainu-museum.or.jp/nyumon/nm04_rks02.html 】

図1は、日本の正史とアイヌ史(北海道民俗史)を比較したものであるが、北海道に人が住みつき始めたのは、今から約30000年前(先土器時代)とされており縄文人の出現が、本州では、B.C.90年、北海道ではB.C.70年と20年のブランクがあるが、その間に移動してきたのではなく、その時点で移動自体が完了したのではないかと思われる。

北海道に人が住みついたのは、いまから約30000年前(先土器時代)といわれています。静内では、約9000年前から人が住んでいたことが遺跡の調査によって確認されています。その後、約2000年前まで縄文時代がつづき、古墳、奈良、平安時代と移りかわり鎌倉、室町時代には、アイヌ文化になっていたと考えられますが古墳時代以前土器・石器を使っていた人々と、鎌倉・室町時代以降のアイヌの人々が、まったく違う民族とは考えにくいのです。それは文化の差にともなう民族移動の記録、伝承がまったくみられないからです。古い時代から周辺の民族との混血はあったと思われますが、基本的には同じ民族であることに変わりはなかったといえます。

【静内地方のアイヌ文化:http://www.hokkai.or.jp/shizunai/roots/ainu01.htm 】

アイヌの歴史には、正確な記述が無いため口頭による伝承(口承)を研究するほか無いが、人種間の移動の歴史はDNAに記述がなされている。DNAは、人が文字を使った記述を行うより正確な事実が見出せる。

「チリの北カトリック大学には、約6000年前のミイラが保管されている。この古代ミイラからミトコンドリアDNAを抽出し、現代のアンデスの人々のDNAと比較してみる。 インカ帝国の首都だったクスコの町、今でもアンデスの中心都市である。そこに先祖代々、居住しているラウル・アパルさんよりDNAを抽出し、ミイラと比較する。今まで過去58体のミイラからミトコンドリアDNAの抽出に成功、それら58体のミイラとラウルさんのDNAを比較した結果、12体のミイラのDNAの文字配列(564文字)が全て一致した。

すなわち、ラウルさんは約6000年前にクスコに住んでいた人々の子孫であることが、科学的に証明されたのである。

そして今度は、縄文人(アイヌ人)とラウルさんのDNAの比較。(アイヌ人は現代の日本人のなかで、もっとも縄文人に近いのである。もちろん、比較に使用されたアイヌ人の血液は、1970年代に採血された純粋なアイヌ人の血液からである。)564文字の文字配列のうち異なるのは、わずか2カ所だけであった!!これまでに調べられた全世界の2万7千人すべての人の中で、ラウルさんに最も近いのがアイヌ人だった。つまりアンデスに渡った人々と縄文人アイヌは同じモンゴロイドの中でも飛び抜けて近い関係であると判明した。

「北海道」と「アンデス」 地球の正反対に住んでいる人々の祖先は、かつてアジア大陸で一緒に暮らしていたことが、科学的に証明されたのである。」

【崩れ行くモルモン書 DNA鑑定による南米大陸にすむ人々の祖先:http://www.linkclub.or.jp/~sigehata/indian.html】

上述のことは、縄文人(アイヌ人)とアンデスに渡ったモンゴロイドのDNA比較であるが、1万3千年前の氷河期にベーリング海峡を横断したとすることと、北海道に住んでいる人々(アイヌ人)の祖先と、アンデスに住んでいる人々の祖先が同じであるという事実は、アンデスに住んでいる人々の祖先は南方系モンゴロイドとなる。確かに、タイ人とペルー人を比較すると似ている気がする。また、アメリカインディアンの衣装と、アイヌ人の衣装も多少形は違えども、類似する点が多い。違いが見られるのは、生活環境の違いから身体を保護する様相が違うためと考えられる。

この他にも、共通点が2つ考えられる。1つ目は、精神観が自然と強く結びついているということだ。自然崇拝といってもいいが、自然そのものを崇拝するという場合とそうでない場合があるため、得てしてその言葉をあえて用いなかった。だが、自然のあらゆるものに神が宿るという思想は、共通していえる。

もう一つは、他の民族による弾圧である。このこともなぜか共通している。アイヌ人は和人に、アメリカインディアンは入植者であるヨーロッパ人(主にイギリス系ピューリタン)に、アンデス人はスペイン人にそれぞれ、土地を奪われ言われ無き弾圧を受けてきたという歴史がある。それは、マイノリティーであるが故のものであったのか、それともそれとは別に因果関係が存在していたのかは、わからない。

アイヌ民族の歴史

アイヌ民族の歴史を調査することは、大変難しい。なぜならば、アイヌ民族は歴史を記録しなかった民族であるためである。口承文学というものがあるが、これはどれくらい歴史的事実を反映しているのか定かでなく、検討もまだ不十分である。そのため、外からアイヌを観た歴史的記述を主に用いるのだが、実際の歴史が正確に記されているとは限らないので、アイヌの伝承と比較しながら検討していくという作業を要するのである。

多くのアイヌの歴史を記述した書籍があるが、実際に信頼度の高いものはないといってよく、アイヌ史は、研究され始めた領域といっていいだろう。

アイヌが日本史に記述されたはじめのものは、『古事記』とされる。「『古事記』の中巻には、ヤマトタケルの説話があって、それには、東の「まつろはぬひとども<服従しない人々>」を平らげたとみえます。また『日本書記』[神武天皇]のところをみますと「えみしをひたり ももなひとひとはいへとも たむかいもせす」という歌があります。歌の意味は、「えみし一人で百人に当たると人はいうけれども抵抗もしない」というのです。

【いつから日本の歴史に登場するか:http://www.ainu-museum.or.jp/nyumon/nm04_rks02.html】

ここで、蝦夷(えみし)という言葉があることに注目してもらいたい。征夷大将軍とは、「平安時代初期に蝦夷征討のために置かれた臨時の官。794年大伴弟麻呂がはじめて任ぜられた。」【広辞苑:1214】このとき、大伴弟麻呂が遠征に行った先は、今の東北地方だといわれている。東北地方には、アイヌ語と思われる地名が数多く残っている。例えば、山形県寒河江市(さがえし)。サガエという言葉はアイヌ語だというひとがいる。個人的見解では、アイヌ語の「サカンケ(干す)」という言葉なのではないかと思われる。理由としては、寒河江市は山形盆地内に位置し、魚などは乾燥したものでなければ食べることは出来なかった。また、冬になると積雪により木の実や動物の影は消えてしまう。そのため、冬に備え食べ物を保存が利くように乾燥させなければならなかった、ということからも考えられる。

その後も、征夷大将軍を駆り蝦夷討伐に向かった和人は、アイヌの人々を徐々に北のようへと追いやって行った。『古事記』や『日本書紀』が書かれた時代から累則すると、7,8世紀頃には本州にはアイヌ人はいなくなっていたと思われる。その後、江戸幕府の松前藩までは北海道に和人が正式に進出した記録が無いので、その間は平穏無事に北海道で生活していたと思われる。しかし、江戸期に入り松前藩が北海道に置かれるようなると、アイヌ人は次第に和人に支配される形になっていった。

江戸時代の北海道は蝦夷地と呼ばれ、そこに松前藩がおかれていたということはよくごぞんじのこととおもいます。当時の北海道は米がとれませんでしたから、松前藩はたとえば加賀百万石というように米の取れ高によって藩の大きさを表すことができません。松前藩が一万石格などとされるのはそのためなのです。家臣の給料も米で支払うことはできませんから、松前藩では、主だった家臣に蝦夷地をいくつかに分割してその一部を与え、そこでアイヌの人々と交易することを認めました。これを場所といい、場所を与えられた家臣を知行主といいます。交易で得られた収入がその家臣たちの知行(給料)になるのです。

ところで、松前藩は、アイヌの人々を交易の相手としてみていただけで、あまり彼らの生活に干渉しませんでした。ですから、よくいわれるような、松前藩がアイヌの人々に対して日本語を学ぶことを禁じたということはなく、場所請負の商人たちが、アイヌの人々を支配しやすくするためにとっていた手段なのです。

はじめは、知行主が直接場所へ出かけ交易にあたっていましたが、後には商人が知行主に上納金(運上金=うんじょうきん=といいます)をおさめ、そこでの交易を請け負うようになります。これが場所請負制(ばしょうけおいせい)です。17世紀後半以降、アイヌの人々は、場所請負制の枠の中にはめられていき、商人の横暴による苦しい生活を余儀なくされます。

【江戸幕府や松前藩とアイヌ民族の関係:http://www.ainu-museum.or.jp/nyumon/nm05_rks03.html】

江戸期以降、明治、大正、昭和までアイヌ人は和人からは差別的扱いを受けていた。そのため、江戸期には大きな争いが3度も起こっている<資料1>。しかし、これらの争いはアイヌ人の敗北で終わり、そのことによりアイヌ人の立場はますます悪化の一途を辿ることになる。

場所請負制はアイヌの人々及びその文化や社会生活に大きな影響をあたえました。極端な言い方をすれば、請負商人はアイヌの人々に対して生殺与奪の権さえもっていました。生産性を上げるためにはアイヌの人々を人間としてではなく、牛馬のように扱っていたのです。松前藩はこれら請負人の非道に対して何の対策も講じませんでしたが、松浦武四郎は『近世蝦夷人物誌』の中で松前藩や請負人を強く批判しています。この本は、たいていの図書館にもありますので、ぜひ一度読んでいただきたいとおもいます。

江戸幕府の政策は、あくまでも国防という観点からのもので、積極的にアイヌの人々やアイヌ文化を守ろうとの姿勢があったわけではありませんし、明治政府は以後もまた同様でした。

【江戸幕府や松前藩とアイヌ民族の関係:http://www.ainu-museum.or.jp/nyumon/nm05_rks03.html】

明治期に入ると、日本政府は、北海道の開拓にいっそう力を注いだ。和人であれば、申請すれば10万坪の農業用地が付与されていたが、アイヌ人は狩猟民族であるため土地という概念が少なく、字も読むことさえ出来ず、十分な説明もされなかったため農業用地を付与されなかった。また、開拓民による乱獲もあったために、アイヌ人の生活はますます貧困に瀕するようになった。

そうした中、1899年(明治32年)に「北海道旧土人保護法」が制定された。旧土人とは言うまでもなくアイヌ人のことで、土地を付与して農業を奨励し、医療や教育などの保護を行うことが目的とされている。アイヌ人には農地として一人1万5千坪の土地を与えた。しかし、肥沃な大地は開 拓民が開発を進めていたため、農業もできないような土地を与えたに過ぎず、一定期間で農地にできないと土地は没収された。また、狩猟民族であるアイヌ人の漁業権や狩猟権を否定し、それを行うことを制限した。保護という名のもとの教育は、アイヌ人を日本人化させる方法でしかなかった。

この法律の背景には、北海道での権益を守ることと同時に、北の脅威であったロシアの影響を受ける前に、アイヌを日本人化してしまいたいという面もあったと言われる。日本人になれないアイヌ人は劣等とされ差別されたが、仮に日本語を話して農業で成功してもやはりアイヌとして差別さ れた。アイヌ人の中には自分がアイヌであることを隠す者も多かった。

【城口千純:http://www.w-digest.com/mm/mm0002/bk/000018.html】

このことから、アイヌ人という言葉が差別用語として使われるようになったのである。そのご、大戦を経て日本が経済復興を成しえた時期になっても、この言葉は意識的に使用され、1997年に制定された「アイヌ文化振興法」が制定されるまで、続いていた。この法案が制定されてまだ間もないということもあるので、差別用語としてのアイヌ人という言葉が残っていると思われる。

また、こうした中で、日本は15年に及ぶ長い戦争の時代へと突入していくのである。戦時中には、アイヌ人も旧土人保護法の下で日本人として戦争に参加していたのである。しかし、大戦末期になると日本人と同様にイヌ人への配慮が行き届かなくなった。

終戦を迎え、日本は都市部では英国の指導、北海道では米国の指導の下でそれぞれ復興政策を進めた。日本政府がGHQに対してアイヌに関する満足な説明をしなかったのか、あるいはできなかったのかは分からないが、北海道では多くのアイヌの土地が、歴史を踏まえないまま不当な価格で国に払い下げられた。

1953年、日本政府は国連に対し、アイヌはすべて同化し、先住民や少数 民族はすでに存在しないと報告している。事実は異なり、北海道で多くのアイヌが差別を受けた。アイヌ人の中には、積極的に日本人に同化することが豊かになることだと考える者もあった。あえてアイヌだということを言うとかえって差別される、すなわちアイヌが劣等だということを自ら認めてしまうようなこともあったという。

間違いを恐れずに言えば、アイヌへの差別が未だに問題となっている背 景には、和人の無知だけでなく、アイヌ自身がクナシリ・メシナの反乱以後、団結して戦ってこられなかったことも一因となっていると思われる。アイヌ人でも、積極的に日本人になろうとした者と、それを拒んで戦った者の間には大きな意識の差があったのである。

【城口千純:http://www.w-digest.com/mm/mm0002/bk/000018.html】

1953年に国連に発表したことを、中曽根元首相が「日本人は単一民族だ」と発言して世界的に非難を受けた。 また、先述したことのなかに差別の要因は、アイヌ人の方にも存在していると言った内容のものがある事にも注目したい。

こうした反アイヌの体制が大きく崩れるきっかけを作った事件が有る。1993年から1997年まで行われた、「二風谷(にぶたに)ダムを巡る裁判」である。

「二風谷にはアイヌ人が多く居住し、遺跡や伝統行事チプサンケの場となっていた。同地へのダム建設が計画されたのは、大規模工業団地の計画に 伴う工業用水供給のためであったが、計画の縮小によりダムの必要性がなくなった。1986年、建設大臣は二風谷ダムの計画を刷新して新たに事業認定したが、アイヌ側として文化は金銭や移転などでは代替することができないとして、1993年に行政訴訟に踏み切った。

1997年3月、結果的にはアイヌ側の主張が受け入れられ、「アイヌ民族 は先住民族であり、独自の文化に最大限の配慮をしなければならないのに、国はダム建設によるアイヌ民族の文化享有権などへの影響について十分な調査を怠り、これらの価値を軽視または無視してダムの事業認定をした。

この事実認定は違法であり、この認定に基づいて行われた被告・北海道土地収容委員会の土地強制収容裁判も違法である」という判決が下った。

しかし、すでに1996年4月のダムの試験貯水で、アイヌの土地は返らぬものとなった。ちなみに、1996年8月には、アイヌの伝統行事チプサンケを行うために、特例措置として水門が一時的に開かれ、例年と同じ場所で行事が実施された。

この二風谷ダム裁判以外に、現在、厚岸アイヌの土地を巡る裁判が進行中であるが、一般のマスコミでこの問題が取り上げられることは滅多になく、こうした問題が未だにあることを知らない人も多いだろう。」

【城口千純:http://www.w-digest.com/mm/mm0002/bk/000018.html】

この裁判をきっかけとして、アイヌ民族の文化を保護しようとする動きが高まり、1997年3月に上述の判決がでたわずか2ヵ月後の、5月に「アイヌ文化振興並びにアイヌの伝統等知識普及及び啓発法(アイヌ文化振興法)」<資料2>が制定された。また、これにより「旧土人保護法」がやっと廃止され、アイヌ民族の先住権が法律で認められたことになる。この先住権は、国際法上の権利であるためアイヌ民族は先住権に対して日本国と平等な立場に位置するとされている。

アイヌの現状とまとめ

現在は、市立函館博物館や函館市立北方民族資料館、静内町によるアイヌ文化の保存、その他大勢のアイヌ研究家の手で、アイヌ文化の振興及び保全が行われているが、アイヌに対する差別はいまだ消えていない。そして、判決の出ていない訴訟もある。

昨年7月には、アイヌ文化振興法に基づいて北海道が進めているアイヌ民族の共有財産の返還方法に反対しているアイヌ人24人が、「アイヌ民族の意思を無視した一方的な返還手続きは財産権の侵害で違憲」として、道知事を相手に返還手続き処分の無効確認を求める行政訴訟を起こしている。

今後も様々な問題が出てくると思われ、アイヌ人にとってはスタートラインに立ったばかりというところだろうか。

【城口千純:http://www.w-digest.com/mm/mm0002/bk/000018.html】

先住民として、国際的に認められてもなおも、こうした訴訟が起こっている。逆の見方をすれば、国際的に先住民として認められたので、こうした訴訟が起こしやすくなったとも言える。8世紀頃から虐げられてきた歴史には、ピリオドを打つことが出来たが、和人との争いにはまだピリオドを打つことは出来ていないようだ。

感想

今回、アイヌ民族の歴史と現状というテーマでレポートを書いてみたが、アイヌに関するホームページがかなりあったことには驚いている。インターネットは、人々が何に関心を持っているのかを調べる時大変役に立つ。インターネット内に出ていた書籍だけでも、かなりの量があった。書店で実際に出ている書籍とあわせると、結構な数だ。書籍の初版年代を見てみると圧倒的に1970年代以降に書かれたものが多かった。これの意味するところは、実際わからないがその頃からアイヌに関心が高まったのではないかと思われる。

また、アイヌの文化を知ることで数多くの類似点が有る民族がいることに気が付いた。それは、アメリカインディアンとインカ・アステカ文明を築いたインディアンである。まず、文字をもたなかったことがある。数多くある民族でも文字を持たない民俗は少ない。それも、南方系モンゴロイド(縄文人)である可能性が高いのではないだろうか。また、どの民族も大航海時代以降搾取される側になっているという点だ。これは、アフリカのあらゆる部側にも共通して言える。文字の有無がこれほど民族間に差を生んでしまうものなのだろうか。また、ルーツのところで少し言及したが、衣装も環太平洋少数民族に於いては類似点が有る。生活する場が違うので全く同じ衣装を身にまとった民族は確認できないが、多少なりとも類似点は挙げられると思う。最後に、これらの民族は狩猟民族であるということだ。エスキモーはアザラシや魚、トナカイなどを狩る。アメリカインディアンは野生の動物(野兎など)、アイヌでも鮭や兎を狩るし、アンデスのインディアンはジャガイモを栽培するが、狩りをするという習慣は伝統行事や祭事に執り行われる場合があると聞く。

このような文化的側面からも、南方系のモンゴロイドは太平洋を囲むように移動したと考えられる。

これらの確証を得るためには、実際に調査しより深く研究しなくてはならないが、少なくとも、次回に繋がる布石的なレポートになったことは大変喜ばしいことだ。

資料編

資料1

コシャマイン・シャクシャインの戦い

アイヌ民族とシサムとの歴史上、最も重要な戦いが三度ありました。

  • 1457(長禄1)年 コシャマインの戦い
  • 1669(寛文9)年 シャクシャインの戦い
  • 1789(寛政1)年 クナシリ・メナシ地方のアイヌの蜂起

以上がそれですが、もちろんこのほかにも大きな戦いはいくつかありました。それらについては年表2を参照してください。

この三度の戦いは、アイヌ民族にとってはシサムとの関係のうえで大きな転回点となりました。まず、コシャマインの戦いからみてみましょう。

コシャマインの戦い

1456(康正2)年の春のことです。箱館に近いシノリ(志海苔)の村で一人のアイヌの少年が、シサムの鍛冶屋にマキリ(小刀)を打たせました。ところが、そのマキリの切れあじをめぐって二人のあいだに口論がおき、鍛冶屋はアイヌの少年を刺し殺してしまったのです。この事件をきっかけに、道南のアイヌの人々がシサムに対して一斉に立ち上がりました。以後長く大闘争の時代が続きますが、その最大のものが、コシャマインの戦いなのです。

1457(長禄1)年5月14日、コシャマインを大将とするアイヌ軍が箱館をはじめとする道南各地の館(たて=俗に十二館というシサムの拠点)を襲います。アイヌ軍は強く、次々と館をおとし、残るは二館のみという状態になりますが、花沢の館(現在の上ノ国町)にいた武田信広によってコシャマインがうたれると(一説に6月20日)、アイヌ軍は敗れ、シサム軍が道南を回復し、さしもの戦いも終わります。

コシャマインを討った武田信広は、後に、蠣崎(かきざき)氏の養子となり、やがて松前藩の藩祖となります。

シャクシャインの戦い

アイヌ民族とシサムとの最大の戦いですが、その発端となったのは、パエ(現在の門別町)のアイヌとの20年にもおよぶイウォル(領地)をめぐる争いでした。

1640年代、パエの首長はオニビシ。シプチャリの長はカモクタイン、副首長がシャクシャインでした。1648(慶安1)年、シャクシャインがオニビシの部下を殺すという事件が起こります。このときは、松前藩が調停に入ったのですが、5年後の1653(承応2)年に、パエのアイヌがカモクタインを殺してしまいます。その後、両者は小さな争いを繰り返し、そのつど松前藩が間に入っていたのですが、だんだん険悪な状態となり、1668(寛文8)年4月にはとうとうオニビシが殺されます。

パエのアイヌは、松前藩に救援を求めに行きますが、その帰途、使者の数人が急死してしまいます。これが、松前藩による毒殺と伝えられ、アイヌの人々の間にシサム不信が強まります。

シプチャリの乙名になっていたシャクシャインは、このままでは松前藩によってアイヌの人々が皆殺しにされると訴え、各地のアイヌの人たちを反シサム、反松前としてまとめます。

こうして、1669(寛文9)年6月、シラヌカからマシケに至るアイヌの人々が一斉に蜂起して、シサムに対する大戦争が開始されます。はじめ、アイヌ軍が優位の内に戦いが進められますが、クンヌイ(長万部町国縫)の戦い以後は、アイヌ軍の勢力が分断されたこともあって、シサムが優位となり、ついに、10月23日松前軍とシャクシャイン軍とは和解することになります。ところがこれは偽りの和解で、その祝いの席でシャクシャインが殺されてしまいます。指導者を失ったシャクシャイン軍は、結局は敗れ去り、以後は長くアイヌの人々の虐げられた生活が続くことになります。

クナシリ・メナシのアイヌ蜂起

シサム、とりわけ場所請負人たちのアイヌの人々に対する過酷な扱いや、不公正な賃金の支払いなど非道のふるまいが横行するとアイヌの人々の間にシサムへの不満が増大していきます。

1789(寛政1)年5月、クナシリ島の人々がまず立ち上がり、ついでメナシ地方(現在の根室支庁管内目梨郡一帯)の人々が立ち上がります。かれらは、シサムの運上屋などを襲い、番人たちを殺害するに至ります。この蜂起は、シャクシャインの時とは違い、組織だった蜂起というよりは一揆のようなものでしたから、松前の正規軍と一戦も交えないうちに、長老たちの説得で戦いを止めます。

蜂起の指導者であるマメキリたち7人は、7月21日に死刑となります。しかし、このとき一緒に捕まっていたアイヌたちが騒ぎだしたため、全員が鉄砲などで撃ち殺されてしまいます。

蜂起そのものは、わずかな期間で終わりますが、この後遺症は大きく残りました。マメキリらを説得した長老たちは、イコトイ、ションコアイヌ、ツキノエなどといった人々ですが、身内には蜂起に参加した者もおりました。この人々を松前藩は、御味方蝦夷と呼び、その肖像画も残されていますが、かれらの心中は如何ばかりであったでしょうか。

この蜂起を最後にシサムとアイヌ民族の戦闘は終わりを告げます。しかし、それは両者が理解し合って得た平和の訪れでなかったことはいうまでもありません。

年表2 アイヌの大闘争時代

(松前藩の記録にあらわれたもの)

1456 蝦夷蜂起
1457 東部首長(コシャマイン)蜂起
1469 蝦夷蜂起
1473 蝦夷蜂起
1512 蝦夷蜂起
1513 蠣崎光広、大館を攻む
1515 東部首長(ショヤ、コウジ兄弟)の蜂起
1525 東西蝦夷の蜂起
1528 蝦夷の蜂起
1529 西部首長(タナサカシ)の蜂起、セタナ来寇
1531 蝦夷蜂起
1536 西部首長(タナサカシの女婿タリコナ)の蜂起
<以後東西地とも平安となる>
1551 初めて東西の夷尹を定める。東地チコモタイヌ(知内)、西地ハシタイヌ(瀬田内)
1643 西部首長(セタナイのヘナウケ)の蜂起
1648 東部蝦夷間の抗争
1651 東部メナシクルとシコツクルとの抗争(1648と同事件か)
1653 東部メナシの蝦夷蜂起
1655 シャクシャインとオニビシの和解
1662 東部の蝦夷騒乱
1665 東部の蝦夷和解(下国安季のあっせん)
1669 シャクシャインらの蜂起 10月23日、シャクシャイン謀殺
1670 西部与伊知(よいち)の蝦夷を征す
1671 東部之良遠伊(しらをい)の蝦夷を征す
1672 東部久武奴伊(くんぬい)の蝦夷を征す
1758 ノシャップの蝦夷とソウヤの蝦夷の抗争
1770 十勝の蝦夷と沙流の蝦夷の抗争
1789 クナシリ、メナシの蝦夷の蜂起(最後の対和人闘争)

http://www.ainu-museum.or.jp/nyumon/nm06_rks04.html 2001.9/19閲覧

資料2

アイヌ文化の振興ならびに伝統等に関する知識の普及に及び啓発に関する法律

目的

第一条
この法律はアイヌの人々の誇りの源泉であるアイヌの伝統及び文化(以下「アイヌの伝統等という」)が置かれている状況にかんがみ、アイヌ文化の振興ならびにアイヌの伝統等に関する国民の知識の普及及び啓発(以下「アイヌ文化の振興等」という)を図るための施策を推進することにより、アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現を図り、あわせてわが国の多様な文の発展に寄与することを目的とする

定義

第二条
この法律において「アイヌ文化」とはアイヌ語ならびにアイヌにおいて継承されてきた音楽、舞踏、工芸その他の文化的所産及びこれから発展した文化的所産をいう

国及び地方公共団体の責務

第三条
国は、アイヌ文化を継承するものの育成、アイヌの伝統などに関する広報活動の充実、アイヌ文化の振興等に資する調査研究の推進その他アイヌ文化の振興等を図るための施策を推進するために必要な助言その他の措置を講ずるよう努めなければならない。

地方公共団体は、当該区域の社会的条件に応じ、アイヌ文化の振興等を図るための施策の実施に努めなければならない

施策における配慮

第四条
国及び地方公共団体は、アイヌ文化の振興等をはかるための施策を実施するにあたっては、アイヌの人々の自発的意思及び民族としての誇りを尊重するよう配慮するものとする。

基本方針

第五条
内閣総理大臣は、アイヌ文化の振興等は図るための施策に関する基本方針(以下「基本方針」という)を定めなければならない

基本方針においては次の事項について定めるものとする

  1. アイヌ文化の振興等に関する基本的な事項
  2. アイヌ文化の振興を図るための施策に関する事項
  3. アイヌの伝統等に関する国民の知識の普及及び啓発を図るための施策に関する事項
  4. アイヌ文化の振興等に資する調査研究に関する事項
  5. アイヌ文化の振興等を図るための施策の実施に際し配慮すべき重要事項

内閣総理大臣は、基本方針を定め、又はこれを変更しようとするときは、あらかじめ北海道開発庁長官及び文部大臣その他の関係行政機関の長に協議するとともに、次条第一項に規定する関係都道府県の意見を聴かなければならない

内閣総理大臣は、基本方針を定め、又はこれを変更したときは遅滞無くこれを公表するとともに、次条第一項に規定する関係都道府県に送付しなければならない

基本計画

第六条
その区域の社会的条件に照らしてアイヌ文化の振興等を図るための施策を総合的に実施することが妥当であると認められる都道府県(以下「関係都道府県」という)は、基本方針に即して、関係都道府県における文化的振興等を図るための施策に関する基本計画(以下「基本計画」という)を定めるものとする。

基本計画においては次に掲げる事項について定めるものとする

  1. アイヌ文化の振興等に関する基本的な方針
  2. アイヌ文化の振興を図るための施策の実施内容に関する事項
  3. アイヌの伝統等に関する住民に対する知識の普及及び啓発を図るための施策の実施内容に関する事項
  4. その他アイヌ文化の振興等を図るための施策の実施に際し配慮すべき重要事項

関係都道府県は、基本計画を定め、又は変更したときは遅滞無く、これを北海道開発庁長官及び文部大臣に提出するとともに公表しなければならない

北海道開発庁長官及び文部大臣は、基本計画の作成及び円滑な実施の内容の促進のため、関係都道府県に対し必要な助言、勧告及び情報の提供を行うよう努めなければならない

指定等

第七条
北海道開発庁長官及び文部大臣は、アイヌ文化の振興等を目的として設立された民法(明治29年法律第89号)第34条の規定による法人であって、次条に規定する業務を適正かつ確実に行うことができると認められるものを、その申請により、全国を通じて一に限り、同条に規定する業務を行う者として指定することができる

北海道開発庁長官及び文部大臣は、前項の規定による指定をしたときは、当該指定を受けた者(以下「指定法人」という)の名称、住所及び事務所の所在地を公示しなければならない

指定法人は、その名称、住所又は事務所の所在地を変更しようとするときは、あらかじめ、その旨を北海道開発庁長官及び文部大臣に届け出なければならない

北海道開発庁長官及び文部大臣は、前項の規定による届出があったときは、当該届出に係る事項を公示しなければならない

業務

第八条
指定法人は、次に掲げる業務を行うものとする。

  1. アイヌ文化を継承する者の育成その他のアイヌ文化の振興に関する業務を行うこと
  2. アイヌの伝統等に関する広報活動その他の普及啓発を行うこと
  3. アイヌ文化の振興等に資する調査研究を行うこと
  4. アイヌ文化の振興、アイヌの伝統等に関する普及啓発又はアイヌ文化等の振興に資する調査研究を行う者に対して、助言、助成その他の援助を行うこと
  5. 前各号に掲げたるもののほか、アイヌ文化の振興等を図るために必要な業務を行うこと

事業計画等

第九条
指定法人は、毎事業年度、総理府令、文部省令で定めるところにより、事業計画及び収支予算書を作成し、北海道開発庁長官及び文部大臣に提出しなければならない。これを変更しようとするときも同様とする

前項の事業計画書は、基本方針の内容に即して定めなければならない

指定法人は総理府令・文部省令で定めるところにより毎事業年度終了後、事業報告書及び収支決算書を作成し、北海道開発庁長官及び文部大臣に提出しなければならない

報告の徴収並び立入検査

第十条
北海道開発庁長官及び文部大臣は、この法律の施行に必要な限度において、指定法人に対しし、その業務に関し報告をさせ、またその職員に指定法人の事務所に立ち入り、業務の状況若しくは帳簿、書類その他の物品を検査させ、若しくは関係者に質問させることができる

前項の規定により立ち入り検査をする職員は、その身分を示す証明書を携帯し、関係者の請求があったときにはこれを提示しなければならない

第一項の規定による立入検査の権限は、犯罪捜査のために認められたものと解してはならない

改善命令

第十一条
北海道開発庁長官及び文部大臣は、指定法人の第八条に規定する業務の運営に関し改善が必要であると認めるときは、指定法人に対し、その改善に必要な措置を講ずべきことを命じることができる

指定の取り消し

第十二条
北海道開発庁長官及び文部大臣は、指定法人が前条の規定による命令に違反したときは、その指定を取り消すことができる

北海道開発庁長官及び文部大臣は、前条の規定により指定を取り消したときは、その旨を公示しなければならない

罰則

第十三条
第十条第一項の規定による報告をせず、若しくは虚偽の報告をし、又は同項の規定による検査を拒み、妨げ、若しくは忌避し、若しくは同項の規定による質問に対して陳述をせず、若しくは虚偽の陳述をしたものは、二十万円以下の罰金に処する

法人の代表者又は代理人、使用人その他の従業員が、その法人の業務に関し、前項の違反行為をしたときは、その行為者を罰するほか、その法人に対して同項の刑を課する

附則

第一条
この法律は、公布の日から起算して三月を越えない範囲内において政令で定める日から施行する

第二条
次に掲げる法律は廃止する

  1. 北海道旧土人保護法(明治32年法律第27号)
  2. 旭川市旧土人保護法(昭和九年法律第9号)

第三条
北海道知事は、この法律の施行の際現に前条の規定による廃止前の北海道旧土人保護法(次項において「旧保護法」という)第10条第一項の規定により管理する北海道旧土人共有財産(以下「共有財産」という)が次項から第四項までの規定に定められるところにより共有者に返還され、又は第五項の規定により指定法人若しくは北海道に帰属されるまでの間、これを管理するものとする。

北海道知事は、共有財産を共有者に返還するため、旧保護法第10条第三項の規定により指定された共有財産ごとに、厚生省令で定める事項を官報で広告しなければならない。

共有財産の共有者は、前項の規定による公告の日から起算して一年以内に、北海道知事に厚生省令で定めるところにより、当該共有財産の返還を請求することができる。

北海道知事は、前項に規定する期間の満了後でなければ、共有財産をその共有者に対し、返還してはならない。ただし、当該期間の満了前であっても、当該共有財産の共有者の全てが同項の規定による請求をした場合にはこの限りではない。

第三項に規定する期間内による請求をしなかったときは、当該共有財産は、指定法人(同項に規定する期間が満了した時に第七条第一項の規定による指定がされていない場合にあっては北海道)に帰属する

前項の規定により共有財産が指定法人に帰属したときは、その法人は、当該帰属した財産をアイヌ文化振興のための業務に要する費用に充てるものとする。

(地方自治法・北海道開発法・文部省設置法の一部改正)省略
(法案提出理由・衆議院附帯決議省略)

代表 田畑重志 最新更新日2001年9月20日

http://member.nifty.ne.jp/Tabata/ainu.htm 反差別ネットワーク人権研究会 2001.9/19閲覧

参考文献一覧

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  • 『アイヌ民族に歴史はあるか』
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  • 『いつから日本の歴史に登場するか』
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  • 『江戸幕府や松前藩とアイヌ民族の関係』
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  • 保科智治(市立函館博物館五稜郭分館)1999
  • 『アイヌ支配に関する一考察~3点の史料紹介から~』http://www.wsnet.ne.jp/~hakodate/kitamae/hoshina/0frame.html 2001.9/19閲覧
  • 2000年8月21日更新 『アイヌ語の話されていた地域』http://ramat.ram.ne.jp/itak/area.htm#top 2001.9/19閲覧
  • 2001/08/06 『アイヌ文化12世紀発生の呪縛』
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  • 北 海 道 教 育 委 員 会 『アイヌ人たちの文化や歴史について』http://www.dokyoi.pref.hokkaido.jp/hk-stkik/kodomo/ainu.html 2001.9/19閲覧
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  • 坂口千純 2000.1.27 『アイヌ民族と日本人の誇り――わが国の少数民族』
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    http://www.wnn.or.jp/wnn-history/jomon/sannai-file/other/other/other.html 2001.9/19閲覧
  • 『差別用語について』 手塚治メーリングリスト
    http://www.osamushi.com/about_kinshi.html 2001.9/19閲覧
  • 横山裕之 1999.2.11更新 『白老のアイヌ語単語集』
    http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/6362/aynu.htm 2001.9/19閲覧
  • 新村出・編 1980 『広辞苑 第二版補訂版』 岩波書店