3/05/2007

Simple is best

シンプル・イズ・ベストなどとよく言われますが、簡単な事などそんなに多くありません。世の中複雑にできているのです。
しかし、もう一方では、世の中が複雑だからこそ、簡単なものは、受け入れやすいとも言えます。

文章も、簡単なものほど多くの人に受け入れられます。よく、執筆の指南本では、小学生5,6年生ぐらいでも読めるような文章にするといいと言われています。

日本は、他の国に比べると知的水準が高いと言われていますが、それは、読み書き、そろばんの事で、考え方や理解能力のそれとは違います。本当の意味での知的レベルとは、考え方や理解能力の事をさしています。いわゆる「知恵」のことです。

前職では、人材に関わる仕事をしていましたが、そのときに読んだ「ビル・ゲイツの面接試験」という本には、その答えのような事が書いてありました。
また、コンサルティングという仕事に置いても、同様のスキルが要求されます。

それは、「単純な問題ほど、答えまでの過程は複雑で、複雑な問題ほど答えまでの過程は単純」ということがポイントです。また、解けない問題というものも存在していますが、ポイントは、その解けない問題に対してどう向き合うか?という姿勢の部分がポイントです。

ちなみに、数学では今でも解けない問題がいくつか存在します。(回答できれば1億円です:数学21世紀の大難問)これらに共通しているのは、問題自体が非常に単純ということです。
例えば、「どんな掛け方をされた輪ゴムも無理なくはずせるような、手の上に乗る1つの物体は、滑らかに球に変形できるはずであるという予想を数学的に証明しなさい」という問題は、一見すると簡単そうに見えますが、ポアンカレ予想と呼ばれる、ミレニアム賞問題の一つです。(単連結な3次元閉多様体は3次元球面S3に同相である)


いきなりですが、ここで問題です。

一辺が2cmの正四面体の体積を求めなさい。





解けるでしょうか?

実は、正四面体の体積問題には、いくつかの解き方があります。一つは、底面積×高さ×1/3。正四面体は、立方体の四つの角を切り落とした残りの形です。
こっちから求めれば、面倒な計算をしなくても、暗算でできてしまいます。

二つ目は、下記の公式を使います。



aには一辺の長さが入ります。

三つ目は、三平方の定理を利用した解法があります。この解き方で進めていくと、最終的には、二つ目にあげた公式が出てきます。しかし、これは最も計算が多く一番めんどくさい解き方です。

2つ目の公式を使えば、計算も楽で簡単に答えを出す事が可能です。ここで問題になっているのは、「正四面体の体積を求める」事なのですから、答えが合っていれば、どんな解き方をしてもよいのです。はじめにあげた解法も簡単に計算可能ですが、正四面体だけを考えているとこの考え方にまで行き着きません。問題に対するパラダイムシフトが必要です。しかし、答えは正確に出せます。

数学においては、答えが合えば正解ですが、問題を出す側としては、その考え方に興味を持っているのです。しかも、社会生活においては、この考え方の方が重要だったりします。
知恵として一つ目の考え方を知っていれば、簡単に答えを出す事が可能でしょう。豊富な知識があれば、二つ目の公式だけで解いてしまうかもしれません。三つ目の方法は、そうした事をせず、知っている知識だけで対応しなければならないやり方です。「単純な問題ほど、答えまでの過程が複雑になる」理由には、そうした方法論でしか、その問題に対処できないからです。
より知恵をつけるか、もっと知識を貯えるかすると、無駄な計算をする時間が省けますし、物事をよりシンプルに進める事ができるのだと思います。

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paradox

今の世の中、パラドックスは至る所に存在していますが、一般生活ではその存在にすら気がついていません。 しかし、一度その存在に気がついてしまうと、いろいろな物事が気になってしまうのも事実です。まるで、思春期の青年のような想いがそこにはあります。

ちなみにパラドックスとは、

  1. 一見すると筋が通っているように思えるにもかかわらず、明らかに矛盾していたり、誤った結論を導いたりするような、言説や思考実験などのこと。

  2. 数学において、公理系に生じた矛盾点のこと。

  3. 一般的な直感と反した、数学的に正しい解答や定理のこと。

  4. ある目標を追おうとすればするほどかえって目標から遠ざかったり、ある主義を貫こうとするがゆえにかえってその主義に反することをしなければならなかったりする状況。

逆説、逆理、背理と訳される。ギリシャ語で"para" は「反」「逆」を、dox" は「意見」という意味を表す。有名なものに、自己言及のパラドックスリシャールのパラドックスベリーのパラドックスがある。

本質的に、パラドックスは、「生か死か」「在るか無いか」のような二極が対立する論理において生じる。


ただ、矛盾とパラドックスは厳密には、本質的に異なる概念とされています。前者は本来は仮定(公理)がはっきりした状況で用いる言葉であるのに対し、後者は仮定がはっきりしないからこそ起こる矛盾を指します。

特にパラドックスは、物理・数学の分野でその本領を発揮します。数学に関わる既存のパラドックスは全て、仮定をはっきりさせない、いい加減な論理が原因になっているので、仮定をはっきりさせさえすればパラドックスは解消されます。19世紀までの数学は、今に比べればだいぶいい加減なもので、様々なパラドックスを内包していました。しかし20世紀以降、数学者の努力により、数学はより厳密なものへと変化し、これら全てのパラドックスは解消されました。

もともと、数学は哲学をよりわかりやすく説明するために取られた手段が、学問として確立した訳ですから、根本には哲学的問題を内包していても、何ら不思議ではなかったのです。しかし、実証主義の台頭によって疑う事を覚えてしまった学者たちが、仮定そのものに疑問を持つようになったことが、パラドックスの発見につながったのです。

こうした概念は、いくら形式的に説明したところで、よくわからないものです。

かなりわかりやすい命題があるので、ご紹介します。

  1. 抜き打ちテストのパラドックス

    ある先生は、学生に抜き打ちテストを行うために、次のことを公言した。
    「来週の月曜日から金曜日のうち、いずれかの日に抜き打ちテストを行う。」(抜き打ちテストだから、テストが行われる日は事前には予測できない。)
    これを聞いた学生は次のように推論した。
    まず、金曜日に抜き打ちテストがあると仮定する。すると、月曜日から木曜日まで抜き打ちテストがないことになる。そして、金曜の朝の時点で、今日が抜き打ちテストの日だと予測できてしまう。これは、抜き打ちテストであるということに矛盾する。よって、金曜日には抜き打ちテストがないことが分かる。

    次に、木曜日に抜き打ちテストがあると仮定する。すると、月曜日から水曜日まで抜き打ちテストがないことになる。そして、木曜の朝の時点で、木曜日か金曜日に抜き打ちテストがあることになるが、金曜日には抜き打ちテストがないことが分かっているので、今日が抜き打ちテストの日だと予測できてしまう。これは、抜き打ちテストであるということに矛盾する。よって、木曜日には抜き打ちテストがないことが分かる。

    同様に考えていくと、水曜日、火曜日、月曜日にも抜き打ちテストがないことが分かる。したがって、先生は抜き打ちテストを行うことができない。

    そして抜き打ちテストが発表された一週間が始まった。

    学生の予想通り木曜まで抜き打ちテストはなかった。しかし、金曜日になって先生が「では今から抜き打ちテストを行う。」と宣言したのである。すかさず学生が反論した。「抜き打ちテストは不可能です。昨日まで抜き打ちテストがなかった時点で、今日テストがあることは予測されます。このことは先生が公言した抜き打ちテストであることに反します。」

    すると先生はこう言ったのである。「君は今日抜き打ちテストが行われないと思っていた。ならば抜き打ちテストは成立しているじゃないか 」
    学生は「?? 」

    以上が抜き打ちテストのパラドックスである。

抜き打ちテストの意味のすり替えによっておこったパラドックスです。難しくいうと、「様相論理の決定不可能な命題を元にした間違った推論」などともいわれますが、簡単にいえば、「思い込みによる勘違い」です。

要するに、先生が「抜き打ちテストをすると言った事」に対して、この生徒はいつテストが行われるのか?という事を推測しようとしました。その結果、抜き打ちテストができないという結論を出した訳ですが、先生は「抜き打ちテストをする」とだけ言った訳ですから、先生の論理も正しい訳です。社会生活に置いては、このような状況を思い込みよる勘違いとして簡単に処理されている訳です。

複雑に物事を考えようとすればするほど、陥りやすいのが、パラドックスです。

クレバーな学生は、そんな反論をするかもしれませんが、スマートな学生は、抜き打ちテストのため、その日からテスト勉強をしていることでしょう。

これ以外にも、面白い命題は、様々あります。

  1. ゼノンのパラドックス
    カメを追いかけてカメのいた地点にたどり着いても、その時点でカメはさらに先に進んでいるため永久にカメに追いつくことはできない。アキレスとカメのパラドックスとも言う。

  2. 誕生日のパラドックス
    何人の人が集まると同じ誕生日の人がいる確率が0%以上となるか

  3. エレベーターのパラドックス
    エレベーターはいつも一方にばかり動いているように見える。

  4. ヒルベルトの無限ホテルのパラドックス
    無限に部屋のあるホテルは、満室であってもそれぞれn番目の客室の客にn+m番目の客室に移ってもらうことにより、さらにm人の客を泊めることができる。無限の客がやってきても入室可能。

  5. 親殺しのパラドックス
    タイムマシンで過去に行き、自分が生まれる前の自分の親を殺したとき、自分は産まれてこないことになる。またそうなると自分が居ないために親が殺されない。さらに、親は殺されないため自分は生まれてくる。という循環ができる。

  6. タイムマシンのパラドックス
    タイムマシンで過去に旅をすると、その途中でタイムマシンの製造過程を通過するためタイムマシンは分解してしまう。

社会生活を営む上で、こうした事を考えている人は、他人からは「小難しい人」と思われるかもしれません。

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10/31/2006

music

高校時代~大学時代まで音楽を趣味にバンドから作曲までやっていました。

ただ、そんなことはもうすっかり忘れてしまっていたのですが、
最近になってmuzieというところからメールが来ました。
件名は、
[muzie] アーティスト分配金報告書

なんだろう?と思ってみてみると、
コンテンツ使用許諾状況およびCD販売者にはCDの販売報告をさせていただきます」という文面。

おぉ~!

と思ったのですが・・・18円

でも何かで使ってくれたのだと思います。

ここに掲載している曲は、自分が好きな音源を組み合わせたものと、ギターフレーズだけのものだけなのですが、元々自分で聞くために作った曲なので、今でも好きな曲ばかりです。

今度の休みにまたギターでもひいてみようか。

muzie:t-empire

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9/04/2006

Nintendo DS Lite

今、任天堂の携帯ゲーム機NintendoDS Liteがかなりの勢いで売れています。
小売店では売り切れ続出で、インターネットのオークションなどでは、20,000円~25,000円前後で売買されている状況です。(メーカー小売価格16,800円のところ)
アマゾン、楽天、ヤフーショップと言ったメガECサイトでも実勢価格はメーカー希望小売価格を6,000円上回る状況が続いているようです。

また、希望小売価格で出店すれば、10分以内に完売という状況を見てもその人気ぶりはわかるでしょう。

先日、日経新聞にこの夏は、ゲーム機の売り上げが好調で前年比を大きく上回り、対して遊楽地は前年比を大きく下回る結果だった。これは、天気の影響もあるのだろうが、外で遊ぶよりも屋内でゲームをするという傾向が強くなってきたのだろう。
実際のところ、市場動向は値上がりで推移していますが、どこまでこの同行が続くのか?というところが今後のポイントになってくると思います。

実は、こうした現象はソニーのPlayStationでも起こっていました。1997年にスクウェア(現:スクウェアエニックス)から発売されたファイナルファンタジーVIIの発売に連動して市場からPlayStationがなくなってしまいました。
流通を制限して、販売数量を調整しているのでは?という推測が今となっては、成功のポイントだったような気がします。
需給バランスを調整し、需要を増やせば必然と適正価格は引き上げられるという市場原理の基本をうまく利用したやり方に、当時衝撃を受けました。

今のNintendoDS Liteの動向にも実はスクウェアのソフトが関連していると思われます。
もともとNintendoDS Liteの発売当初は確かに売れてはいましたが、品切れで本体が出回らなくなってしまうほどではありませんでした。最近スクウェアエニックスより発売されたファイナルファンタジーⅢのリメイク版が、こうした状況を引き起こしていると考えられます。
NintendoDS Liteは、子供用ゲーム機の位置づけとしてよりも、アダルトユーザ(20代~30代)をターゲットとしたソフトも多いこともあって、社会人でのユーザが非常に多いのが特徴です。
いわゆる団塊ジュニア世代とその近辺の世代をおもなターゲットにしているように感じます。
そんなこともあってか、東京では電車でNintendoDS Liteをやっているスーツを着たサラリーマンのような人も見かけます。

ファイナルファンタジーⅢのファミコン版リリースは1990年でした。今から数えて16年前になります。このファイナルファンタジーⅢは、シリーズから数えて3作目に当たるわけですが、140万本も販売され初のミリオンヒットになりました。
こうした背景もあって、今の20代~30代のゲーム世代にはとても懐かしくあるわけです。
また、まだプレイしたことのない世代もこれまでのシリーズ11作品のどれかを知っているのであれば、その内容の完成度と高いビジュアルクオリティにまた期待をするわけです。

実際、スクウェアエニックスの株価は、7月中旬までに最安値までに込むもののその後順調に回復を続けています。し、任天堂に至っては右肩上がりで今もなお上がり続けています。

日本のアニメ・ゲーム産業は世界でもトップとして認識されているわけですが、こうした実績をもとにまた海外での市場展開が期待できるでしょう。

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8/08/2006

ソフトウェア構成管理とは

開発プロジェクトの管理対象は?


開発プロジェクトでは、管理対象となるものが数多く存在します。管理対象は、ドキュメントやソースコードのようなファイルになっているものやタスクやスケジュールといったものまでさまざまです。

  • ドキュメント:各仕様書、設計資料など
  • スケジュール、タスク:進捗状態の管理やリソースの割り当てなど
  • ソースコードや設定ファイル:バージョン管理や分岐の管理など
  • 変更要求:仕様変更が発生したときのプロセスの管理
  • 障害リスト:テストで発見された障害を解決するためのプロセスの管理

開発プロジェクトが抱える管理上の問題


これらの管理対象となるアイテムは、多くの場合一元的に管理されていませんでした。そのために以下のような問題が発生していました。

  • ドキュメントとソースコードの不一致仕様書、設計書、ソースコードと一致するべきものがそれぞれの管理がばらばらのためにどの仕様書とどの設計書が一致しているのか、どの設計書から実装されたコードがどれなのかがわからなくなっている。
  • 変更要求のプロジェクトへの影響度合いが不明変更要求の数、それぞれのステータス、責任者などの管理がしっかりと行われていないと、プロジェクトの進行にフィードバックすることができない。
  • 障害の修復の状況が不明現在行われている障害対応の数、担当者、それぞれのステータスを正確に把握しないとプロジェクトの進行へのフィードバックがかけられない。
  • 構成が複雑で管理が困難開発対象製品のラインナップ構成が複雑で、共通部と製品ごとに異なる部分の管理が難しく、混乱が発生する。仕様書、設計書、ソースコードの組み合わせが複雑で管理しづらい。また、製品サイクルが短いので、管理が大変。
  • 開発に関わる人数が多く、変更の管理や最新版の管理で混乱開発部隊が分散しているようなケースでは、特にバージョン管理で問題が発生するケースが多い。
  • 並行開発において共通部分と分岐部分の管理が困難複数の開発タスクの同期が必要となる。

ソフトウェア構成管理(Software Configuration Management)とは?


このような問題を解決するために、ソフトウェア構成管理(SCM:Software Configuration Management)の必要性が叫ばれています。CMM(Capability Maturity Model)では、レベル2のキープロセスエリアとして、ソフトウェア構成管理を定義しています。ソフトウェア構成管理は、以下の4つのアクティビティーから構成されます。

  • 構成要素の識別管理対象となるアイテムがどのような構造になっているかを分析して、決定します。管理される対象は、すべてこの構造に関連づけられることになります。
  • 変更管理仕様に対する変更と障害に対する変更の管理です。
  • ステータス管理管理対象となるアイテムのステータスを管理します。障害対応のステータスであれば、「新規->対応開始->解決」というような管理がされます。
  • 監査管理対象となるアイテムに対するアクティビティーを記録します。

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8/06/2006

アパルトヘイト

はじめに


ある新聞記事が、すでに撤回されたはずの南アフリカ共和国による人種差別政策(アパルトヘイト)の傷跡を知らせていた。調べてみると、実際アパルトヘイトがなくなった今でも、色々と問題はあるようであった。
そこで、南アフリカ共和国の歴史とアパルトヘイトが施行されるようなるまでの変遷を追い、アパルトヘイト撤退後の現状の問題を観ていきたいとおもう。

アパルトヘイト撤廃までの歴史


起源は、大航海時代まで溯る。南アフリカははじめオランダの植民地として支配されていた。正確に言えば、1602年にオランダに東インド会社を設立しその後、1652年に民間の入植者をオランダから受け入れ、増えてったオランダ移民(ボーア人)が住民から土地を奪っていって、ケープ植民地を作った。その頃から、奴隷制度を積極的に導入し、また、ケープで成功を収められなかった人々は、徐々に東方や北東に移動・拡大していった。1795年にイギリスがオランダからケープ植民地の支配権を奪い、イギリスの支配が始まるが、それと同時期に奴隷制度を廃止していた。その4年後の1799年にオランダは東インド会社を解散した。そのことで1814年には正式にイギリス領となったが、オランダ移民は北方に移住しナタール共和国を建国するも、イギリスに敗北し、1830~40年にオランダ移民はより内陸部へと移住(グレート・トレック)を余儀なくされた。1852年にトランスバール共和国、54年にオレンジ自由国を建設し、そこでダイヤモンドが発見された。話が少し前後するが、最初に発見されダイヤモンドにまつわる話があった。
「1866年、南アフリカの大地で一人の農夫が石を拾った。光る石である。その3年後に羊飼いも光る石を拾った……羊飼いはその石を、牛十頭、羊五百頭と交換したという。ほどなく、後に『アフリカの星』と呼ばれる巨大なダイヤモンドが採掘された。オランダで二つにカットされたひとつは530カラット、イギリス王室のシンボルである笏に取り付けられた。もうひとつは317カラット、これは王冠に嵌め込まれた。ついで100個以上のダイヤが誕生し各地に渡った。合計3106カラットである。」
http://www.3ac.co.jp/wed/rekishi/09c6c001.html - top:9/11】
その次に年には、ダイヤモンド鉱脈をオレンジ自由国で発見され、1886年には、トランスバール共和国で金脈が発見された。
「この頃は、1869年にスエズ運河が完成し、ヨーロッパ船は地中海からインド洋に抜けることができるようになった。そのため、東方貿易の中継基地としてのケープ植民地の意義が、著しく低下していた時期に当たる。また、アメリカやドイツの台頭により、世界の覇者としてのイギリスの地位は脅かされつつあった。これらの要因が重なり、南アフリカの戦略的重要性が高まることとなる。」【http://www.yata.co.jp/safrica/about01.htm:9/11】
現在南アフリカ共和国は4つの州からなっている。その州とは、ケープ、ナタール、オレンジそして、トランスバーグである。ケープとナタールはイギリス領であり、オレンジとトランスバーグはオランダ移民領である。また、この両州同士は対立し戦争へと発展していった。その戦争は、1880~81年にかけて起こった第1次ボーア戦争と1899~1902年に起こった第2次ボーア戦争である。ボーアとはオランダ移民のことをさすが、オランダ移民のことをアフリカーナとも呼ぶ。結局この戦争の結果イギリスが勝利し、1910年にイギリス自治領南アフリカ連邦が発足し事実上、南アフリカはイギリス領となった。
1911年に、白人労働者の為の最初の人種差別法、鉱山・労働法を制定し、1913年には土地法が成立した。この土地法というものは、南アフリカの一部の農村地帯をアフリカ人向けの居住地に指定するというもので、これ以外の土地ではアフリカ人は土地の購入や賃借が出来なくなるというものであった。そして、この法律の制定によりアパルトヘイトの枠組みが出来た。1934年にはイギリス連邦内で独立を果たし、その2年後の1936年以降より黒人の参政権は剥奪され、よりアパルトヘイトは強化されていった。
第2次世界大戦後の1948年に初の総選挙が行われ、そのときの与党である連合党と野党である国民党の一騎打ちとなり、アパルトヘイトをスローガンに掲げ国民党が政権を握ることになる。その国民党は、1950年に人民登録法を制定し、1959年にはバントゥースタンを作る。このバントゥースタンは白人国家から黒人国家を分離する政策である。これにより、事実上アパルトヘイトは完成する。
南アフリカはその後の1960年に共和制に移行し、その1年後にはイギリス連邦から脱退した。70年代末からは、武力闘争を強化し、南アフリカの内紛は激化する。78年に発足したボタ政権では黒人以外の有色人種を体制内に取り込み、多数の黒人と分断、84年9月に白人、カラード(混血)、インド系の3人種体制が確立した。その結果黒人の暴動はさたに激化・頻発し、政府は86年6月に全土に非常事態を宣言。アメリカやヨーロッパ連合(EU)などは、対南アフリカ経済制裁を実行した。
1989年9月にボタ大統領辞任を受けて、デクラークが大統領に就任し、91年6月にアパルトヘイトの根幹である人種登録法、集団地域法、土地法を全廃し、事実上アパルトヘイトは廃止された。

アパルトヘイトと反対運動


そもそもアパルトヘイトとは、オランダ語で「隔離」を意味する。(正確にいえば、アフリカーンス語となるが、ドイツ語に近い語であることからオランダ語が変化したのだと思われる。また、アメリカ最高裁が1896年に『分離すれども平等』という判決によって人種差別を養護したことに起因するとも言われている。なぜなら、南アフリカの白人はこのアメリカ製の修辞を用いて人種差別を否定していたからだ) そして、一般的に知られるものは、南アフリカの人種差別政策である。先に歴史の部分で挙げた法律を見てもらえばわかるが、アパルトヘイトは黒人を白人から隔離することが目的である。また、アパルトヘイトに基づく具体的な法律は、土地法、人口登録法、不道徳法、雑婚禁止法、集団居住地法、公共施設分離法が挙げられる。
南アフリカには少なくとも3つの民族が生活している。それは、はじめに入植したアメリカーナ(オランダ移民またはボーア人とも言う)と、イギリス系移民、そして原住民であるアフリカ系黒人である。アパルトヘイトとは、言葉を見てもわかるようにアフリカーナ(オランダ系移民)の国民党による政策であった。
また、アパルトヘイトを作らなければならなかった理由が2つあるとも言われている。
「一つは南アフリカ戦争によるアフリカーナの貧困の激化、もう一つはアフリカーナの信仰するオランダ改革派教会の教義に由来する。それは、全ての人間は神に救われる物と救われざる物に分かれ、非白人は生まれつき白人の下僕になることが運命づけられているというもの」
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/6112/katudou/20010416.html:9/11】
この中に出てきた南アフリカ戦争というのは、第1次、2次ボーア戦争のことである。アフリカーナは、戦争と民族移動をしたためにイギリス系白人よりも生活水準が低く、よりやすい賃金で働くアフリカ系黒人との中間に位置していた。入植者には、新教徒が多かった。ユグノーやオランダ改革派などのカルヴァン派は選民思想を持ち、教義中の運命予定説は人種差別を神学的に裏付けた。すなわち、神は黒人を白人の奴隷として作り賜うたという世界理解である。
1948年の総選挙で国民党が勝利したことにより、政権を樹立し先の2つの理由を表現することとなるが、いかなる理由があろうとも、人種差別を目的とした法律を施行して良い訳も無く、勿論この政策に対する先住民族である黒人達は反発した。その主な団体にネルソン・マンデラ氏が属するアフリカ民族会議(ANC)があった。その他にも、南アフリカ・インド人会議(SAIC)と、後にアフリカ民族会議から分裂するパンアフリカニスト会議(PAC)があった。
1955年に「ANCとSAICなどによりクリップタウンで『南アフリカは、黒人、白人を問わす、そこに住む全ての人々に属する。』という文言で始まる『自由憲章』が採択される。」
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/6112/katudou/20010416.html:9/11】
しかし、政府はその集会に集まった群集を解散させ、1956年に中心的活動家を反逆罪で告訴した。
イギリス連邦から脱退する前の年である1960年に、シャープビル虐殺事件が起こっている。これは、PACの呼びかけに集まったアフリカ人群集に向かって、警官隊が一斉射撃を行い67人が虐殺され、170人が負傷、ANC、PACが非合法化され大衆運動を力で押さえ込むような政策をとった。それにより、約2万人が逮捕され、その中にはANCの最高指導者であったネルソン・マンデラ氏もいた。彼は非武力闘争を続けていたが、政府の武力での取り締まりに対して武力で応じることを決意するが、この武力闘争によって終身刑を受けた。
76年にソウェト蜂起事件が発生し70年代末になると、アパルトヘイト打倒を目指すANCが武力闘争を強化した。
ボタ政権での非常事態宣言は、各国の非難を呼びそのことになった。
それに対する弁明は、
『各民族が自己の個性を保ちながら、他の民族の個性を尊重して独自の発展を追求』するために必要だというもの。

http://www.kitakyudai.net/~rateken/study/nijinokuni.htm:9/11】
であった。
世界には人種差別を行っている国は、多数あるはずなのに、なぜこれほど国際的に非難を浴びたのだろうか。その理由は、南アフリカでは人種差別が合法であったためであり、差別しないことが違法とされたからである。
こうした国際世論の高まりによって、デクラーク氏が革命を主張し選挙戦で勝利を収めることになる。1991年にはアパルトヘイトは撤廃されるが、白人のみの国民投票では3割の人々がまだこの人種差別政策を続けたいと思っていた。

アパルトヘイト撤廃後


1990年にネルソン・マンデラ氏釈放をきっかけとして、翌91年には全政治犯を釈放し、同年6月にアパルトヘイトが撤廃された後、12月には政府やANCなどの主要政治勢力19団体が参加して「民主的な南アフリカを目指す大会」(CODESA)第1回全体会議が開かれて、本格的な制憲交渉が始まった。しかし、1992年5月のCDESA第2回全体会議で交渉は決裂し、ANCは翌月の6月に交渉から離脱した。「独立」ホームランド(1959年のバントゥースタンによって隔離された黒人民族別居住地域であるが、70年からホームランドと呼ばれ独立を与えられていた)シスカイでのANCデモ隊に対する発砲事件を受けて9月にデクラーク大統領とマンデラANC議長の首脳会談が行われ、けん制交渉再開に合意した。国内政治勢力26団体が参加した多党間制憲会議は、1993年7月に全人種選挙の94年4月実施で合意した。同年12月にはデクラーク大統領とマンデラANC議長がノーベル平和賞を受賞。
94年4月26~29日に実施された全人種選挙では、下院(国民議会)や州議会の選挙には19政党が参加、約2200万人の有権者が投票しその結果、下院は、ANCが有効投票数の62.6%を得て圧勝した。州議会選挙でも、ANCが首都圏、東ケープなど7州で過半数を制した。これは、国内の黒人の約77%に支持された結果となる。
この選挙結果によって、マンデラANC議長は94年5月9日に下院で大統領に選出され、南アフリカ史上初の黒人大統領として10日に就任し、その就任式で人種融和に向けた新国家建設を宣言した。このとき、マンデラ氏は76歳であった。また、第1副大統領にはANCのムベキ氏が、第2副大統領には国民党のデクラーク氏ガ就任し国民統合政府が成立する。
マンデラ大統領は、就任後にまず貧困問題に着手した。選挙前から打ち出していた公約の格差を是正する復興開発計画(RPD)を進めた。その内容は、住宅の建設、電化・上下水道の整備、土地の再配分、雇用創出などといった貧困層向けの社会政策であった。RPD事務局が1995年に発表した報告書によれば、南アフリカの約半数の52.8%もの人が貧困とされ、この人たちの失業率は50%の水準に達していた。人種別では、貧困層の94.7%を占めているのはアフリカ系黒人である。現在の日本も不況にあえいでいるが、先日の失業率5%とは比べ物にならない比率である。失業率50%とは、国の存亡にも関わってくると思われる比率だと思われる。
1996年には、マクロ経済成長戦略(GERE)を実施している。これは、成長、雇用、再配分と題された包括的なマクロ経済政策である。
その後、1999年からマンデラ氏の跡を受け継ぎムベキ氏が大統領となっているが、政策のほうはうまくいっていないようである。この年の経済成長率は0.7%で、失業率は30%以上でアフリカ系黒人であれば、40%以上だという。まだまだ、再生には時間がかかるようである。また、この貧困は犯罪件数の増加にもつながり、南アフリカでは凶悪犯罪は後を絶たないという。

新聞記事について


001年9月9日付けの朝日新聞に、「心臓移植と人種差別主義」と見出し付けたれた記事があった。(資料編①参照)
黒人男性の死体の心臓を白人男性に移植したことが、この医師を「差別主義者」だと位置付けたらしいが、よく南アフリカの歴史を見て見ると、そういったことは必ずしも当てはまらないといえる。この記事では、1652年以来18世紀まで現地女性との間で子どもを作ることを奨励していたとある。
「一七ー一八世紀には植民地の労働力の確保のため、マダガスカル、インド、セイロン、インドネシアなどから奴隷が輸入された。白人男性と女奴隷との婚外交渉によってたくさんの子供が生まれ通常は奴隷となったが、女の子の中には白人男性の妻となるものもいた。そのため、アフリカーナ(オランダ系白人は自分たちをこう呼ぶ)の血には非白人の先祖の血が混じっており、現在でもアフリカーナの両親から色黒で髪の毛の縮れた子供が生まれることがある。」

http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/kak2/1212282.htm:9/11】
南アフリカ

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7/04/2006

世界統一のシナリオ

最近読んだ本に、「秘密結社の暗躍―世界史ミステリー 」というものがあります。「本当は恐ろしいグリム童話 」で有名な桐生 操さんの本です。
全体の内容は、これまで歴史の陰に隠れていた秘密結社についての話ですが、その中でもフリーメーソンの話は面白かったです。
以前、講談社現代新書のフリーメーソンの本を読んだこともあって、知らないこともなかったのですが、これまでの歴史を陰で操っていたという内容は衝撃的でした。
特に、アメリカ合衆国はフリーメーソンが作った国だ。という点には納得させられました。
ジョージ・ワシントンを初め歴代の大統領のほとんどがフリーメーソンだったという事実が、説得力を与えます。

そもそも、アメリカには、様々な団体や秘密結社が存在していると言われます。人種の坩堝と言われるだけ公式な存在から非公式な存在まで、その数は他国の追随を許しません。
中でも、ユダヤ、WASP、フリーメーソンはその中でも絶大な権力を持っていると言われています。アメリカの大企業のうち実に50社は、ロックフェラー財団関連(ユダヤ)と言われています。イスラエルの建国にはアメリカは深く関与していますが、元を正せばアメリカのユダヤ人によって作られたと言っても過言ではありません。また、あまりなじみがないWASPとは、ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタントの略語で、メイフラワー号に乗ってイギリスから逃れてきたイギリス人を先祖に持つ人たちのことを言います。
彼らは、主にアメリカ社会の上流階級(アッパークラス)に位置し、自分たちとそれ以外の人種を区別する際にこの言葉を使います。
また、WASPには、「スズメバチ」という意味もありそれ以外の人からは差別的な要素を含めてそう呼ばれることもあります。

アメリカは自由と平等の国とよく言いますが、実際は人種が入り乱れ、かなり差別的で閉鎖的な社会構造なのです。
ただ、アメリカ建国の際に掲げられたこの理念こそが、フリーメーソンの理念である「自由と友愛」なのだと言われています。はじめは、フランス革命から端を発し、次いでアメリカ独立宣言、ソビエト連邦の樹立はフリーメーソンの手によって行われたと、「秘密結社の暗躍—世界史ミステリー 」にはありました。また、近年ではEUの統合もフリーメーソンが裏で操作しているのだと言います。この本では、フリーメーソンの最終目標は「統一政府/統一宗教」というものだとありましたが、その手始めとしてヨーロッパの統一が行われたのだと言います。また、今バチカンにはかなりの数のフリーメーソンが入り込んでいてローマ法王ですら、手をこまねいていると言います。
ただ、それが悪いことのように思えないのは様々な文化や宗教が戦争の歴史を作ってきたという事実を知っているからなのでしょうか。

戦争と言えば、アメリカは10年に一度大規模な戦争をしなければ経済は崩壊してしまうという話があります。これは、ある友人から聞いた話ですが、第2次世界大戦以降のアメリカの戦争介入を見ていると説得性が高かったです。また、JFケネディ(彼自身は、アイルランド系アメリカ人でフリーメーソンですらありません。父は、一代で富を気付いた実業家とされていますがマフィアとの癒着なども噂されていました)暗殺にも戦争の利害関係が存在していたと言うことは、映画「JFK」にも描かれています。JFK暗殺の一説には当時の副大統領が関与していたというものがありました。(JFK暗殺には諸説ありますが、もっとも有力な説とされています)後に大統領となったリンドン・ベインズ・ジョンソンはテキサス出身ですが、現在のブッシュ大統領もテキサス出身です。
このテキサス州というのは油田開発が主な産業で、地元はもとより国内でも絶大な権力を持っていると言われています。
石油は工業製品の製造にはなくてはならないものですが、特に儲かるのは「戦争」なのです。戦争では兵器はもとよりそれを動かす燃料もすべて石油製品に依存しています。テキサス州出身者が大統領になるときはたいてい戦争が起こっています。現ブッシュ大統領の父もやはり、戦争に介入しました。湾岸戦争です。国籍軍が30ヶ国ほどで結成されたことから「30の敵戦争」或いは「ブッシュ戦争」などと呼ばれていますが、このときは、明らかに誰にでもわかる正義が存在していました。
あれから15年、息子は父親と同じ戦争の道を歩んだのです。このは対テロ戦争を「第三次世界大戦」とも称していますが、キリスト教では3度の世界大戦の後、1000年間の平穏が訪れるという言われています。とすると、もうすぐ平和な世界が訪れるのでしょうか??そうなれば、いいですね。

既に次の1000年期に入っていますが、これもアーリア人のシナリオであって、中東、アジア、アフリカにはまた別のシナリオが用意されているのだと思います。特に中東のイスラム圏では、原理主義が存在する以上こうしたシナリオに反発する勢力は衰えることはないでしょう。しかし、アジアは既に欧米の文化圏が主流になっているので安心かもしれませんが、大きなズレに生じる可能性の高い北朝鮮の存在もありますし、東南アジア、インド、パキスタンはそのシナリオには無論反発する可能性は残っています。

アフリカは、まだ未知数ですがフランスの植民地だったという経緯を持つ国が多いのと、文明事態を拒否している国々はまだまだあります。ただ、民族間の紛争がおこっているということは、反発する勢力はここにもまだ存在するということです。

統一世界の実現にはあと数世紀の時間がかかると思いますが、それでも着実に進行しています。
近い将来、闘争のない世界が実現する日がくるのではないでしょうか?ただ、その世界がすべての人にとって幸せなものであるかどうかは、別です。

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7/02/2006

社会統計

社会統計とは、社会の状態を示す数字

  1. 大量観察・・・ある種の規則性を示す。

    理論と照らし合わせて、発見していく(全体)

  1. 大数観察・・・部分的なものを幾度も調査し、規則性を発見する。

          (部分的連続)

なぜ統計を学ぶのか?

  • これから、ますます統計の需要が増し、必要性が高くなるから。
  • 国民は政府の情報を知る権利があり、国民が内容を理解するためにそして、無駄な統計を減らす監視をしなければならない。
  • 自分自身が調査を必要とする職業に就いた時に、必ず知っておかなければならない。

統計の種類

  1. 事例調査・・・特定の人々を調査する(小数調査)
  2. アンケート調査・・・手当たりしだいに大勢を調査する。誤差が計算できない。
  3. 統計調査・・・数字の上で確率論が成立し、最も信頼できる調査


準備段階・・・目的をしっかり定める。

何を調査するか?調査事項、調査の時期、統計表をどう作るか?

組織化をはかり、スケジュールを作る。

調査員を育成、指導する。試験調査(テスト・リサーチ)

広報・宣伝活動

 調査段階・・・調査員が主に円滑に調査するが、郵送などもある。

 公表段階・・・統計を出し、公表するまでの作業だが、記入漏れやみ記入がある場合があるが、注意事項に加える場合が多い。

 代表値・・・一言でグラフをあらわす方法

  • モード(mode)
  • メディアン(median)
  • 平均値(何種類かある)
  1. モード(最頻値)・・・1番集中の度合いが高い値がすぐわかる方法

 グラフで見たとき一番高い値を含む級をモードという。

  1. メディアン(中位数)・・・全体を二等分できる値(ちょうど半分に    なる)

人口統計

  • 静態統計
  • 動態統計
  • 移動統計

人口属性・・・性、年齢

経済属性・・・職業、産業

社会属性

の調査が可能

平均値(算術平均値)・・・変数の総和を、その項数で割って得られる値

年齢構成の指標

  • 老齢人口比率(老齢人口構造係数)
  • 老齢人口指数
  • 年少人口指数
  • 従属人口指数

出生

  • 普通出生率=出生数/総人口×1000
  • 合計(特殊)出生率・・・各歳別の(特殊)出生率を合計したもの

死亡

  • 普通死亡率=死亡数/総人口×1000
  • 生命表(平均寿命)

平均値

算術平均

幾何平均・・・比率、増加率を比較する場合に使用

  • 毎年の増加率などを算術平均で求めると、数が合わなくなってくる。そのために幾何平均を使用する。

労働統計

  1. 労働者階級の構造・・・①数と構成 ②雇用と失業 ③労働の移動
  2. 労働諸条件・・・①賃金 ②労働時間
  3. 労働者の消費生活
  4. 労働運動

経済活動の有無

  • 経済活動人口・・・就職者、休業者、完全失業者
  • 非労働人口・・・専業主婦、学生、その他

平均偏差、分散、標準偏差・・・分散の度合いに必要な方法

散布度・・・平均偏差、標準偏差

平均値・・・算術平均、幾何平均

比率

  1. 構成比率・・・百分率% 千分率%o 百万分比ppm
  2. 関係比率・・・対立比率(人口密度、事故率)、発生比率(出生率)

増加率・寄与度

対前年増加率・平均増加率

特化係数・・・平均1

寄与度・・・増加率×構成比

寄与率・・・寄与度/寄与度の合計×100

相関(Correlation)多変量分析(解析)

回帰分析(Regression)

相関係数・・・(偏差積和・偏差平方和)

順位分析

標本調査とサンプリング

母数特性値・・・母数、パラメータ

標本特性値(統計量)

無作為抽出(ランダムサンプリング)

抽出単位(サンプリングフレーム)

乱数表

ランダムサンプリングの方法

一定のサンプリングフレームに含まれる全ての抽出単位から、一定の抽出率に基づいて無作為に標本を抽出する。

特性値から母集団の母数(パラメータ)を抽出する方法

    • 単純ランダムサンプリング
    • 2段(多段)サンプリング
    • 系純サンプリング
    • 層別サンプリング

標本誤差・・・母平均 μ  母偏差 σ  標本平均 

       標本偏差 S

標本偏差は正規分布(確率分布の一つ)する→ポアン分布

標本平均の標準偏差

誤差/中心極限定理


検定・推定

点推定、区間推定

標本の平均偏差での推定

対象の平均+標本誤差

まとめ

記述統計・・・大きさ、代表値(モード、メディアン、平均)、分散度

推測統計・・・数理統計

算術平均、数何平均、調和平均

比率(構成、関係)

相関係数、変動係数

○標本調査の原理

  1. 無作為抽出と正規分布の性質(中心極限定理)
  2. 標本平均の標準偏差
  3. 標本比率の標準偏差

○推定(標本値からの)

  1. 母集団平均=標本平均
  2. 標本平均の標準偏差
  3. 標本比率の標準偏差

○仮説検定

H0=帰無仮説

H1=対立仮説

○相関関係と回帰方程式

複数の変数の関係がどれくらい強いか弱いかを調べる

e.g.身長、体重

○集団の記述

代表値  1.モード、メディアン

      2.平均値  算術平均、幾何平均、調和平均

 散布度  1.平均偏差

      2.分散

      3.標準偏差

      4.変動係数

       (偏差値)

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アイヌに関するレポート

はじめに

 日本民俗学に於いて、数多く研究されている分野の一つが「アイヌ文化」である。今回のレポートでは、アイヌ人とはどのような人々であるかということを、簡単にまとめた初級アイヌ民族入門とも言えるものである。この分野のより深い研究においては、多くの高名な先生方の著書にゆだねることにする。

アイヌ人とは

 アイヌ人のおもなイメージは、伝統的な衣装に身を包み勇壮な風貌で立っているというイメージが強い。なぜなら北海道に行けば、必ずみやげ物屋に置いてあるタペストリーやのれん、置物は同じようなデザインであるからだ。また、大和民族とは違い毛深いということも言われている。この身体的相違が、差別を生み「アイヌ人」と一言でいうと、差別用語に当たるといわれる場合がある。

http://www.osamushi.com/about_kinshi.html:差別用語について 参照】

しかし、アイヌの人々を語る場合他の民族との比較から、「アイヌ人」を使用することには、何ら問題は無いと思われる。この言葉を使うことに悪意が無いことをはじめに断っておきたい。

アイヌ人とは、アイヌ語を話しアイヌの音楽、舞踏、工芸やその他の文化的所産を継承、発展させてきた人々のことをいう。要するに、文化人類学における民族区分を当てはめたものと考えてもらえばいい。アイヌ(aynu)という言葉は、アイヌ語で、「人」「人間」という意味で使用される。また、アイヌ人の精神観(宗教観)も他の民族とはことなる特徴をもつ。

 アイヌ人の信じる神は、カムイ(kamuy)といい生き物に限らず、火、水や雷などの自然現象、果ては人間の作り出した舟などの道具や物など、身のまわりの事象にカムイの存在を認めている。これは、神道における八百万の神々という概念に類似しているが、八百万の神は神社や祠、お稲荷様といった形で祭られていることが多いため、アイヌ人の言うカムイとは異なる。また、カムイは普段はカムイモシリ(kamuy-mosir) といわれる神の世界に住んでおり、人間と同じような姿で生活していると考えられているが、カムイがアイヌモシリ(aynu-mosir)と呼ばれる人間の世界にやって来る場合に動植物、自然現象や人間の作りし物に姿を変えてやってくると考えられている。アイヌ人は、このように我々の存在する現象界にはさまざまなカムイが存在するとする自然観・精神観を持っている。

アイヌ人のルーツ

 アイヌ人のルーツは、一般的に南方系モンゴロイドではないかといわれている。これに対し、和人は北方系モンゴロイドの影響を強く受けたのではないかと言われている。

「縄文人の顔を想像してみる。顔形は骨からわかる。それ以外のところは何からわかるかというと、いちばん確実なのはDNAである。縄文人の骨から採ったDNAとアイヌの人たちのDNAを比べたところ、非常に似ているということが最近わかっている。だから風貌は、アイヌ人のようだったかもしれない。またインドネシア人などの顔の形と非常によく似ていることから、その人たちの持つ目鼻の細かい特徴もあったのかもしれない。 また縄文時代の遺跡からは、ピアスのイヤリングをした土偶や、大きな耳飾りが見つかっている。縄文人は、大きな耳飾りをしていたらしい。大きなピアスを入れられるということは、縄文人は耳たぶが大きかったということだ。いわゆる福耳だったらしい。それも南方アジア人によく似ているところだ。」【馬場 悠男:

http://www.wnn.or.jp/wnn-history/jomon/sannai-file/other/other/other.html 】

「縄文人やその祖先である港川人(※沖縄で今から18000年昔の人骨が発見されている)の顔と、弥生人やその血を色濃く受け継いでいる古墳時代人、鎌倉・江戸時代人のような人たちの顔にはギャップがある。 どうも縄文時代と弥生時代の間で、何かがあったらしい。これは生活環境が変わったということだけでは考えられない話である。実は大陸からたくさんの人々が渡ってきて弥生人となったのだ。 私たちの祖先は、どこからやってきて、どう混ざり合っているのか。 まずは「縄文人」の流れをみていくが、恐らくインドネシア付近の南方アジア人が今から約三万年前にやってきたのではなかろうか。それが日本列島で港川人となり縄文人となった。そういう考え方がかなり代表的なものとしてある。 私自身は、縄文人が南方からやって来たと無理やり考えるよりは、縄文人はもともと日本にいたと考えてもいいと思っている。」【馬場 悠男:

http://www.wnn.or.jp/wnn-history/jomon/sannai-file/other/other/other.html 】

 また、余談ではあるが縄文人の特色を色濃く残しているのは、アイヌ民族だけではない。沖縄人も、縄文人の特色があるといわれている。

アイヌ人のルーツは、一説では次のように言われている。縄文時代以前、 まだ陸続きだった大陸から南方系モンゴロイドが移住してきた。そして、 弥生時代以後、北方系モンゴロイドの影響を受けたのが現在の和人であり、 あまり影響を受けなかったのが琉球(沖縄)人とアイヌ人だというもので ある。」【城口千純:http://www.w-digest.com/mm/mm0002/bk/000018.html 】

 私の見解では、氷河期の陸続きであった時代に縄文人といわれる南方系モンゴロイドが、日本へ移って来た。その時、そこに留まるものもいたが、どんどん北へ北へと移動して行ったと思われる。とすると、弥生人が大陸から入ってくるまでは、縄文人が日本のほぼ全土で生活していたと考えられる。これは、歴史的視点から裏付けられる。

(図1)

【いつから日本の歴史に登場するか:

http://www.ainu-museum.or.jp/nyumon/nm04_rks02.html 】

図1は、日本の正史とアイヌ史(北海道民俗史)を比較したものであるが、北海道に人が住みつき始めたのは、今から約30000年前(先土器時代)とされており縄文人の出現が、本州では、B.C.90年、北海道ではB.C.70年と20年のブランクがあるが、その間に移動してきたのではなく、その時点で移動自体が完了したのではないかと思われる。

「北海道に人が住みついたのは、いまから約30000年前(先土器時代)といわれています。静内では、約9000年前から人が住んでいたことが遺跡の調査によって確認されています。その後、約2000年前まで縄文時代がつづき、古墳、奈良、平安時代と移りかわり鎌倉、室町時代には、アイヌ文化になっていたと考えられますが古墳時代以前土器・石器を使っていた人々と、鎌倉・室町時代以降のアイヌの人々が、まったく違う民族とは考えにくいのです。それは文化の差にともなう民族移動の記録、伝承がまったくみられないからです。古い時代から周辺の民族との混血はあったと思われますが、基本的には同じ民族であることに変わりはなかったといえます。」

【静内地方のアイヌ文化:http://www.hokkai.or.jp/shizunai/roots/ainu01.htm 】

 アイヌの歴史には、正確な記述が無いため口頭による伝承(口承)を研究するほか無いが、人種間の移動の歴史はDNAに記述がなされている。DNAは、人が文字を使った記述を行うより正確な事実が見出せる。

「チリの北カトリック大学には、約6000年前のミイラが保管されている。この古代ミイラからミトコンドリアDNAを抽出し、現代のアンデスの人々のDNAと比較してみる。 インカ帝国の首都だったクスコの町、今でもアンデスの中心都市である。そこに先祖代々、居住しているラウル・アパルさんよりDNAを抽出し、ミイラと比較する。今まで過去58体のミイラからミトコンドリアDNAの抽出に成功、それら58体のミイラとラウルさんのDNAを比較した結果、12体のミイラのDNAの文字配列(564文字)が全て一致した

すなわち、ラウルさんは約6000年前にクスコに住んでいた人々の子孫であることが、科学的に証明されたのである。

そして今度は、縄文人(アイヌ人)とラウルさんのDNAの比較。(アイヌ人は現代の日本人のなかで、もっとも縄文人に近いのである。もちろん、比較に使用されたアイヌ人の血液は、1970年代に採血された純粋なアイヌ人の血液からである。)564文字の文字配列のうち異なるのは、わずか2カ所だけであった!!これまでに調べられた全世界の2万7千人すべての人の中で、ラウルさんに最も近いのがアイヌ人だった。つまりアンデスに渡った人々と縄文人アイヌは同じモンゴロイドの中でも飛び抜けて近い関係であると判明した。

「北海道」と「アンデス」 地球の正反対に住んでいる人々の祖先は、かつてアジア大陸で一緒に暮らしていたことが、科学的に証明されたのである。」

【崩れ行くモルモン書 DNA鑑定による南米大陸にすむ人々の祖先:

http://www.linkclub.or.jp/~sigehata/indian.html 】

 上述のことは、縄文人(アイヌ人)とアンデスに渡ったモンゴロイドのDNA比較であるが、1万3千年前の氷河期にベーリング海峡を横断したとすることと、北海道に住んでいる人々(アイヌ人)の祖先と、アンデスに住んでいる人々の祖先が同じであるという事実は、アンデスに住んでいる人々の祖先は南方系モンゴロイドとなる。確かに、タイ人とペルー人を比較すると似ている気がする。また、アメリカインディアンの衣装と、アイヌ人の衣装も多少形は違えども、類似する点が多い。違いが見られるのは、生活環境の違いから身体を保護する様相が違うためと考えられる。

 この他にも、共通点が2つ考えられる。1つ目は、精神観が自然と強く結びついているということだ。自然崇拝といってもいいが、自然そのものを崇拝するという場合とそうでない場合があるため、得てしてその言葉をあえて用いなかった。だが、自然のあらゆるものに神が宿るという思想は、共通していえる。

 もう一つは、他の民族による弾圧である。このこともなぜか共通している。アイヌ人は和人に、アメリカインディアンは入植者であるヨーロッパ人(主にイギリス系ピューリタン)に、アンデス人はスペイン人にそれぞれ、土地を奪われ言われ無き弾圧を受けてきたという歴史がある。それは、マイノリティーであるが故のものであったのか、それともそれとは別に因果関係が存在していたのかは、わからない。

アイヌ民族の歴史

 アイヌ民族の歴史を調査することは、大変難しい。なぜならば、アイヌ民族は歴史を記録しなかった民族であるためである。口承文学というものがあるが、これはどれくらい歴史的事実を反映しているのか定かでなく、検討もまだ不十分である。そのため、外からアイヌを観た歴史的記述を主に用いるのだが、実際の歴史が正確に記されているとは限らないので、アイヌの伝承と比較しながら検討していくという作業を要するのである。

 多くのアイヌの歴史を記述した書籍があるが、実際に信頼度の高いものはないといってよく、アイヌ史は、研究され始めた領域といっていいだろう。

 アイヌが日本史に記述されたはじめのものは、『古事記』とされる。「『古事記』の中巻には、ヤマトタケルの説話があって、それには、東の「まつろはぬひとども<服従しない人々>」を平らげたとみえます。また『日本書記』[神武天皇]のところをみますと「えみしをひたり ももなひと ひとはいへとも たむかいもせす」という歌があります。歌の意味は、「えみし一人で百人に当たると人はいうけれども抵抗もしない」というのです。」

【いつから日本の歴史に登場するか:

http://www.ainu-museum.or.jp/nyumon/nm04_rks02.html 】

 ここで、蝦夷(えみし)という言葉があることに注目してもらいたい。征夷大将軍とは、「平安時代初期に蝦夷征討のために置かれた臨時の官。794年大伴弟麻呂がはじめて任ぜられた。」【広辞苑:1214】このとき、大伴弟麻呂が遠征に行った先は、今の東北地方だといわれている。東北地方には、アイヌ語と思われる地名が数多く残っている。例えば、山形県寒河江市(さがえし)。サガエという言葉はアイヌ語だというひとがいる。個人的見解では、アイヌ語の「サカンケ(干す)」という言葉なのではないかと思われる。理由としては、寒河江市は山形盆地内に位置し、魚などは乾燥したものでなければ食べることは出来なかった。また、冬になると積雪により木の実や動物の影は消えてしまう。そのため、冬に備え食べ物を保存が利くように乾燥させなければならなかった、ということからも考えられる。

 その後も、征夷大将軍を駆り蝦夷討伐に向かった和人は、アイヌの人々を徐々に北のようへと追いやって行った。『古事記』や『日本書紀』が書かれた時代から累則すると、7,8世紀頃には本州にはアイヌ人はいなくなっていたと思われる。その後、江戸幕府の松前藩までは北海道に和人が正式に進出した記録が無いので、その間は平穏無事に北海道で生活していたと思われる。しかし、江戸期に入り松前藩が北海道に置かれるようなると、アイヌ人は次第に和人に支配される形になっていった。


 江戸時代の北海道は蝦夷地と呼ばれ、そこに松前藩がおかれていたということはよくごぞんじのこととおもいます。当時の北海道は米がとれませんでしたから、松前藩はたとえば加賀百万石というように米の取れ高によって藩の大きさを表すことができません。松前藩が一万石格などとされるのはそのためなのです。家臣の給料も米で支払うことはできませんから、松前藩では、主だった家臣に蝦夷地をいくつかに分割してその一部を与え、そこでアイヌの人々と交易することを認めました。これを場所といい、場所を与えられた家臣を知行主といいます。交易で得られた収入がその家臣たちの知行(給料)になるのです。


 はじめは、知行主が直接場所へ出かけ交易にあたっていましたが、後には商人が知行主に上納金(運上金=うんじょうきん=といいます)をおさめ、そこでの交易を請け負うようになります。これが場所請負制(ばしょうけおいせい)です。17世紀後半以降、アイヌの人々は、場所請負制の枠の中にはめられていき、商人の横暴による苦しい生活を余儀なくされます。


 ところで、松前藩は、アイヌの人々を交易の相手としてみていただけで、あまり彼らの生活に干渉しませんでした。ですから、よくいわれるような、松前藩がアイヌの人々に対して日本語を学ぶことを禁じたということはなく、場所請負の商人たちが、アイヌの人々を支配しやすくするためにとっていた手段なのです。



【江戸幕府や松前藩とアイヌ民族の関係:

http://www.ainu-museum.or.jp/nyumon/nm05_rks03.html 】

 江戸期以降、明治、大正、昭和までアイヌ人は和人からは差別的扱いを受けていた。そのため、江戸期には大きな争いが3度も起こっている<資料1>。しかし、これらの争いはアイヌ人の敗北で終わり、そのことによりアイヌ人の立場はますます悪化の一途を辿ることになる。

 場所請負制はアイヌの人々及びその文化や社会生活に大きな影響をあたえました。極端な言い方をすれば、請負商人はアイヌの人々に対して生殺与奪の権さえもっていました。生産性を上げるためにはアイヌの人々を人間としてではなく、牛馬のように扱っていたのです。松前藩はこれら請負人の非道に対して何の対策も講じませんでしたが、松浦武四郎は『近世蝦夷人物誌』の中で松前藩や請負人を強く批判しています。この本は、たいていの図書館にもありますので、ぜひ一度読んでいただきたいとおもいます。


 江戸幕府の政策は、あくまでも国防という観点からのもので、積極的にアイヌの人々やアイヌ文化を守ろうとの姿勢があったわけではありませんし、明治政府は以後もまた同様でした。

【江戸幕府や松前藩とアイヌ民族の関係:

http://www.ainu-museum.or.jp/nyumon/nm05_rks03.html 】

明治期に入ると、日本政府は、北海道の開拓にいっそう力を注いだ。和人であれば、申請すれば10万坪の農業用地が付与されていたが、アイヌ人は狩猟民族であるため土地という概念が少なく、字も読むことさえ出来ず、十分な説明もされなかったため農業用地を付与されなかった。また、開拓民による乱獲もあったために、アイヌ人の生活はますます貧困に瀕するようになった。

そうした中、1899年(明治32年)に「北海道旧土人保護法」が制定され た。旧土人とは言うまでもなくアイヌ人のことで、土地を付与して農業を 奨励し、医療や教育などの保護を行うことが目的とされている。アイヌ人 には農地として一人1万5千坪の土地を与えた。しかし、肥沃な大地は開 拓民が開発を進めていたため、農業もできないような土地を与えたに過ぎ ず、一定期間で農地にできないと土地は没収された。また、狩猟民族であるアイヌ人の漁業権や狩猟権を否定し、それを行うことを制限した。保護 という名のもとの教育は、アイヌ人を日本人化させる方法でしかなかった。  この法律の背景には、北海道での権益を守ることと同時に、北の脅威で あったロシアの影響を受ける前に、アイヌを日本人化してしまいたいという面もあったと言われる。日本人になれないアイヌ人は劣等とされ差別さ れたが、仮に日本語を話して農業で成功してもやはりアイヌとして差別さ れた。アイヌ人の中には自分がアイヌであることを隠す者も多かった。」【城口千純:http://www.w-digest.com/mm/mm0002/bk/000018.html 】

 このことから、アイヌ人という言葉が差別用語として使われるようになったのである。そのご、大戦を経て日本が経済復興を成しえた時期になっても、この言葉は意識的に使用され、1997年に制定された「アイヌ文化振興法」が制定されるまで、続いていた。この法案が制定されてまだ間もないということもあるので、差別用語としてのアイヌ人という言葉が残っていると思われる。

また、こうした中で、日本は15年に及ぶ長い戦争の時代へと突入していくのである。戦時中には、アイヌ人も旧土人保護法の下で日本人として戦争に参加していたのである。しかし、大戦末期になると日本人と同様にイヌ人への配慮が行き届かなくなった。

「終戦を迎え、日本は都市部では英国の指導、北海道では米国の指導の下 でそれぞれ復興政策を進めた。日本政府がGHQに対してアイヌに関する 満足な説明をしなかったのか、あるいはできなかったのかは分からないが、 北海道では多くのアイヌの土地が、歴史を踏まえないまま不当な価格で国 に払い下げられた。  1953年、日本政府は国連に対し、アイヌはすべて同化し、先住民や少数 民族はすでに存在しないと報告している。事実は異なり、北海道で多くの アイヌが差別を受けた。アイヌ人の中には、積極的に日本人に同化することが豊かになることだと考える者もあった。あえてアイヌだということ を言うとかえって差別される、すなわちアイヌが劣等だということを自ら 認めてしまうようなこともあったという。  間違いを恐れずに言えば、アイヌへの差別が未だに問題となっている背 景には、和人の無知だけでなく、アイヌ自身がクナシリ・メシナの反乱以 後、団結して戦ってこられなかったことも一因となっていると思われる。アイヌ人でも、積極的に日本人になろうとした者と、それを拒んで戦った者 の間には大きな意識の差があったのである。」

【城口千純:http://www.w-digest.com/mm/mm0002/bk/000018.html 】

1953年に国連に発表したことを、中曽根元首相が「日本人は単一民族だ」と発言して世界的に非難を受けた。 また、先述したことのなかに差別の要因は、アイヌ人の方にも存在していると言った内容のものがある事にも注目したい。

こうした反アイヌの体制が大きく崩れるきっかけを作った事件が有る。1993年から1997年まで行われた、「二風谷(にぶたに)ダムを巡る裁判」である。

「二風谷にはアイヌ人が多く居住し、遺跡や伝統行事チプサンケの場となっていた。同地へのダム建設が計画されたのは、大規模工業団地の計画に 伴う工業用水供給のためであったが、計画の縮小によりダムの必要性がなくなった。1986年、建設大臣は二風谷ダムの計画を刷新して新たに事業認定したが、アイヌ側として文化は金銭や移転などでは代替することができないとして、1993年に行政訴訟に踏み切った。  1997年3月、結果的にはアイヌ側の主張が受け入れられ、「アイヌ民族 は先住民族であり、独自の文化に最大限の配慮をしなければならないのに、 国はダム建設によるアイヌ民族の文化享有権などへの影響について十分な 調査を怠り、これらの価値を軽視または無視してダムの事業認定をした。 この事実認定は違法であり、この認定に基づいて行われた被告・北海道土 地収容委員会の土地強制収容裁判も違法である」という判決が下った。  しかし、すでに1996年4月のダムの試験貯水で、アイヌの土地は返らぬ ものとなった。ちなみに、1996年8月には、アイヌの伝統行事チプサンケ を行うために、特例措置として水門が一時的に開かれ、例年と同じ場所で 行事が実施された。  この二風谷ダム裁判以外に、現在、厚岸アイヌの土地を巡る裁判が進行 中であるが、一般のマスコミでこの問題が取り上げられることは滅多になく、こうした問題が未だにあることを知らない人も多いだろう。」

【城口千純:http://www.w-digest.com/mm/mm0002/bk/000018.html 】

この裁判をきっかけとして、アイヌ民族の文化を保護しようとする動きが高まり、1997年3月に上述の判決がでたわずか2ヵ月後の、5月に「アイヌ文化振興並びにアイヌの伝統等知識普及及び啓発法(アイヌ文化振興法)」<資料2>が制定された。また、これにより「旧土人保護法」がやっと廃止され、アイヌ民族の先住権が法律で認められたことになる。この先住権は、国際法上の権利であるためアイヌ民族は先住権に対して日本国と平等な立場に位置するとされている。

 アイヌの現状とまとめ

 現在は、市立函館博物館や函館市立北方民族資料館、静内町によるアイヌ文化の保存、その他大勢のアイヌ研究家の手で、アイヌ文化の振興及び保全が行われているが、アイヌに対する差別はいまだ消えていない。そして、判決の出ていない訴訟もある。

「昨年7月には、アイヌ文化振興法に基づいて北海道が進めているアイヌ 民族の共有財産の返還方法に反対しているアイヌ人24人が、「アイヌ民族 の意思を無視した一方的な返還手続きは財産権の侵害で違憲」として、道 知事を相手に返還手続き処分の無効確認を求める行政訴訟を起こしている。 今後も様々な問題が出てくると思われ、アイヌ人にとってはスタートライ ンに立ったばかりというところだろうか。」

【城口千純:http://www.w-digest.com/mm/mm0002/bk/000018.html

 先住民として、国際的に認められてもなおも、こうした訴訟が起こっている。逆の見方をすれば、国際的に先住民として認められたので、こうした訴訟が起こしやすくなったとも言える。8世紀頃から虐げられてきた歴史には、ピリオドを打つことが出来たが、和人との争いにはまだピリオドを打つことは出来ていないようだ。

感想

 今回、アイヌ民族の歴史と現状というテーマでレポートを書いてみたが、アイヌに関するホームページがかなりあったことには驚いている。インターネットは、人々が何に関心を持っているのかを調べる時大変役に立つ。インターネット内に出ていた書籍だけでも、かなりの量があった。書店で実際に出ている書籍とあわせると、結構な数だ。書籍の初版年代を見てみると圧倒的に1970年代以降に書かれたものが多かった。これの意味するところは、実際わからないがその頃からアイヌに関心が高まったのではないかと思われる。

 また、アイヌの文化を知ることで数多くの類似点が有る民族がいることに気が付いた。それは、アメリカインディアンとインカ・アステカ文明を築いたインディアンである。まず、文字をもたなかったことがある。数多くある民族でも文字を持たない民俗は少ない。それも、南方系モンゴロイド(縄文人)である可能性が高いのではないだろうか。また、どの民族も大航海時代以降搾取される側になっているという点だ。これは、アフリカのあらゆる部側にも共通して言える。文字の有無がこれほど民族間に差を生んでしまうものなのだろうか。また、ルーツのところで少し言及したが、衣装も環太平洋少数民族に於いては類似点が有る。生活する場が違うので全く同じ衣装を身にまとった民族は確認できないが、多少なりとも類似点は挙げられると思う。最後に、これらの民族は狩猟民族であるということだ。エスキモーはアザラシや魚、トナカイなどを狩る。アメリカインディアンは野生の動物(野兎など)、アイヌでも鮭や兎を狩るし、アンデスのインディアンはジャガイモを栽培するが、狩りをするという習慣は伝統行事や祭事に執り行われる場合があると聞く。

 このような文化的側面からも、南方系のモンゴロイドは太平洋を囲むように移動したと考えられる。

 これらの確証を得るためには、実際に調査しより深く研究しなくてはならないが、少なくとも、次回に繋がる布石的なレポートになったことは大変喜ばしいことだ。

資料編

資料1

4●コシャマイン・シャクシャインの戦い



 アイヌ民族とシサとの歴史上、最も重要な戦いが三度ありました。

 1457(長禄1)年 コシャマインの戦い

 1669(寛文9)年 シャクシャインの戦い

 1789(寛政1)年 クナシリ・メナシ地方のアイヌの蜂起


 以上がそれですが、もちろんこのほかにも大きな戦いはいくつかありました。それらについては年表2を参照してください。

 この三度の戦いは、アイヌ民族にとってはシサとの関係のうえで大きな転回点となりました。まず、コシャマインの戦いからみてみましょう。


コシャマインの戦い

 1456(康正2)年の春のことです。箱館に近いシノリ(志海苔)の村で一人のアイヌの少年が、シサの鍛冶屋にマキリ(小刀)を打たせました。ところが、そのマキリの切れあじをめぐって二人のあいだに口論がおき、鍛冶屋はアイヌの少年を刺し殺してしまったのです。この事件をきっかけに、道南のアイヌの人々がシサに対して一斉に立ち上がりました。以後長く大闘争の時代が続きますが、その最大のものが、コシャマインの戦いなのです。


 1457(長禄1)年5月14日、コシャマインを大将とするアイヌ軍が箱館をはじめとする道南各地の館(たて=俗に十二館というシサの拠点)を襲います。アイヌ軍は強く、次々と館をおとし、残るは二館のみという状態になりますが、花沢の館(現在の上ノ国町)にいた武田信広によってコシャマインがうたれると(一説に6月20日)、アイヌ軍は敗れ、シサ軍が道南を回復し、さしもの戦いも終わります。


 コシャマインを討った武田信広は、後に、蠣崎(かきざき)氏の養子となり、やがて松前藩の藩祖となります。


シャクシャインの戦い

 アイヌ民族とシサとの最大の戦いですが、その発端となったのは、パエ(現在の門別町)のアイヌとの20年にもおよぶイウォル(領地)をめぐる争いでした。


 1640年代、パエの首長はオニビシ。シプチャリの長はカモクタイン、副首長がシャクシャインでした。1648(慶安1)年、シャクシャインがオニビシの部下を殺すという事件が起こります。このときは、松前藩が調停に入ったのですが、5年後の1653(承応2)年に、パエのアイヌがカモクタインを殺してしまいます。その後、両者は小さな争いを繰り返し、そのつど松前藩が間に入っていたのですが、だんだん険悪な状態となり、1668(寛文8)年4月にはとうとうオニビシが殺されます。


 パエのアイヌは、松前藩に救援を求めに行きますが、その帰途、使者の数人が急死してしまいます。これが、松前藩による毒殺と伝えられ、アイヌの人々の間にシサ不信が強まります。


 シプチャリの乙名になっていたシャクシャインは、このままでは松前藩によってアイヌの人々が皆殺しにされると訴え、各地のアイヌの人たちを反シサ、反松前としてまとめます。


 こうして、1669(寛文9)年6月、シラヌカからマシケに至るアイヌの人々が一斉に蜂起して、シサに対する大戦争が開始されます。はじめ、アイヌ軍が優位の内に戦いが進められますが、クンヌイ(長万部町国縫)の戦い以後は、アイヌ軍の勢力が分断されたこともあって、シサが優位となり、ついに、10月23日松前軍とシャクシャイン軍とは和解することになります。ところがこれは偽りの和解で、その祝いの席でシャクシャインが殺されてしまいます。指導者を失ったシャクシャイン軍は、結局は敗れ去り、以後は長くアイヌの人々の虐げられた生活が続くことになります。


クナシリ・メナシのアイヌ蜂起

 シサ、とりわけ場所請負人たちのアイヌの人々に対する過酷な扱いや、不公正な賃金の支払いなど非道のふるまいが横行するとアイヌの人々の間にシサへの不満が増大していきます。


 1789(寛政1)年5月、クナシリ島の人々がまず立ち上がり、ついでメナシ地方(現在の根室支庁管内目梨郡一帯)の人々が立ち上がります。かれらは、シサの運上屋などを襲い、番人たちを殺害するに至ります。この蜂起は、シャクシャインの時とは違い、組織だった蜂起というよりは一揆のようなものでしたから、松前の正規軍と一戦も交えないうちに、長老たちの説得で戦いを止めます。


 蜂起の指導者であるマメキリたち7人は、7月21日に死刑となります。しかし、このとき一緒に捕まっていたアイヌたちが騒ぎだしたため、全員が鉄砲などで撃ち殺されてしまいます。


 蜂起そのものは、わずかな期間で終わりますが、この後遺症は大きく残りました。マメキリらを説得した長老たちは、イコトイ、ションコアイヌ、ツキノエなどといった人々ですが、身内には蜂起に参加した者もおりました。この人々を松前藩は、御味方蝦夷と呼び、その肖像画も残されていますが、かれらの心中は如何ばかりであったでしょうか。


 この蜂起を最後にシサとアイヌ民族の戦闘は終わりを告げます。しかし、それは両者が理解し合って得た平和の訪れでなかったことはいうまでもありません。



年表2 アイヌの大闘争時代(松前藩の記録にあらわれたもの)


1456 蝦夷蜂起

1457 東部首長(コシャマイン)蜂起

1469 蝦夷蜂起

1473 蝦夷蜂起

1512 蝦夷蜂起

1513 蠣崎光広、大館を攻む

1515 東部首長(ショヤ、コウジ兄弟)の蜂起

1525 東西蝦夷の蜂起

1528 蝦夷の蜂起

1529 西部首長(タナサカシ)の蜂起、セタナ来寇

1531 蝦夷蜂起

1536 西部首長(タナサカシの女婿タリコナ)の蜂起

    <以後東西地とも平安となる>

1551 初めて東西の夷尹を定める。東地チコモタイヌ(知内)、西地ハシタイヌ(瀬田内)

1643 西部首長(セタナイのヘナウケ)の蜂起

1648 東部蝦夷間の抗争

1651 東部メナシクとシコツクとの抗争(1648と同事件か)

1653 東部メナシの蝦夷蜂起

1655 シャクシャインとオニビシの和解

1662 東部の蝦夷騒乱

1665 東部の蝦夷和解(下国安季のあっせん)

1669 シャクシャインらの蜂起

    10月23日、シャクシャイン謀殺

1670 西部与伊知(よいち)の蝦夷を征す

1671 東部之良遠伊(しらをい)の蝦夷を征す

1672 東部久武奴伊(くんぬい)の蝦夷を征す

1758 ノシャップの蝦夷とソウヤの蝦夷の抗争

1770 十勝の蝦夷と沙流の蝦夷の抗争

1789 クナシリ、メナシの蝦夷の蜂起(最後の対和人闘争)


http://www.ainu-museum.or.jp/nyumon/nm06_rks04.html 2001.9/19閲覧

資料2

アイヌ文化の振興ならびに伝統等に関する知識の普及に及び啓発に関する法律

目的

第一条 この法律はアイヌの人々の誇りの源泉であるアイヌの伝統及び文化(以下「アイヌの伝統等という」)が置かれている状況にかんがみ、アイヌ文化の振興ならびにアイヌの伝統等に関する国民の知識の普及及び啓発(以下「アイヌ文化の振興等」という)を図るための施策を推進することにより、アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現を図り、あわせてわが国の多様な文の発展に寄与することを目的とする

定義

第二条 この法律において「アイヌ文化」とはアイヌ語ならびにアイヌにおいて継承されてきた音楽、舞踏、工芸その他の文化的所産及びこれから発展した文化的所産をいう

国及び地方公共団体の責務

第三条 国は、アイヌ文化を継承するものの育成、アイヌの伝統などに関する広報活動の充実、アイヌ文化   の振興等に資する調査研究の推進その他アイヌ文化の振興等を図るための施策を推進するために必要な助言その他の措置を講ずるよう努めなければならない。 

   2 地方公共団体は、当該区域の社会的条件