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2003-2004 Archive

性善説と性悪説

  • Posted by: マルコ式
  • 2003年12月11日 09:06
  • 2003-2004

簡単に説明すると、
人はもともと善い人間であるとするのが、性善説。
人はもともと悪い人間であるとするのが、性悪説。

ただ、人が誰しも善い人間であれば、警察はいらないし法律もいらないのです。誰もが善い人であれば、危機管理は必要も無いし、 セキュリティーも必要なのです。なぜ必要なのかという根底には、人はみな少なからず悪いことをするという前提があるからです。
僕自身もその考え方は正しいと思っています。聖人でもない限り誰もが少なからず、正義や良心に背く行いをしたことがあるでしょう。 そんなことはしたこと無いという人は、正義や良心に対する認識があまいのです。 特に宗教的正義や良心が欠如している現代人にとってはそれは顕著かもしれませんが。

ここまで書いてきたことからも分かるように、僕は性悪説を基本としています。 警察も公安局もネットワークエンジニアもこの考え方が行動原則にあるべきなのです。

ただ、常にそんなことを考えているとはっきり言って人とは付き合えません。なぜなら、誰もが悪人に見えてしまうのですから。
そんな状態になったら、家から一歩も外に出れなくなってしまいます。

人間はよく社会的動物であるといわれますが、外へ一歩も外に出れない生活は、人間らしい生活とはいえません。 人間らしい生活をするには、他人を信じることが必要になるのです。

今日、電車で財布を落としてしまいました。性悪説であれば、絶対に財布は戻ってこないばかりか、 クレジットカードなどを悪用される恐れをすぐに考えます。この場合、楽観的に考える人のほうが少ないと思いますが。

通常この場合、現金の帰ってくる確率は低いです。性善説と性悪説で考えれば50%という確率のはずですが、 なぜか低いように感じるのは、なぜでしょうか。

僕の財布は実際どうなったかというと、ちゃんと帰ってきました。もちろん現金もしっかりと。

財布を取りに行った時、駅員さんの話では通常届け出があった場合、 権利を主張すればその現金の中から何パーセントかを出すことになっているらしいのですが、その届けてくれた方は、 権利を主張することなく名前も語らず置いていってくれたそうです。

どこの誰かは分かりませんが、本当にありがとうございます。

もう諦めていたところに吉報が届いたわけなので、感動しました。
人のやさしさにふれると、性善説を信じてみたくなります。どちらが良いかではなく、どちらも大切というバランスなのかもしれません。

行列・基盤・母体:Matrix

  • Posted by: マルコ式
  • 2003年11月20日 09:04
  • 2003-2004

最近、話題になっているマトリックスを観て思ったことは、現実ともあまり違いすぎないということです。なぜかというと、 マトリックスの話はプログラムや機械が人間を支配しコントロールしているという内容なのですが、 既にその兆候が見えるのではないかと思うからです。

現実的には機械に支配されているようには感じられませんが、今やいたるところに機械が存在し、 それを無視しては生活できないほどになっています。

パソコン、携帯電話、自動車、テレビ、飛行機、エアコン、炊飯器、冷蔵庫など数えあげればきりがありません。 これらが無くとも人は生活できるでしょうが、一度知ってしまった利便性を失うことは、想像の域で止めておきたいと願うでしょう。

文明とは、それに人が支配されている状態のことを指すのではないかと思います。 俗に言う未開の地域では何にもし配されること無く生活を送っているようにも見て取れます。現代人は、 マトリックスに観るように既に機械やプログラムによる支配が始まっているのかもしれません。

ただ、現実と映画の決定的な違いは明確です。機械による統制(コントロール)を受けていないということです。もしかすると、 それも時間の問題かもしれませんが。

マトリックスがこれだけ盛り上がるのはひとえに違いすぎないフィクションであるからなのでしょう。

仕事とは?

  • Posted by: マルコ式
  • 2003年10月16日 09:02
  • 2003-2004

先日、ドラッガーの「仕事の哲学」という本を読んで、実感として感じたことがあります。それは、「仕事は責任である」ということです。 仕事が大変だと思うときはいつも、責任が果たせそうもない時です。それは、自分の技量が足りないのか、 その仕事が良い仕事といえないかは分かりませんが。

例えば、会社には役職と言うものがあります。部長・課長・係長などと言うものです。役職はその分だけ責任も高くなりますが、 その反面権限も広がります。自分に与えられた「責任」を果たすからこそ、その分が給与という形で反映されるのです。

ただ、自分の責任を果たせないくせに権限のみを行使し高い給与を得ている人たちもいます。経済全体が順調なときは、 黙認されますが不調になるにつれそういった人たちは、会社にとって負担となる事はもちろん、多くの人に迷惑をかけることになります。 その場合は「仕事ができない人」というレッテルが貼られてしまうでしょう。

そうなってしまってからでは、信用はがた落ちですし取り戻すことは難しくなってしまうでしょう。

これらのことは、学生の方は言葉として理解できると思いますが、経験がないため実感として理解できないでしょう。 そのためのインターンシップと言うわけですが、まず仕事とは何かということを言葉として理解し、経験を経て実感してもらいたいのです。

責任を果たすことで初めて自由が手に入れられる。

昔、父親に対して「僕の自由だろ!」というと、「何も責任を果たしていない奴が、自由を主張するな!」とよく怒られました。
その頃は「何でも自分勝手にできることが自由」だと思っていましたが、今となってはその言葉の意味がやっと理解できます。

それは、自分が仕事をし始めるからなのでしょう。

その日暮らしで楽しく生きれれば、それはそれでその時は楽しいのかもしれません。それがその人にとって幸せなのであれば、 別にかまわないと思います。あくせく働き、何かに追われ毎日を過ごしている生活より、自然の流れに身を置き、 その流れにあわせてゆっくりと生活するというスタイルもあります。

何を求めるかは人それぞれだと思いますが、自分にとって何が幸せなのか、自分は何を求めているのか、 何事もなく平穏無事に生活する方が良いのか、常に刺激的な環境で、新鮮な生活を送るのか、その答えは、 今の段階では殆ど誰もわからないでしょう。

ただ、経験することによって見えてくるものを、いかに吸収し自分の糧にできる人間になれるかを真剣に考えてください。

仕事で責任を果たせるようになると言うことは、社会においても同様のことができると言うことです。 20歳になったからと言って成人するわけではありません。 18歳でも、19歳でもこのことを理解させしていれば、 既に成人しているのでしょう。逆に言えば、30歳でも40歳でもこのことを理解できていない人は、全く大人になっていない(成人していない) と言うことです。

仕事に対する考え方は、人それぞれ違うことでしょう。ただ、仕事を責任と考えたときいい加減な気持ちで仕事はできなくなると思います。

つれづれなるままに

  • Posted by: マルコ式
  • 2003年9月18日 08:59
  • 2003-2004

9.11の衝撃は今でも鮮明に覚えていますが、既にあれから2年も経っていたとは気がつきませんでした。 日々世界が変わっていると言うことを、なんとなく感じるだけで、ブラウン管の向こう側と紙面に書いてあることだけが、 自分にとっては全てです。

あれから2年経ちますが、何か解決したのでしょうか。
首謀者の生死も不明、イラク進攻の結果もたらしたものは、混乱だったのではないかとも思います。
アフガニスタンのその後は今どうなっているのでしょう。

もし、日本で同じようなテロが起こった際はどうなるのでしょう。
アメリカと同じように報復に出るのでしょうか。

タイガース優勝という明るい話題の影に隠れている部分は、今も尚、そこに横たわっているはずです。

話は変わりますが、阪神が優勝する年は景気が良いという話を聞きました。
事実、株価は阪神の動向と同じくして上がっていたりします。
(昨日の時点で11,000円台です。ちなみに6月ごろは8千円台後半をうろうろしていました。)昨日も、 優勝セールに行ったのであろう奥様方が買い物袋を片手に満足げに家路に向かっているのを見ました。

日本の貯蓄高は1,200兆円とも1,400兆円とも言われています。
このお金が、市場に流出すれば一気に景気は回復すると、政治家や経済評論家の先生が幾度となく仰っていたのを覚えています。

ちょっとしたきっかけで、それは起こるのかもしれません。

アフガニスタンのその後ですが、外務省の公式ページには、2005年
までに最大5億ドル (約5800億円)まで、支援をすることが決まっています。
順調であれば既に今年の時点で、 4億72万ドルが動いているはずです。

イラクの復興支援は表向き人道支援ということですが、自衛隊の救援自衛隊機による輸送ということも盛込まれており、 ここでも多額のお金が動いているわけです。
自衛隊は、世界で一番高い派遣だといえます。

ブッシュ大統領が悪の枢軸と名指しした国は、例外なく武力行使されています。

お互いの正義がぶつかり合うから戦争は起こるのかもしれませんが、どこか常に附に落ちない部分があるのは、なぜでしょう。

Keep on

  • Posted by: マルコ式
  • 2003年8月21日 08:56
  • 2003-2004

最近、弊社にカウンセリングに来ていただいた方にほぼ必ずといって良いほど同じ話をよくしています。
その中の一つで、「成功するためのコツ」があります。

もともと、この話のネタはある講演会で民主党議員の先生がお話していた内容なのですが、 この先生も松下幸之助から聞いたという話なのです。
ご存知かどうかは分かりませんが、起業家や政治家を多数輩出している「松下政経塾」という塾が現在も神奈川県の茅ヶ崎にあります。
この先生は、そこの2期生ということで実際に松下幸之助から話を聞けたそうです。

松下幸之助といわれてピンと来る人もおるでしょうが、「誰?」
と思われる方もいらっしゃることでしょう。簡単に説明させていただくと、パナソニックやナショナルなどの松下電器産業の創始者です。
社会常識ですので知らないとかなり恥ずかしいです。

2期生ですので、まだ松下幸之助が生きていたとき週に1回か2回ほど政経塾に来て、話をしてくれたそうです。あるとき、突 「成功のコツを教えてやろうか」と言われたので、成功者が語る
成功のコツを聞けるなど二度とないと思いったそうですが、「成功するにはな...成功するまでやめないこっちゃ」といわれた瞬間は、 ガクッと拍子抜けしたそうですが、かなり納得したといいます。

この話を聞いたとき、なるほどなぁと感心しました。
誰もが成功したいという願望を少なからず持っているのに、成功する人たちが少ないことの理由と合致するからです。

まずは、成功したいという強い願望が無ければ始まりませんが、思っているだけでも何も始まらないのです。
1st stepは、まずその願望を達成するための行動が必要です。
自ら動くことが必要なのです。
「幸せは~歩いてこない だ~から 歩いていくんだよ~」という歌にもあるように、幸せに向かっての第一歩が本当の始まりなのです。

ほとんどの人は大抵思っているだけで終わっていることがかなり多いです。
宝くじはそんな人たちの想いが形になったものではないでしょうか。

2nd stepは、成功するまで継続することです。
はじめに話したことはここなのです。
ただし、成功するまで継続することは並大抵のことではありません。
続けることは決して楽なことではないのです。
「継続は力なり」や「挫折」という言葉は、いかに続けることが大変かということをあらわしている言葉だと思います。
一説では会社の寿命は30年といわれていたりします。
最近ではサイクルが早まり10年に縮まったともいわれています。

最近コラムのネタ帳となりつつある『Bit - size Einstein』から「賞賛による堕落から逃れる方法はただひとつ。
仕事を続けることである。人は、立ち止まって賞賛に耳を傾けがちであるが、唯一なすべきは、賞賛から目をそらし、仕事を続けること。 それ以外の方法はない」[P106]アインシュタインも成功者と呼ばれる一人ですが、同じようなことを言っています。

「言うは安し行なうは難し」とはよく言ったものですが、これほど単純明快なコツがあるのにそれが出来ないのです。ただ、 全ての人が出来るのであれば全員が成功者になれるはずです。

戦後の復興から成功するまでやめなかった結果、今までの日本は実は全員が成功者だったのではないかと、思います。 国土面積特に居住可能面積を見てもかなり少ない国ですが、一時は大国アメリカを抜く勢いがあったのです。
それは、日本国民のほとんどが成功者であったからなのかもしれません。

最近、仕事が続かない人が数多くいますが、この状況は近い将来必ず敗者と勝者という2者分立を生むことでしょう。


アリは働き続けたために長い冬を生きながらえたのです。

二十四節句

  • Posted by: マルコ式
  • 2003年7月17日 08:53
  • 2003-2004

7月も残り半分となり、学生の方は夏休みも近づいていると思います。
学校によっては既に夏休みの方もいらっしゃると思いますが。

季節は国によって様々に異なりますが、今はグレゴリオ暦が一般的です。
日本古来の暦もあり旧暦という風習としての残っております。
例えば、「冬至」に「かぼちゃ」を食べたりします。

今は夏なので、冬の話をしても実感がわかないので、夏の話をしましょう。
夏であれば、「土用丑の日」に「鰻」を食べるという風習があります。
でも、この風習は二十四節句には入っていません。

ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、この「土用丑の日」は江戸時代に平賀源内が作ったものと言われています。
当事、夏に鰻を食べる風習がなかったため、夏場の鰻屋は商売に困っていました。そこで、ある鰻屋さんが平賀源内に、 どうしたものかと相談したのでした。

先ほど、「土用丑の日」は二十四節句には入っていないと言いましたが、全く関係がないわけではありません。「土用」とは、「立春」 「立夏」「立秋」「立冬」の前18日の事を指し、丑の日は十二支の丑にあたる日のことをさします。

初めは思いつきだったのかもしれませんが、鰻屋の店先に「本日、土用丑の日」と掲げたところその鰻屋は大変繁盛したそうです。
そこから、夏バテ防止には土用丑の日に鰻を食べると言う風習ができたのです。

そんないきさつですが、鰻にはビタミンAを初めとするビタミン郡が豊富で科学的にも夏バテ防止になると言うことが分かっています。
平賀源内といえば、「エレキテル」を発明していますが、「土用丑の日」も発明していたのです。

一番初めの「冬至」に「かぼちゃ」を食べる風習も風邪の予防になると実家の祖母に聞いたことがありますが、 かぼちゃにはカロチンやビタミンが多く含まれるのであながち迷信でもなかったりします。
それと、「ゆず湯」という風習もありますが、それは「冬至」と「湯治」をかけたものだといわれています。

日本人の季節を二十四に分ける感性もさることながら、その節句ごとの風習があることも、他では見られないものです。
その感性に気付ける余裕は、いつも持っていたいと思います

最近思ったこと

  • Posted by: マルコ式
  • 2003年6月19日 08:51
  • 2003-2004

 先日、ソニーが新商品を出したという記事を朝日新聞で読みました。
といってもデジカメなのですが、今までの小型で安い商品とは違い、1台32万円もするものです。
結構高いです。というより相場を大きく上回る値段だと思います。
 それと、マクドナルドも従来の安売り戦略から乗り換えてオリジナルメニュー戦略になっています。

 以前は、安いものが重宝されディスカウントショップが大人気で世の中安いものだらけでした。 もちろん先にあげた2社も同じ戦略を取っていたわけです。

でも、エコノミストなどはデフレスパイラルが起こっているのでこれをまず何とかしなければならないと口々に言っていたと思います。
それでも、社会の流れの中では安くなければモノが売れないと錯覚していました。

そんな中でも、エルメスやグッチは非常に高い収益率を日本で上げていたのはなぜなのかという点です。

簡単なことですが、ブランド力があったからこそ20万円以上するバックが飛ぶように売れていた訳です。

日本は不況だといわれてますが、個人の貯蓄率はかなりのものです。
(これは、インターネットでつい最近の数字を見つけました)
要するに、いかに消費欲求を刺激するかが鍵だったのではないかと思います。

お客さんは何を買うのかというと、とどのつまりそれは「満足」を買うのではないのでしょうか。

ソニーのバイオはパソコンに少し詳しい人なら性能の面から見てあまりお奨めしませんが、 ソニーに対して満足している人はそれでも買うでしょう。会社の信用を買っているとも言えるかも知れません。

価格に見合った「満足度」というものが、あると思います。
1泊5万円のホテルと一泊5千円のビジネスホテルとでは、サービスの質が違います。ただ、5万円払ってもそれ以上のサービスが提供できれば、 みんな納得できるでしょう。
しかし、5万円を払っているのにビジネスホテル並のサービスしか受けられないのであれば、誰も納得しません。
その納得できない状況を俗に「詐欺」といいます。

やり手の営業マンはやり手の詐欺師に成れる素質があり、逆にやり手の詐欺師はやり手の営業マンにも成れると思います。

ただ、お客さんにどのくらい満足を売れるかによって変わってくるのだと最近思いました。

ただなんとなく、そんなことを思った今日この頃です。

Time is money

  • Posted by: マルコ式
  • 2003年5月29日 08:47
  • 2003-2004

時間の使い方、感じ方、流れ方には様々な組み合わせがあると思います。
東京で仕事をしているときの時間の流れと感じ方は、非常に早いですが、実家に帰ったときの時間の流れ方と感じ方は、かなりゆっくりです。
ただ、のんびりしているからという話もあるかもしれませんが、客観的に考えても違いはあると思います。
時間の感じ方に関しては、そこにいる人たちの行動によって大きく変わってくるでしょうし、 使い方についても周りの人がのんびりなのに自分だけがせっかちに動くことはあまりないと思います。
この2つの違いによってその場所の時間の流れが変わってくるのでしょう。

愛読書のBite size Einsteinに面白いことが書いてありました。
「熱いストーブに1分間手を載せてみください。まるで1時間ぐらいに感じられるでしょう。ところが、 かわいい女の子といっしょに1時間座っていても、1分間ぐらいにしか感じられません。それが、相対性というものです。」
これを見たとき、あぁ、なるほどなぁ~と感心しました。

時間それ自体が相対的なもので、その違いを認識できるのは自分しかいないのです。

人生80年を長いと感じるか、短いと感じるかによって考え方は結構変わってくると思います。
長いと感じれば、「まだ時間あるし、いいか・・・」と思うでしょう。
逆に短いと感じれば、「もうこんな時間だ。なんとかしないと。」と思うでしょう。
それも人の感じ方の部分ですが、時間をいかに感じるかによって考え方はもちろんですが、生活面でも変化があるとおもいます。

ちょっと前にブームになった「チーズはどこへ消えた」という本がありました。 その中でも同じことを言っていたのではないだろうかと考えています。
ある日突然そこにあったものが消えてしまった状況で、どのような行動を取るかということだけが、 強調されていましたが時間の使い方という視点からみるとまた違った見方ができるかと思います。

昔から、「Time is Money」「時は金なり」と言いますが、そのことは、真理をあらわしているのではないかと最近思います。

努力と才能

  • Posted by: マルコ式
  • 2003年5月15日 18:25
  • 2003-2004

こんな話を聞いたことがあります。

才能×努力=結果

努力と才能は掛け算によって結果を生むと言うことです。
例えば、才能が1ある人間が努力を100すれば、

1×100=100

となり、そのまま結果に結びつきます。

才能が10ある人であれば、同じ努力をすると

10×100=1000

となり、周囲から天才と呼ばれるかもしれません。

この方程式だと逆に才能が0の場合は幾ら努力しても結果に結びつかないと言えます。

0×100=0

ちょっと残酷な話ですが、的を得てると僕は思います。

現在の教育は、「才能を潰す教育だ」という方もいらっしゃいます。
現在の教育は、「詰め込み方」であり、個々人の才能を全く無視した教育と言えるでしょう。
極端な話、数学の才能のない子供に100の努力をさせても結果は得られないのです。

少し前に、『金持ち父さんの子供はみんな天才』という本を読みました。
日系4世のロバート・キヨサキ氏の『金持ち父さん、貧乏父さん』シリーズの第4弾になりますが、
テーマは教育に関してでした。
その中で、その人に合った教育の仕方があるという内容があり、エジソンの子供の頃の話を思い出しました。
エジソンは現在では天才として知られていますが、学校に馴染めず、母親から教育を受けました。
エジソンの場合は、やり方を見つけなおかつ才能を伸ばした結果、天才と呼ばれるまでになったと思います。
エジソンの有名な言葉で、「天才とは1%のインスピレーションと99%の努力のたまものである」 という言葉はご存知でしょうか。

エジソンにはインスピレーションという才能があったからこそ天才と呼ばれたともいえます。

自分の才能と自分に合ったやり方を見つければ、後はひたすら努力をすれば良い訳ですが、初めの2つを見つけるのが大変です。

1つの案としては、色々やってみてその中で特性を見つけていくという方法がありますので、とりあえず行動してみてはいかがでしょうか。

 

桜、さくら、サクラ

  • Posted by: マルコ式
  • 2003年4月24日 18:23
  • 2003-2004

既に4月下旬で、新緑が彩る季節になりました。今年の桜は、春雨の影響もありあっという間に散ってしまった感じがします。

一言に桜といってもたくさんの種類があり、それぞれに咲き方、時期などの特色を持っています。
俗に言う桜はソメイヨシノと言う種類です。
尚、桜は日本の国花であることはご存知でしょうか。

日本人は桜を単にハナと呼ぶことが多々あり、花見と言えば、桜の下で…というのは、日本人なら誰でもイメージすることでしょう。
日本人にとってハナ=桜なのです。
そういった意味で、友好の証としても使われたという歴史もあります。

アメリカのワシントンでも桜が咲きますが、あれは日本から輸入されたものです。
確か、中学一年のときの英語の教科書に書いてあったのを記憶しています。
(だいぶ古い記憶なので、あいまいですが)
日本人にとって桜は他の花よりも特別な存在なのです。

散り際の美学というものが存在するらしいです。
これは、桜のように美しく咲き乱れそして惜しまれつつ散る様のことを表しています。
日本人の恥の美学もここから来ているのかもしれません。
桜が散る様は非常に侘しさを感じます。
この侘しさこそが日本の美そのものなのです。
切腹は、見苦しく生きるより美しく散ることを選ぶ選択肢として捉えられていたのでしょう。

例えば、ある日本のスポーツ選手が既に限界を超えているのになおも執着し続けることは、 多くの日本人は非常に見苦しく感じると思います。
少なくとも僕はそう感じます。
他の国であれば、これは賞賛されることかもしれません。
そういった価値観を持っている日本人もいると思いますが、結構年齢の高い人などは、一体どうみるでしょう。

特に、角界ではその美学が色濃く反映しています。
角界では、横綱を目指し精進するわけですが、横綱に昇格した後は、 常に勝ち続けなければならないプレッシャーと格下の力士が自分を破るかもしれないという不安を抱えながら相撲をとらなければなりません。
しかも、そこまで上がってくる為には体を酷使しなければならないわけです。
去るタイミングを逃すと、実際去る際に印象があまりよくなくなってしまうということも考えられます。

盛者必衰の理もまた、日本人の美学を追求する上では欠くことのできないものであり、ここにも侘しさを感じずにはいられません。


今年から新生活を送る人も数多くいることと思いますが、桜が散るころになると、侘しさを感じすぎ五月病になってしまう人もいますが、 これもまた日本の風土と文化が生んだものなのかもしれません。

 

ウサギと亀の話

  • Posted by: マルコ式
  • 2003年4月10日 17:56
  • 2003-2004

誰しもが、小さいころにウサギと亀の競争の話を聞いたことがあると思います。


ウサギは亀に「お前には負ける気がしない」と豪語しました。

しかし実際はウサギは負けてしまったわけですが、その理由はウサギが怠けて寝てしまったから、 歩みが遅い亀でも勝つことができたのです。


ただ、この考え方は昔の社会制度にあった考え方で、こつこつ地道にやっていれば、いずれはその歩みは報われるという話です。


僕は、今までの浅い人生の中で何人かウサギと同じことを言って負けた人を見てきました。
「お前には負ける気がしない」

この言葉自体に既に油断が生まれているのを知らなかったのです。
「窮鼠猫を噛む」という諺がありますが、これも立場的には弱いネズミですら追い詰められれば猫を噛むのです。
人も同じで、追い詰められた人ほど強い人は居ません。


特にそういう人は何をするかわからないので、危険でもあるのです。


一般的には亀が勝ったというお話に見えますが、なぜウサギが負けたのかと言うことを教える話でもあるのです。


普通に考えれば、まずウサギが負けることは無いのです。
負けた理由は油断して寝てしまったことにあるのですが、勝負に負けたことに変わりはありません。

「反省すべきは反省しですね・・・」と国会答弁で述べた代議士ではありませんが、ウサギにもその点を反省してもらいたいです。


同じ競争をもう一度やれば、負けることは無いと思いますが、お話の中でもそれは行なわれてはいないのです。
現実社会で「もし」「…だったら」といったことは存在しないという事も暗に伝えているのかもしれません。


誰もがこういった油断を常に抱いている事はあると思います。


僕だって、油断しているときはあります。
油断大敵という諺もありますが、ウサギは勝負には油断に負けて試合には亀に負けたのでしょう。


油断をしているなぁと感じたとき、「己に勝てば百戦百勝」という言葉
を思い起こします。

己(自分)には常に油断という敵が存在し、まずその強敵から倒さなければ、相手に勝つことはできないという考え方です。
一種の戒めでもありますが・・・・。


言葉を知ると言うことは、ある意味考え方を知ることなのです。
(どっかで同じ事を言っていた人が居たような…)
特に日本語は2千年以上の歴史があり、その時代時代で言葉が違うのです。
それは、常に日本人の考え方が変化してきたことを表しているのでは無いでしょうか。

これからも日本語は常に変化していくでしょう。
100年後、今使用している言葉が通用しなくなる可能性は大いにあるのです。

既に外来語として外から入ってきた言葉によって会話の内容を理解できないところまで来ています。
(だから、『これだけは知っておきたい日本語』と言う本が馬鹿売れするのです)

 

今回の要点は、ウサギと亀の話でなぜウサギが勝てなかったのかということだったのですが、 色々と諺を出しているうちに言葉の話になってしまいました。

無理やりまとめると、より多くの言葉を知り考え方を広げ決して「勝てないウサギにはならないこと」とでもしておきましょうか。

Educational Octgramその2

  • Posted by: マルコ式
  • 2003年3月27日 21:01
  • 2003-2004

前回は、人にはそれぞれ素養があるという話しをした。
今回はどのような素養があるのか具体的にあげてみたいと思う。
小学生のころ誰もがIQテストをしたと思う。そこでいい結果を出すことで天才もしくは神童などと呼ばれることはざらだ。幸い僕の周りにはそういった人は居 なかったが、一緒に遊んでる割にテストの成績がやたらといいやつは居た。一緒に遊んでいると言うことは、同じ時間を共有していることであり、同じ時間しか ないはずなのになぜかテストはやたらとできる...。はじめ僕はそういう彼らはみな頭の構造が違うんだろうなぁと思っていた。だが、そういう人たちでもうまく できないことは何かと多かったりもする。例えば、最たるものとしてスポーツがあげられる。勉強のできるやつほどスポーツが苦手というのは典型的だが、他に も絵心が全く無かったり、意外と不器用だったりなど必ず欠点はあるはずだ。できない人間ができる人間と触れ合うときは、大抵その人の欠点を探してしまいが ちになるので、勉強はできてもなぁ~と言う人は意外と多いだろう。
とりあえず、欠点の無い人間は居ない。何かしら欠点は持っている。ただそれが少ない人は実際に居るが。
このことは、素養の最たる例であり全ての素養を持っているわけでもない。もしかしたら、僕が会っていないだけで実は居るかもしれないが、少なくとも今までの微量な人生ではそんな人にはお目にかかったことは無い。
この素養は大きく分類して約8種類存在するのではないだろうかというのがこのEducational Octgramの基本概念である。
一つは、はじめに述べた「IQ」。これはリテラシー能力の素養である。リテラシーとは読み書きのことであるが、読み書きの素養が高いと勉強は良くできるはずだ。本を読むことで人より多くのことを学べ、それがテストに反映されると言うわけだ。
次は「EQ」。これは以前ブームにもなったものであるが、本から学ぶと言うことではなく人から学ぶという素養のことをさしているのではないだろうかと僕は 考えている。「EQ」を専門で研究している人から言わせれば、そんなに簡単なものではない!などと怒られてしまうかもしれないが、解釈の仕方が違うだけと ご理解いただければ幸いである。
3つ目は、「数理」。これは、理系文系という素養に関わる部分である。高校になるとそういった分け方が行なわれるので、なじみがあるだろう。
4つ目は、「人文」。これも、理系文系という素養に関わる部分のことを示している。
5つ目は、「環境」。これは、人間以外のとりわけ自然に関する素養である。農業などはまさにこの素養が無ければ従事できない。親戚のおじいさんに聴いた話 だが、「農家の一番重要な情報は天気予報だ。」ということからも納得できる。基本的にニュースは見ないらしい。(じっくり見てもあまり役に立たないから)
僕のおばあちゃんは、雨が降ることを当てることができた。いくら天気予報で今日は晴れるといっていても、おばあちゃんが雨が降るといえば、必ず雨が降って きた。下手な天気予報より良くあたるので、朝学校に行くとき、今日の天気を聞いたものだった。
6つ目は、「空間」。この素養の特徴はあからさまに現れる。空間的認知能力とも言い換えることができるが、地図があっても道に迷うと言う人はこの素養が少 ないと言うことだ。この素養は、イメージする素養とも言える。何かを基にして新しいものをイメージすることができるか。この素養にかかっている。
7つ目は、「身体」。この素養は、スポーツに関連している。この素養が高ければ、割とどんなスポーツでも一通りできるだろう。逆に低いと、いくらがんばってもうまくいかないという状況に陥る。
最後は、「学問」。この素養は、勉強のことを言っているわけではない。学問の本質は問うことを学ぶことであるので、要するに考える素養である。体を動かす ことよりも、頭で考えることの得意な人は居るはずだ。と言うより僕はこの素養はあると思う。
なぜなら、詭弁論考の作者だからだ。
7番目と8番目は、頭を使うことが得意か体を使うことが得意かということだ。

IQテストというものが存在する以上、これらの8項目は全て測定できるのではないだろうかという考えが、Educational Octgramである。
OctgramはDiagram(図)と言う言葉にラテン語の8(Oct)をつけた造語である。日本語に訳せば、「教育の八連図」とでも言うのだろうか。
このEducational Octgramは、教育をする上で子供の素養を引き伸ばし、可能性を十二分に発揮できるようにと考えている。
今までの詰め込み方の教育が「ゆとり教育」と言う形で崩壊を遂げた現在に、新しい指針として是非使っていただきたいと考えている。
教える側、教わる側のストレスをなくしスムーズに教育を行なうことは、これから先最も重要なものの一つとして視野に入れてみてはどうだろうか。



実践社会学 = インターンシップ

  • Posted by: マルコ式
  • 2003年3月27日 17:54
  • 2003-2004

 JOYB株式会社、事業統括部の丸子です。

 僕はこの3月大学を卒業します。今までインターン生としてジョイブで仕事をしてきて、4月より社員として勤務を「継続」します (一応「即戦力入社」かもしれません)。


 自分は大学では「社会学」を専攻していました。

社会学!? あまりなじみの無い人やどこかで聞いたことがある人それぞれだと思いますが、簡単に言うと「社会で起こりうる全ての事象」 が社会学の研究対象となります。

 そのため、「社会学」は非常に幅の広い学問として多くの人に理解されています。産業社会学、社会心理学、家族社会学、 社会病理学などなど、とりあえず「社会学」とつけば何でも社会学なのです。


 大学で教えることは、社会学史や社会学概論は勿論のこと、デスクスタディーであることばかりでした。実際どこの社会学科や社会学部でも、 やることはほとんど一緒だと思います。


 しかし、社会のことを勉強するのに社会に出ず勉強するのはいささか問題なのでは?
などと感じてしまいます。大学生時代、教授の中には「社会学科の学生は外に出ろ」という人もいましたが、 どうもそれはフィールドワーク(注1)のことを指していたようです。


 僕は、「もっと社会と関わることで社会を学ぶこと」が『社会学』なのではないかと常々考えていました。では、具体的には「社会」 とはどのように関わっていけばよいでしょうか。


 僕は半年間JOYBでインターンシップをして、「これが僕の求める社会学なのかもしれない」と考えました。


 最近読んだ本に『SEの思想』というものがあります。
ここで書かれている内容は、優秀なSEを育てるためだけのものではなく、ビジネスに関わる全ての人に当てはまるものでした。


 その中で、「習うより慣れろという職種であるのは紛れも無い事実である」という一文がありましたが、 この言葉はSEやプログラマーにのみ限った事ではないと思います。

 いくら丁寧に教えたところで、相手に覚える気が無ければ、全くその人の身にはつかないのです。このことは、 他の業種でも同じことが言えるのではないかと思います。


『実際にやってみる』

 このことが、僕の考える「実践社会学」の基礎理念です。
その方法論は、インターンシップを通して社会と関わることで明らかにできると信じています。


 僕はこれからも、この「実践社会学」をもっと深く追求していきます。

Educational Octgramその1

  • Posted by: マルコ式
  • 2003年3月23日 21:00
  • 2003-2004
人には学ぶ姿勢というか素養というものがある。
勉強が得意な人。スポーツが得意な人。絵を描くのが上手な人。お金を稼ぐのがうまい人。いろんな人が世の中には存在するだろう。
しかし、成功者と呼ばれる人は誰もが自分の素養に合った勉強法を行なってきた。
人にはそれぞれうまれ持った素養が存在するのではないだろう。言い換えれば才能だ。
ある数学者がこんなことを言っていた。
「成功するための方程式は、才能×努力=結果」なのだと。才能が1でもあれば努力はその分だけ報われるが、もし才能が0の場合はいくら努力しても結果には 結びつかない。ただ、才能が2あれば努力は2倍の結果として3あれば3倍として結果に結びつくとも言える。
才能を伸ばす教育のほうが、その子供にとっても教える側にとってもいいのだ。教えられているほうは、スイスイ覚えることができ満足感が容易く得られる。ま たその満足感を味わいたいと願い今度は自ら学んでいく。逆に教えるほうは、何もてこずる事も無く教えたことをそのまま吸収してしまうので、教えていて楽し い。そうなると、ますます色々なことを教えたくなる。
このように素養を引き伸ばす教育はお互いのためになる。しかし、今の教育はそうではない。
素養の無い子に無理やり詰め込もうとするため、お互いつらい思いをするだけだ。教育に携わったことがある人には経験はあるだろう。天才と言われたトーマ ス・エジソンは学校では馬鹿と言われていた。しかし、彼の母親がトーマスに合った勉強法をほどこしたおかげで天才にと言われるまでになった。
アインシュタインも同じように自分に合った勉強法を続けた結果、大きな成果をあげることとなったのである。
子供はみな天才とロバート・キヨサキは著書の中で言っていたが僕もそうだと思う。もう少し僕なりに言えば、天才という可能性なのだと言える。
では、素養を見つけるにはどうしたらよいか。
どのような素養が実際あるのか。
次回はそのことの説明をする。

教育放棄

  • Posted by: マルコ式
  • 2003年3月22日 20:59
  • 2003-2004
学級崩壊やゆとり教育問題の根底にあるものは何か。
学校ではいろんなことを学ぶ。ただ、社会的なことをそこで学ばせようとするのは間違いだ。なぜなら社会は人の手により形作られ、人を育てるものだからだ。 学校の先生と呼ばれる人たちは、休日を返上してまで仕事に打ち込む。そうしなければ今の学校での教育は成り立たない。
しかし、子供たちはそんなことは知るはずも無いが。
なぜそこまで学校に求められるのか?
親は子供に何を教えているのか?
そんな話はよく聞く。実際今の親は子供には何も教えていない。バブル期より流行ったマイホームパパから子供は何も教われない。子供と友達になる親がいるがそれは子供の教育にとって非常に良くない。
子供はいつまでたっても子供であり続け、親はいつまでたっても親であり続ける。今までもそしてこれからもこの構造は変わることは無いだろう。
本来、親が教えるべきことと学校で教わることは分かれているはずだった。しかし、最近の親は学校に自分が教えるべきことすら委ねようとしている。
具体的には、礼儀だ。これは親が教えるべきものである。礼儀のなっていない子供は、親の教育が疑われるはずなのに、何かと言い訳をし自分の責任を転嫁しようとする。
よく礼儀の知らない人間に親の顔が見てみたいと言ったものだが、この言葉はそのことを意味している。
学級崩壊は、先生の威厳が教室内で失われてしまったともいえるが、この問題も礼儀の知らない子供が火付け役になるのだろう。最低限社会生活を営む上での礼儀を子供に教えることを放棄してしまった結果だ。
何度も言うが、子供は親から教わるものと学校から教わるものがそれぞれある。
だが、現実問題として女性の社会進出が進み親は子供にそれらのことを教える時間と余裕がなくなってしまった。それと核家族化という問題が重なると社会性の無い子供たちが蔓延してしまうのである。
なぜ女性の社会進出と核家族化が関係しているのかというと、祖父母のいない家庭では母親がやはり子供に対して教育をしなくてはならないが、祖父母がいれば、代わりに母親が仕事に行っている間に教育をしてくれる。
実体験としては、小さいことはおばあちゃん子だったため、どこにでもついていった。と言うより連れて行かれたといったほうが適切かもしれない。
僕が小さいころの町医者は老人たちのサロンだった。ちょうど医療費が65歳以上は無料という時代だったためである。僕の祖母はかなり社交的な人でおしゃべ りだ。そんな祖母と一緒にいて色々な人間に触れ合うことで、次第に同じようになっていったのかもしれない。
逆のパターンもある。
これは友人に聞いた話だが、彼も母親は仕事を持っていた。そしておばあちゃん子でもあった。ここまでは全く環境は一緒だが、彼のおばあちゃんはあまり人と 関わりを持たずほとんど家の畑ですごしていたらしい。彼もおばあちゃんの脇でいつもボーっとしていたと言うことだ。彼がもしかしたらそれが原因であまり人 付き合いが良くないのかもしれないと言っていた。
この2つはあくまでも特殊な例かも知れない。
しかし、子供の性格は環境によって形成されるとも言う。当たらずとも遠からずといったところか。
子供の成長を節に願わない親も居るみたいだが、ほとんどの親はそうではないだろう。
肉親にしてもそうだ。
子供は小さいうちにいろんな人に出会うことで社会性を育むのである。
その環境を作るのは親の役目だ。
TVゲームばかりしているのは良くない。よく親に言われたことだが、今頃になってその意味がなんとなくわかってきた。
親にとってはいつまでも子供かもしれないが、社会は成人したら一人の個人(大人)としてみるようになる。親にとっての子供と社会にとっての子供は全く違った意味を持つ。
ゆとり教育は学校の教育放棄だと感じるが、社会教育は放棄している親が多いのではないだろうか。

実践社会学

  • Posted by: マルコ式
  • 2003年3月 7日 20:57
  • 2003-2004

社会学では、実践的なものとしてフィールドワークという手法が良くとられる。
これは、現地調査というもので実際に現地に住み込んで、リサーチをすることだ。
文化人類学の例をとればわかりやすいかもしれない。一般的に未開社会と言われる地域(アマゾンの奥地とか、アフリカの民族社会とか)に入り込みそこで生活をし、研究するという方法である。

この手法は、社会学では良く知られて入るが、それのみを扱う分野はあまりない。
何を言いたいかというと、本当の意味での
「実践社会学」はまだ確立されていないと思われる。
学問が方法論であるならば、それでも良いだろうが、学問は単に方法論とはいえないのだ。
実践社会学というからには、それなりに学問体系が確立されていなければならないといえる。
それでは、いったい何を指して「実践社会学」というのか。
私が考える「実践社会学」とは、実際に社会に出て学ぶことを「実践社会学」という。
社会では、どちらかというと習うより慣れろという思考が強い。教えられたことをそのままやるのでは、自分自身の成長もないばかりか、その所属組織に対して損害を与えていることにつながりかねない。特に営利目的の組織であればなおさらだ。
実際、社会に存在する組織で一番数が多いのは営利目的の組織であり、その中でコストになる人間は、淘汰される。

では、淘汰されないためにはどうすればよいのか。
それは先ににも少しあげた「教えられたこと、言われたことのみをただこなすだけでは、誰も評価しないため、自分の付加価値を上げより考察すること」
が必要である。

ただ、このことはまだ学問的に体系づくられてはいない。
このことが学べる環境が実際大学などの学校にはないのだ。
ただひとつだけ、これを学べる環境がある。
それは、実際に社会出でて学ぶ「インターンシップ」である。
インターンシップとはもともと就業体験としてて意義付けられているが、言い換えてしまえば、「実践社会学」となりうるものでもある。
「習うより慣れろ」これが実践社会学のすべてであり、基礎概念である。

実際にまだインターンにシップを体験していない学生諸子には、ぜひ学んでほしい学問のひとつだ。



  • Posted by: マルコ式
  • 2003年2月26日 20:56
  • 2003-2004
刀の下に心を置く。
之すなわち「忍」なり。

バレンタインデーの起源

  • Posted by: マルコ式
  • 2003年2月14日 17:52
  • 2003-2004

一般的に2月14日はバレンタインデーということで、特に祝日でもないのにその日は浮き足立っている男性も多いことでしょう。

そんな原因の起源を調べてみました。


 バレンタイン・デーは、英語では「Saint Valentine's Day」、訳せば「聖バレンタインの日」という意味です。つまり、 バレンタインというのは「人の名前」なのです。どんな人だったかというと・・・。


 西暦3世紀のローマでのことです。
皇帝クラウディウス二世(在位268-270)は、若者たちがなかなか戦争に出たがらないので手を焼いていました。 その理由は彼らが自分の家族や愛する者たちを去りたくないからだと確信するようになったクラウディウスは、 ついに結婚を禁止してしまったのです。


 ところが、インテラムナ(イタリア中部にある町で、現在のテラモ)のキリスト教司祭である【バレンチノ(英語読みではバレンタイン)】は、 かわいそうな兵士たちを見かねて内緒で結婚をさせていました。


 それが皇帝の知るところとなったから大変です。しかも、当時のローマではキリスト教が迫害されていました。 皇帝はバレンチノに罪を認めさせてローマの宗教に改宗させようとしましたが、バレンチノはそれを拒否しました。
そこで投獄され、ついには西暦270年2月14日に処刑されてしまったということです(269年という説もあります)。


 ローマではルペルクスという豊穣(ほうじょう)の神のために、ルペルカーリアという祭が何百年ものあいだ行われていました。 毎年2月14日の夕方になると、若い未婚女性たちの名前が書かれた紙が入れ物に入れられ、祭が始まる翌15日には男性たちがその紙を引いて、 あたった娘と祭の間、時には1年間も付き合いをするというものです。翌年になるとまた同じようにくじ引きをします。


 496年になって、若者たちの風紀の乱れを憂えた当時の教皇ゲラシウス一世は、ルペルカーリア祭を禁じました。代わりに 『違った方法のくじ引き』を始めたのです。


 それは、「女性」の代わりに『聖人』の名前を引かせ、1年間の間その聖人の人生にならった生き方をするように励ますものです。そして、 200年ほど前のちょうどこのお祭りの頃に、殉教していた『聖バレンチノ』を新しい行事の守護聖人としたのです。


 次第に、この日に恋人たちが贈り物やカードを交換するようになっていきました。


 バレンチノは、獄中でも恐れずに看守たちに引き続き神の愛を語りました。
言い伝えによると、ある看守に目の不自由な娘がおり、バレンチノと親しくなりました。そして、 バレンチノが彼女のために祈ると奇跡的に目が見えるようになったのです。


 これがきっかけとなりバレンチノは処刑されてしまうのですが、
死ぬ前に『あなたのバレンチノより』と署名した手紙を彼女に残したそうです。


 そのうち、若い男性が自分の好きな女性に「愛の気持ちをつづった手紙」を2月14日に出すようになり、これが次第に広まって行きました。 現存する最古のものは「1400年代初頭にロンドン塔に幽閉されていたフランスの詩人が妻に書いたもの」で、 現在は大英博物館に保存されています。


 しばらくたつとカードがよく使われるようになり、現在では男女ともお互いにバレンタイン・カードを出すようになりました。

 バレンチノがそうしたように『あなたのバレンタインより(From Your Valentine)』と書いたり、 『わたしのバレンタインになって(Be My Valentine)』
と書いたりすることもあります。現在アメリカではクリスマス・カードの次に多く交換されているとか・・。


 実は、女性が男性にチョコレートを贈るのは『日本独自の習慣』です。
欧米では、恋人や友達、家族などがお互いにカードや花束、お菓子などを贈ります。


 では【チョコレート】はどこから出てきたかというと、『1958年に東京都内のデパートで開かれたバレンタイン・ セールでチョコレート業者が行ったキャンペーン』が始まりだそうです。


 そして、今では「チョコレート」といえばバレンタイン・デーの象徴のようになってしまいました。クリスマスもそうですが、 キリスト教になじみの薄い日本では本来の意味が忘れられてセールスに利用されがちのようですね。

 

 自分の命を犠牲にしてまで神の愛を伝え、実践したバレンチノ・・・。
今年のバレンタイン・デーはそんな彼のことを思い出してください。


  素敵な Valentine day を・・

思考法

  • Posted by: マルコ式
  • 2003年2月 9日 20:48
  • 2003-2004

物事を考える上でのポイントは、
「難しいことを簡単に考え、簡単なことを難しく考える」ことだと僕は思う。
難しいことを難しく考えれば、考えるほど深みにはまっていき、答えを見失う。
難しいことに対する答えは、大体簡単なものだ。
僕は、文系なので自然科学や応用科学は非常に難しく感じるが、答えだけを見れば実に簡単なことに気がつく。数学を例に挙げれば、非常に難解な数式があったとしても答えは一つしか出ない。複数の可能性はあまり考えられない。
僕が高校生のとき、数学は全く出来なかった。今考えれば、思考法を間違えていたのだとおもう。
テストで、問題を見るとどうも複雑に考えすぎて、時間内に答えを導き出せないということが多々あった。
理系の友達は、数学は実に簡単なものだと教えてくれたが、そのときはその意味することが理解できなかった。

僕は文系であるから、その逆の考え方は長けている。簡単なことを難しく考えるのは、非常に得意だ。この詭弁論考はまさにそれを体現するものだと思う。

人間には、そもそも理系だの文系だのというカテゴライズはない。後になって勝手に考えられるようになっただけの話だ。
バランスを保つということが、優秀な人間なのかもしれない。



当たり前のことを当たり前にできるという事

  • Posted by: マルコ式
  • 2003年2月 2日 20:46
  • 2003-2004
「当たり前のことを当たり前にやれば、当たり前のことが当たり前に出来る」
まさに、当たり前のことだ。
しかし、その当たり前という感覚は、人によって千差万別、十人十色様々だ。何をもってして当たり前と呼ぶか。その基準はどこにあるのか。
当たり前という言葉自体、一般性がない。
その人の持つ常識が、「当たり前」のことなのだ。
自分が当然のように思っていることでも、ある人には非常識なことに映るかもしれない。また、逆に自分が非常識と思っていたことが、相手にとっては常識になる場合もある。
ただ、その基準は個々人によってある程度操作できる。
僕の例を挙げると、もともとパソコンなどは殆ど触ったことはなかった。でも、今では当たり前のようにホームページが作れる。自分の中では、ホームページが作れるということは、当たり前のことになった。
このように、「当たり前」の基準は簡単に上げることが出来るのだ。それまで出来なかったことが、やっているうちに当たり前のこととなる。
冒頭で述べた言葉は、まさにこのことを示している。
「当たり前のことを当たり前にできる」ようになるには、時間と労力が必要だが、それを惜しんでしまえば当たり前のことが当たり前に出来なくなってしまう。
「当たり前のことを当たり前にやる」為には、出来るか出来ないかという結果を考えず、やるかやらないかという行動を取るべきだ。

出来るか出来ないか

  • Posted by: マルコ式
  • 2003年2月 1日 20:45
  • 2003-2004
「自分にこれは、出来るだろうか?」
と考え込む人がいる。こういう風に考え始めると、大抵「自分にはまだ無理だ」という結論しか出ない。出来るか出来ないかを考えることは、はっきり言って無駄な思考を使っているといえる。
なぜなら、答えは一つしかないからだ。
「これが出来ますか?」と訊ねられて、「出来ます」と答えるのはベストだろう。しかし、なかなか即答できない場合もある。
そんなときは、「やります」と答える方が相手に好印象を与えることが出来るはずだ。
特に若いうちは、あまり「出来ます」というべきではないかもしれない。後になってやっぱり出来ませんでした。というのは、非常に迷惑な話だからだ。
考えかたも同じである。
自分で出来るか出来ないかの答えは、出すべきではない。その答えは、大概他人によって下されるものだからだ。
学校を卒業したての時などは、社会的には何も出来ないと言っても過言ではない。そこで、自分には出来ませんとやる前から答えを出す態度は、最悪だ。
世の中、怖い人もたくさんいるが大抵の人は皆優しい。はじめは、「やります。やらせてください。」といえば、大概問題ない。
社会は過程を評価しない。評価するものは決まって結果のみだ。「出来るか出来ないか」それは結果であって、過程ではない。しかし、結果を出す為にはその過程を作る必要がある。
過程を作る為には「やるかやらないか」重要であり、結果は後からついてくる。

愚行移山の意味

  • Posted by: マルコ式
  • 2003年1月25日 20:55
  • 2003-2004

詭弁論考のサブタイトルに「愚行移山」という四文字熟語が入っています。
どういう意味かというと、
昔、中国に愚行という人がいたそうです。(マジ?)
その愚行は、高齢になってから一人で穴を掘って、
山を移動させようとしていました。
はじめは一人で山を掘っていたのですが、次第に、他の人も手伝ってくれるようになり、最後には、山が移動してしまったそうです。
という話をしていた人がいました。
しかし、実際は山を動かすという愚かな行為も、続けていれば、いつずれは成し遂げられるという例え話といったほうが、真実味があるでしょう。

詭弁論考は、既に2年半続けています。
以前のログを殆ど消失してしまったのは、残念ですが、これからも続けていければ
そんなことは、些細な事になるでしょう。



テレポーテーション

  • Posted by: マルコ式
  • 2003年1月23日 20:40
  • 2003-2004
東京大学で、量子テレポーテーションの研究が行われていると、ニュースでやっていた。
量子テレポーテーションを、わかりやすく説明すると、A=B、B=CゆえにA=Cという理論が基礎にある。
まず、Bという量子とCという量子があるとする。
BとCは量子力学的には双子の状態にある。この量子力学的には双子の状態というは、Bをくすぐれば、Cも笑うというような状態の事を指す。この双子の状態 BとCにAという量子を、持ってくる。そして、無理やりAとBを双子の状態にする。すると、BはもともとCと双子の状態だったので、Aの情報はCに移ると いうことらしい。まぁ、素人の説明ではこんなもんだ。
詳しくはこちら。
これで何が出来るかというと、ものすごい早いコンピューターが作れるらしい。今のコンピューターで15万年かかる計算を1,2秒で計算できるとか。
僕らの子供の時代には、実用化される見込みなので、生きているうちにお目にかかれるかもしれない。

日本を支えてきた人

  • Posted by: マルコ式
  • 2003年1月23日 17:50
  • 2003-2004

僕の知人に、今年で92歳になるおばあちゃんがいます。
はじめてあったときは90歳でした。


なんでそんな人と知り合いかというと、実はこのおばあちゃん、大学で国文学を勉強しているのです。


 学校の喫茶店で友達と食事をしているとき、相席をしたのがきっかけでした。
はじめは70歳ぐらいかと思ったのですが、実際は20歳も歳が上でした。
僕らの感覚の20歳とは少し違うかもしれないですが、大抵70ぐらいに見られるらしいです。


 このおばあちゃんのすごいところは「年齢」だけではありません。
書道の先生であり、お茶の先生であり、趣味で写真を取ったり、源氏物語を研究したりと様々です。
それから、70歳のときに中国に行ったという話も聞きました。


 このおばあちゃんの変わっているところは、あまり昔のことは話したがらないという点です。 僕が接してきた高齢者は大抵昔の話をしたがります。
僕はそういった話を聞くのも嫌いじゃないので、老人受けは良い方の人間です。


 このおばあちゃんと会うときは、大体学校の喫茶店でお茶を飲みながら話をするのですが、「今度お茶会があって」とか、 「書道の展覧会に出してくれと頼まれたから今からそれも書かなければならない」とか、彼女は常に未来のことを話します。

 そういう話を聞くと、僕もがんばらないとな~と強く思います。
だって大正元年生まれですよ。明治最後の年に生まれてるんです。
「約1世紀もの間日本や世界を見た来た人の話」は実に面白いです。


「若い人と話して元気なエネルギーをもらう」とよく言ってますが、僕もこのおばあちゃんからは元気なエネルギーをもらっています。

 

 おばあちゃんは若いころ『小学校の先生』だったそうです。
そのころのお話をしたいと思います。

 おばあちゃんが学校の先生だったころは、ちょうど第2次世界大戦の時期で学童疎開も経験されたそうです。 その小学校の疎開先は山形県で、おばあちゃんは疎開が始まると児童を見送って、戦争が終わった後は山形に児童を迎えに行ったそうです。

 その後も山形を気に入って何回か行ったそうですが、実は僕の実家も山形なので結構山形の話で盛り上がったりもします。

 

 日本が戦争に負けた後は、明日食べるのもに困るほどの生活をしていたということでした。この話は、どんな人に聞いても 「戦後の日本を知っている人」ならみな同じ事を言います。国全体が貧しかった時代だったのです。


 僕を含めた「20才代あるいはそれ未満の人」には全く実感の持てないことです。
でも、そういった時代があったということはもっと伝えていかなくてはなりません。それを忘れてしまうことは、 貧しい人の気持ちを忘れてしまうことになるからです。


 ちょっと横道にそれましたが話を続けましょう。
おばあちゃんの旦那さんは「学校で知り合った人」だそうです。
職場結婚ですね。今はもう旦那さまはいらっしゃらないそうですが。


 小学校の先生は定年まで続けたそうですが、最後は学校の頂点である『校長』にまでなられたそうです。

 実は、この校長になるまでにはちょっとした逸話があるそうです。
都の教育委員会から校長への打診があったのですが、初めは「男性の方々を差し置いて、私が校長にはなれません。」と断っていたそうです。

 しかし、委員会も決定を覆すわけにはゆかないということで、結局その話を受けることにしたということでした。

 

 実はこのおばあちゃん、【日本で始めての女性校長】だったのです。
この話を聞いたときすごくびっくりしました。
歴史上の人物と話しているような高揚も覚えたほどです。


 定年退職した後は、2年間「写真の専門学校」へ行って写真の勉強をしたそうです。


 『自分のやりたいことをいつまでもやり続ける』ということと、『実はやりたいことっていうのは意外といつでもできる』という2つのことを、 おばあちゃんと話しているとよく思います。


 最後にこのおばあちゃんの『先生にまつわる特技』(もしかしたら職業病)をご紹介します。


 黒板に向かって何か書いているときでも、どこの席で誰と誰が話をしているとか、 誰がノートも書かずにぼけっとしているとかが分かるそうです。


 僕は小学校のとき悪ガキだったのでその話には実感がありました。
「何で見てないのにわかるんだろう」っていつも不思議に思って「先生には後ろにも目があるの?」と聞いたことがあると話したところ、 おばあちゃんは笑っていました。

『食』

  • Posted by: マルコ式
  • 2003年1月 9日 17:47
  • 2003-2004

年末、年始にかけて忘年会やら新年会と何かと忙しい時期です。

そんな中、先日酒の席で「食事」について面白い話を聞きました。
「昔、米すら満足に食えない時期があって、その時は心がかなりすさんでた。
最悪な時期だったよ。そのとき深く思ったのは、食事はしっかり取らないと
人間的にだめになるってことだ。それに、食事っていう字は、人を良くする事
って書くんだよね。」


これにはだいぶ関心させられました。
確かに、「食事」は「人を良くする事」と書きます。


 今は飽食の時代と言われ食べ物はあふれかえっていますが、
果たしてどれだけの人が本当の意味での「食事」をしているのでしょうか。

 ただ一人だけで飯を食うことを「食事」とは言わない、と僕は思います。
家族と、友達と、仲間と、同僚と一緒に飯を食うことを本当の意味での『食事』
だと思います。

 大したことのないものでも、
みんなで食べればよりいっそうおいしく感じますし、
いくらうまい物でも、1人ではどうも味気なく感じます。


 そういった意味では、
年末、年始の忘年会や新年会は
『食事』を補う為の行事なのかもしれませんね。

 ただ、食べすぎには注意してください。

自由とは

  • Posted by: マルコ式
  • 2003年1月 5日 19:39
  • 2003-2004
日本には、明治時代まで「自由」という言葉は存在しなかった。
言葉は、概念そのものとすれば日本にはそれまで、
「自由」は存在しなかったのである。

だが、明治初頭にかの有名な福沢諭吉が英語のFreedomを訳す言葉として、
「自由」と言う言葉を作ったのである。
福沢諭吉に曰く、「自らを由とすること、此れ即ち自由なり」
なかなか難しいことを言うものだ。果たして、当時の人でもどれくらいこの言葉の意味を理解していただろう。
僕は、子供のころ何も知らずに「自分の自由だろう!」とよく主張していたことが、多々あった。まぁ、あながち間違ってはいないのだが、それだけでは子供の主張で終わってしまう。
しかし、自由という言葉には必ず制約という言葉が見え隠れしている。
多分、どこの社会でも自由の裏には制約が付きまとっているだろう。此れは否めない。
自らを由とすることは、社会に対してという前提があってのことだ。
もし、そこに前提がなければ社会はめちゃくちゃになり、
自分の身も危うくなってしまう。
極端 な例を挙げると、 例えば僕が誰かを殺めたとする。だが自由だから自分がよければ、問題はない。しかし、僕が殺めた肉親に今度は僕が殺される。それもまた、自分が良ければ問題ない。こんな社会に誰が住みたいと思うだろうか。
殺人・恐喝・強盗・強姦などが当たり前で、常に死と隣り合わせの生活。
見方によってはかなりスリリングでそれはそれで楽しいかもしれないが、僕はあまり住みたくない。
今の例はかなり極端だが、実際何も前提がない自由ではこういう社会が誕生する。
健全な社会生活だけを考えれば、別に封建制度や独裁体制でも問題はないのだ。
だが、人間とは欲深い生き物である為、健全な社会生活はもとより、より良い社会生活を営みたいと願う。
そうして、自由のある生活を渇望しその生活をするわけだ。

日本国憲法には、ご丁寧にも「法のものとでの平等」の記述が載っている。
日本国憲法下では、誰もが平等な市民生活を送ることが出来ると、約束されている。
自由もまた然り。法の下では誰もが自由であるが、法を逸脱(破る)ことになれば、その人の自由はすぐになくなってしまう。

ここまでの話では、自由は人間がよりよく生きる為に必要だといっているが、自由は、そんなにもに必要なものなのだろうか。
答えは否。
自由は必ずしも必要なものではない。
ただ、人間の欲望が求めるだけでしかない。
現に、北朝鮮などでは自由は制限されているが、今でも多くの人々がそこで生活を送っている。
第二次世界大戦中のドイツでも独裁政権に国民が走っていった理由を、自由という観点から考察した社会学者がいた。
その人(E・フロム)は「自由からの逃走」という著書の中で、

「近代ヨーロッパにおける資本主義的生産様式の発達は、一方では、社会的・経済的自由空間と自由な個人を創出しつつ、しかし同時に、その自由を恐れ、そこからの逃避を志向するような性格特性を深く内面化した人間類型をも生み出した。」

と語っている。
要するに、自由が人を孤独にするから、その寂しさから逃れる為に強いものに惹かれるのだ。今の日本も、まさに同