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2001-2002 Archive

文字について #2

  • Posted by: マルコ式
  • 2001年6月11日 19:33
  • 2001-2002
 文字と、言葉のギャップについてだが、日本語で言うと「注連縄」などがある。音読みすれば、「ちゅうれんじょう」となり、訓読みでは「そそつらなわ」と なるはずだが、「しめなわ」と読む。英語に関しても、「Debut」なのに、「デビュット」と読まずに「デビュー」と読む。
 ドイツ語やラテン語には、それほど大きな違いは見られないが、ドイツ語であれば「Eine」と表記して、「エイネ」とは読まずに「アイン」と読む。
 このように、統一された規則性が文字と言葉の間にはない。それは、他の言語にも言えることであり、規則性があるように見えても、その言語でしか通用しない規則性なのである。
 ちょっと脱線した話になるが、【バビロンの塔】の話をご存知だろうか。その昔、高度な文明を持った古代人が神に近づくために、巨大な塔を作ったが、神の 怒りに触れその塔はもろくも崩れ去ってしまったという話である。この話には神の怒りが雷となって塔に落ちた時に二度とこのような過ちを繰り返さないよう に、神は人間の言葉をばらばらにしてしまったのだという。神話ではあるが、ここまで世界統一された規則性がないと、この話もまんざら嘘ではないような気が してならない。それに、バビロンの塔は存在したという話もある。
 言葉そのものは、人間がテレパシーを使わない限り、今までのそしてこれからも使われていくことだろう。人が一人で生きて以降としない限り、コミュニケー ションの道具として未来永劫使用されていくに違いない。しかし、文字は必要なくなる可能性もあり、人類の歴史で必要でない時代もあった。しかも、文化に よっては現在も使用していない文化もある。文字は人類にとって必ずしも必要な道具ではない。もし文字がなければ、人類の英知は後世の子孫には受け継ぐこと が出来ないし、我々もまた授かることが出来なかった。しかも、今の発達した文明を作り上げることもなかっただろうし、常に同じ過ちを繰り返していただろ う。しかし、地球の自然や資源を過剰に浪費したりもしなかっただろう。
 文字や言葉は、人にとってはただの道具であるが、その道具の使い方一つで良くも悪くも働くことを忘れてはならない。

文字について #1

  • Posted by: マルコ式
  • 2001年6月10日 19:31
  • 2001-2002

 言葉を使用しない文化はないが、文字を使用しない文化はある。文字は、人類の偉大な発明の一つである。我々の文化では、文字は何気なく使用されて いるが、実は文字を発明するのは大変難しいことなのである。しかし、文字をもたない文化は、劣っているかというとそうではない。
 文字をもたぬ文化は、必ず理由があるはずである。その理由は何なのか、今はまだわからないのだが。
 僕の考えでは、文字はルーツを探求すると、古代四大文明が全ての文字の原点であると考えられる。分かりやすい例でいえば、日本にはもともと文字はなく、 始めは中国から輸入したものである。それが、後に「仮名」と「カタカナ」という日本語表記という形態が生み出されたのである。お隣の韓国でも、昔は漢字表 記だったのだがハングル文字が国語として、使用されるようになったのである。アジア圏の<文字>は、漢字にルーツがあるといえる。また、古代 四大文明の中間地点にある地域の文字は、(例えばインドのサンスクリット語)その両方の特徴を取り入れていると思われる。
 なぜ、そう思うかというと、文字は<文字>として認識する前は、絵として認識していたのである。そのいい例は、「象形文字」や「甲骨文字」 などに見られる。文字は、絵画と一緒で<目>を通して認識する。見て覚えるものが文字で、聞いて覚えるのが言葉である。言葉も、ヨーロッパなどでは、意外 とその特徴は似ていたりするのである。そのことは、文字についても同様に言える。特に、聞いて覚えるより、見て覚えた方が記憶として残りやすい。言葉は、 聞いて覚えるものだから、伝達される過程で変化が生じてしまう可能性がかなり大きい。しかし、文字の場合は、紙等に書くことが出来るので、正しく伝わる可 能性が大きくなる。
 また、ヨーロッパを引き合いに出させてもらうが、ヨーロッパでは大体がアルファベットを使用している文字が多い。たまにドイツ語やフランス語にみられるウムラルトがあるが、大抵はアルファベットを使用している。
 また、アジアや中東についても全く同じ現象が生じている。
 言葉と文字は、一体に見えるが、実はその過程には裏と表があり、そのギャップが大きすぎる。

まだ続きそうなのでこの続きは、明日に続けることにします。

構造言語学

  • Posted by: マルコ式
  • 2001年6月 8日 18:49
  • 2001-2002

 今日は、話が長くなると予想されるが、学術的なことについて書くことにした。

     ~シニフィエ・シニフィアンと構造主義言語学~
まず始めに、この二つの言葉は何を意味するのかを説明します。【シニフィエ】とは、フランス語で「意味内容」と訳されます。そして、【シニフィアン】は、「意味作用」と訳されます。
 【シニフィアン】(意味作用)についてですが、これは、直接的に言葉が示す対象のことをいいます。例として、一つの林檎を思い浮かべてください。林檎と は、今心に思い描いている皆さんの良くご存知のあの果物です。大抵は赤いですが、たまに青いものも有ったりします。ここで、林檎を思い浮かべた時に、黄色 く細長い食べ物を浮かべた人はいないと思います。林檎と言えば、赤くて丸い果物のことを指します。そのことがシニフィアンであると言うことです。
要するに、林檎と言う言葉のシニフィアンは林檎そのもののことです。
 次に、【シニフィエ】(意味作用)について説明します。これは、言葉が持っている裏に張り付いたイメージのことを指します。また、林檎を例に挙げます。 ここでいう林檎のシニフィエは、「赤い」「青森県と長野県」「歌舞伎町の女王を歌っている女の人」などがあげられます。また、「青森」といえば林檎という のもシニフィエにあたります。それから、「山形」なら、「さくらんぼ」というように普段何気なく使っている言葉に、無意識のうちに意味内容がくっつていた りするのです。
 実社会にはこのことが、さまざまなものや局面に出てきます。「ホンネ」と「タテマエ」というのは、まさにこの関係の何物でもありません。説明は要らない と思いましたが、一応説明すると「タテマエ」が【シニフィアン】で、「ホンネ」が【シニフィエ】というようになります。そう考えると、世の中【シニフィア ン】・【シニフィエ】だらけであると言えます。
 この理論は、スイスの言語哲学者でフェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure:1857-1913)が、考えたものです。そして彼は、20世紀初頭の講義の中で「記号論」又は「記号学」という学問を提唱し、これが 戦後の社会学や人類学、精神分析学や思想に大きな影響を与えました。
 この「記号論」はソシュール以前にアリストテレスに端を発しストア学派によって体系化されたといいますから、紀元前から理論は存在していたことになりま す。ストア学派によれば、音声(セマイノン=意味するもの)と概念(セマイノメノン=意味されるもの)の二つから成るといいます。この図式は、【シニフィ エ】【シニフィアン】のことと全く同じ事です。
 しかし、ソシュールの理論には基の記号論の流れと、「構造主義」の二つの理論から成り立っています。そのため、ソシュールの理論を【構造主義言語学】と 呼ぶこともあります。ソシュールの考える<体系>というものは、「個」と言うのは実存的客体ではなく、他と個との共存によって初めて価値をもつと、考えま した。要するに、僕という存在は、ここにいるから存在しているといえるのではなく、他人との関係を通して初めて、ここに存在しているといえるのです。ま た、使用価値というのものも、誰かがそれを必要としない限り、生まれてこないということです。特に、言葉を使用した会話は他人との関係で成り立つもので、 一人で話をしていることは普通考えにくいです。
 ソシュールの理論体系は、難解で非常に分かりにくいものですが、少しはどういったものなのかをご理解頂けたでしょうか?なるべく、誰にでも分かるように と、心がけたつもりですが、如何せん学術用語を使用しないようにするのは、骨が折れました。また今度、このようなモノを企画しますので、次回もお見逃しな く!!

現代批判

  • Posted by: マルコ式
  • 2001年6月 5日 22:02
  • 2001-2002
ネパールでの事件を皆さんはご存知だろうか? あまりにも不可解な事件である。
 一度に王族が、3人も死んでいる。何かとても陰謀の匂いが立ち込める嫌な事件だ。
不可解と言えば、田中外相に対する批判問題も不可解だ。 どこから、田中女史の発言したことが漏れてくるのか?身近に居る人間以外には考えられない。 度重なる外務省批判の、仕返しとしか考えられない。
官僚は頭がいいから、どうすれば大臣を辞職させることが出来るか知っている。 それを、上手く実行に移しているように取れる。 小泉政権に、反対し抵抗するものは全て抵抗勢力と、首相はいったが、四面楚歌のようなところで、どうやって行動していくのか。
 そのことが、実際にまだ実質的な行動に出てない要因であることは間違いない。このままでは、普通であれば国会を通るような法案も、通らなくなる。
公約にも掲げている郵政事業の民営化は、現時点ではまだ時期が早いと考えられる。なぜなら、民営化をすることにより、これまでの体制では郵便局はやっていけないだろう。そこで、リストラクチュアリングが行われる可能性があるからだ。そうなれば、失業者は増え景気と国民の意識はますます低下する。
 中国のある軍師は、勝つためには人、物、武器、機が必要だと言った。いくら人や物、武器が有っても機(チャンス)を逃せば、勝てなくなると言った。 支持率が以上に高いが、これはマスコミが作り上げたものと言っていい。マスコミは、簡単に持ち上げてくれるが、落とす時も簡単である。
今、日本人はライオンを支持している。見栄えがよく「百獣の王」と言われ、強いリーダー的印象がある。しかし、ライオンのオスは基本的に狩をしない。狩はメスがするのだ。 おまけとして、森前総理が行った功績は、「IT革命」「IT」「IT」と言ったおかげで、電子通信事業の分野はある程度伸びている。
一応、景気回復らしきことをやったのではないだろうか?

特許について

  • Posted by: マルコ式
  • 2001年6月 4日 19:06
  • 2001-2002
昨日、特許庁のHPを見ていた。
 特許を取るためにはずいぶんと、時間がかかるものだということが分かった。
 よく、「特許申請中」という言葉が使われたりするが、実際特許を取るには、20年ぐらいかかることもある。
そうでなくとも、審査に7年というから、相当時 間がかかるというわけだ。 それに、過去の特許に自分が申請しようとしているものが含まれていないかということも自分で、調べなくてはならず、そうそう簡単に特許を取ることは出来な い。
もう少し、システムを簡略化してもいいと思うのだが、実際の審議方法がわからないので、そうしなければならない理由があるのかもしれない。
 特許と言っても、さまざまな種類がある。 「特許権」「商標権」「意匠権権」」「実用新案権」 の4つである。 特許というのは、自分のアイディアを保護するためのモノであるが、実際に権利取得には、かなりの時間がかかるのは、ずいぶん問題である。
 「実用新案権」は、その問題を少しでも解消するために、作られた新しい保護権利である。そのため、実際の特許権より申請してから発行されるまでの期間が短 い。
しかし、特許権のようなしっかりとした保護ではないというデメリットがある。
 それは、登録という形でなく、特許庁長官の発行する許可書のようなものが必要になる。

もっと詳しいことが知りたければ、特許庁のHPにアクセスを...。

宇宙論

  • Posted by: マルコ式
  • 2001年5月13日 21:44
  • 2001-2002
宇宙の真理に、今近づこうとしている。
自分という存在を囲むのもすべてが、他者でありそれらはすべて宇宙の空間的存在である。
空間的存在は、簡単に認識できシニフィアンである。
しかし、自分という存在を囲むものは、それだけではない。
"時間"は、宇宙の中ではシニフィエにあたる。
時間と空間が、宇宙を構成していることは、常識として誰もが知っていることだろう。
しかし、宇宙は一定ではない。
アインシュタインは、宇宙の拡大しようとする力と収縮しようとする力が拮抗しているので、宇宙は一定に保たれていると考えた。
だが、ハッブルの観察により(我々の)宇宙は拡大している事を発見した。そしてアインシュタインにそのことを告げ、アインシュタインは彼の理論を受け入 れ、自分の過ちを認めた。また、ロシアのアレキサンダー・フリードマンは、新たな可能性を導き出した。
それは、宇宙の質量が小さければ宇宙は永遠に膨張しつづける。また、質量が大きければ、宇宙は膨張からある時期に収縮に転じる。2つの境界の場合には、宇宙は減速しつつ、ぎりぎりで膨張しつづける。
我々居る宇宙は、開いた宇宙といわれ、質量は大きい。そのため遠い未来に我々の宇宙は収縮していくだろう。
そして、また新しい宇宙がビッグバンにより誕生し、我々は、再びその地によみがえる。

現代の学校教育

  • Posted by: マルコ式
  • 2001年4月25日 21:57
  • 2001-2002

分業化が19世紀以降、先進国世界全体で進んでいる。
それは、分業が確定され複雑化し、多様化していることだ。
こんなことを毎日学校で先生が言っている。
そのため、先進国資本主義経済では、スペシャリストが求められている。
しかし、ここでふとした疑問が立ち込めた。
分業化が進展しているのに、
日本の大学ではいまだにゼネラリストの育成をしているのだ。
何でもできる中間管理職は、そこにポストがなくとも誰も困らない。だから、首切りの絶好の的になってしまう。(ここで、リストラといわないのは、本当の意味での日本のマスメディアがリストライゼーションを使っていないからだ。)
そんなことで、社会は本当に良い方向に向いているといえるのだろうか?
教育を変えなければ、社会は変わることができない。
約50年前GHQが施した教育は、その後の復興に多大な影響を与えたのは、史上の事実である。 裏を返せば、半世紀前の教育制度にいまだにしがみついているような教育では、時代に適応できない人間の育成をしているだけだ。
教育基礎構造の抜本的改革が行われない限り、時代錯誤の知識人が増えてしまうのではないだろうか?
世界標準が、叫ばれる時代にそういう人間は排他される一方だ。
真の成功を得た人間は、意外に学校での教育に時間をそれほど掛けていない。
それどこらか、学校教育よりも専門教育を自分でした結果、莫大な組織や富を得ている。もちろん例外もあるが・・・。
人生は時間の浪費だ。
時間は何もせずにただ居ただけでも、過ぎ去っていく。
そして、人生がなくなっていく。限られた人生を、如何に生きるかということを教えるのが本当の教育というものではないだろうか?

人生という時間

  • Posted by: マルコ式
  • 2001年4月17日 18:59
  • 2001-2002
人生は時間である。
この世に生を受けた時点から、
死へのカウントダウンは始まっている。
その限られた時間内で、人は何をするのか?
ある人は結婚するかもしれない。
ある人は、莫大なお金を作り出すかもしれない。
またある人は、罪を犯すかもしれない。
自分は、何をしたいのか、何ができるのか、
何をすべきなのかを考えて、時間内に行動を起こし、 結果を出す。
結果は、良かったり悪かったりするだろう。
しかし、良い結果を求めてまた考える。
そうして、試行錯誤を経て行動し、 結果をよりよい方向に導くために時間を消費する。 あるときふと気が付くと、 こんなにも時間がたっていたのかと 驚くだろう。
人生という限られた時間を如何に過ごすかによって、 その人にとっての幸せが決まる。 僕の幸せは何か?
貴方の幸せは何か?

ハンニバルの感想

  • Posted by: マルコ式
  • 2001年4月15日 21:19
  • 2001-2002
映画「ハンニバル」を見ました。
期待通りで、結構面白かったです。
ハンニバル・レクターの病的な美の探究には、
驚かされるばかりです。
Dr.レクターは、とても理性的な人間で
相当几帳面な面が見受けられます。
猟奇殺人犯に見受けられる性格がそのまま出ていると思われます。
彼は、お腹が空いたらスニッカーズではなくて
人を食べるらしいです。
一派に熊やライオン、トラなどは人間の味を覚えると、
人を襲うようになると言いますが、
彼にも、それが当てはまるのではないかと思います。

実際に、人を食べる習慣があれば
食べられるものであって、
それが禁忌とされているからこそ、
そうしないだけのような気もします。

共食いと言うのは、動物や昆虫の間では
一般的なものだと考えられます。(ある種のものに限る)
蜘蛛にしろ蟷螂にしろ、
メスは交尾したオスを食べてしまうのですから・・・。

"カニバリズム"
この言葉を聞いた人がいるかもしれません。
食欲によって人を食べることをあらわします。
食べたことがないので何ともいえませんが、
美味しいでしょうかね?人間は・・・。

雑食だからまずいだろうと言う人もいるし、
うまいもの食っているのだから美味しいに決まっていると言う人もいるかもしれません。
でも、好みの問題であって実施食べてみたら、やみつきになたリ、もう食べなくていいと思ったりするのだろうと、
思います。

ハンニバルを観て、ふとそんなことを思ってしまいました。

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上を向いて歩こう

  • Posted by: マルコ式
  • 2001年3月23日 18:55
  • 2001-2002
「上を向いて歩こう」
坂本九の歌だが、この言葉はすばらしい意味を含んでいる。
上を向くということは、前向きに考えることであり、
前進することである。
下を向いていては、前には上手く進めない。
下を向いて歩いたことがある人ならわかるだろうが、
誰かにぶつかるのじゃないかと不安になる。 上を向いただけで、その不安は解消される。
ただそれだけで、まっすぐ前に歩けるのだ。
人生にも同じことが言える。 しっかりと他人のことを見つめ、そしてぶつからないように歩いていく。
すり抜けたり、通り過ぎるのを待ってみたり・・・。 とりあえず、上を向いて歩こうじゃないか!!

別れ

  • Posted by: マルコ式
  • 2001年3月22日 19:34
  • 2001-2002

立つ鳥跡を濁さず。
美しい別れ方を、上手く表現できたいい言葉だと思う。
小学校の卒業式のとき、校長先生が この話をしていたのを、ふと思い出した。

仏教の言葉で、愛別離苦というものがある。
愛しい者との別れは、苦しみである。
それもまた、業の中で人が常に持ちつづける
苦しみなのだという。

解脱できればそのような苦しみから開放されるかもしれないが、僕はこの苦しみは自分を成長させる上で、 必要不可欠な要素だと思う。
生きるということは
「幾多もの苦しみを経て、 やっと手に入れることのできる幸せをつかむこと」
なのだと僕は考える。

ドラマより面白い人生には、 ドラマより辛い出来事が常に身の回りで起きているものだ。

出会いと別れ

  • Posted by: マルコ式
  • 2001年1月29日 18:52
  • 2001-2002
久しぶりに、チョット言わせて貰います。
それは、出会いと別れについて。
僕は、出会いは別れの始まりであると考えています。人が出会わなければ、別れは決してきません。それは、死別であったり、離別であったり、決裂であったり と形は様々に違うし、分かれるまでの時間も違います。でも、出会ってしまったその瞬間から、別れへのタイムリミットは開始されているのです。
しかし、だからといって悲観的にはなりません。
一期一会という言葉は、とても大切なものを表しています。時間的には、瞬間であっても、数年であっても、縁というものがなければ、その人とは出会わなかっ ただろうし、生きているうちは、出会ってきた人のことは覚えているものです。憶えてないということは決してなく、思い出せないだけなのです。
出会いと別れは、結果が重要ではなく、その過程が大切なのです。出会って何をしたか?その人と何を話したか?どんな感情を抱いていたか?といったものが大切であり、その後の人生には、必ず何かしら影響を与えることも否定できません。
出会いは別れのプレリュードではあるが、その一つ一つが意味を持ち、自分を大きくしてくれるものでもあります。
別れを悲観的に捉えず、その出会いに感謝すれば、別れも決して悲しいものではなくなるはずです。

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