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詭弁論考 Archive

feild revoldy

  • Posted by: マルコ式
  • 2009年2月14日 03:52

不思議な夢を見た。

多分どこかの大学の教室だろうが、僕を含めて数人の学生がパソコンを前にして座っている。

先生が、「フィールドリボルディの意味を調べてください」と言った。

僕は、言われるがままにその言葉を探したが見つけることが出来なかった。

ある学生が発言した。「フィールドリボルディに関する画像を見つけました。」

また、ある学生が、「見つけました。」と言った。

その学生によると、フィールドリボルディとは、狩猟民族の長のことをさすらしい。画像をみると、オオカミの毛皮をかぶったいかにも村長らしい人物の写真があった。

先生の補足説明では、フィールドリボルディとは、狩猟民族の長のことを指し、学術的には特別な存在のことを意味するのだと言う。

何も答えられなかった僕は、自分の名誉のために「僕は大学では差別と格差社会を勉強した」と述べてその教室をあとにした。

そこで目が覚めた。

あまりにも鮮明な夢だったので、検索してみた。

やはり検索には何もかかってこない。夢なのだから。

リボルディだけで調べてみると、そんな名前のダイエット食品がでてきた。

リボルディのスペルはreboldyだったのか、revoldyだったのか?

boldは太いとかという意味なので、これには当てはまらないかもしれない。

voldという言葉は、技術用語でいくつかでてきた。

voldyという言葉を検索したら、今度は、関連する画像がいくつもでてきた。どうやら、ハリー・ポッターの中にでてくる人物のようだ。その形相は、まさに悪魔。

僕は、ハリー・ポッターを見たことがない。

revoldyは日本語の検索ではほとんど結果がでてこなかったが、海外ではいくつかあったが、英語ですらない。何語なのか?よくわからないが、確かにその言葉は存在する。英語だと、どうやら人の名前のようだ。

field revoldyで検索したが、さすがに何もかかってはこなかった。

夢で見たイメージを画像検索で探したところ、最も近いのを見つけた。


wolfhead.png

本当は、置物ではなく人物の写真だったが。しかも横顔。顔の雰囲気はこんなイメージだった。

果たして、何の意味があったのかは定かではないが、ここまでくると単なる白昼夢でもないような気がしてならない。

Field Revoldyとは、いったいなんだったのか?

あまりにも寝覚めが悪くて、ここまで調べてしまった。。。

日本の美意識

  • Posted by: マルコ式
  • 2009年2月 4日 19:37
  • 詭弁論考

日本の美意識を一言で表すとすれば、「粋」という言葉が最も当てはまるでしょう。

そんな話を今日、ある人としていました。

ちなみに、粋という漢字は、コメ粒みたいな小さなものが九個も十個も(要するにたくさん)揃っている様を表しているそうで、洗練された混じりけのない様子を表しているといいます。

日本酒を作るとき、米の芯だけ残してほとんど削り落としていくそうですが、その芯の形がちゃんとそろっているとき、本当にうまい酒が作れるといいます。

粋な酒というのは、混じりけのない洗練されたお酒のことをさし、特に日本酒では、最高のほめ言葉になります。

言葉の意味と知って使うのと、知らずに使うのとでは、言葉の重みは全然違います。

日本料理は、引き算だといわれています。これも、素材の良さを引き出すことが良しとされるからで、ここでもやはり「粋」という言葉が当てはまります。

実は、日本の美意識のすべてには、この「粋」という感覚が入っています。むしろ入っていないと日本らしさは出ません。

人に対しても「粋な人」と使うわけですが、粋な人とは、粋なことをこよなく愛し、他人にも裏表なく(混じりけなく)接する人なのです。

辞書には、風流な人などと載っていますが、風流な人ほど、自然やありのままの姿を愛しています。何もたさないそのままが一番いいと知っている人こそが、粋な人なんでしょう。

そういえば、先日、大工さんと粋について話したことをふと思い出しました。

その人も、「粋」が好きで、自分自身もそうありたいといつも思っているそうです。実際どんな人かというと、いつもにこにこで明るく、人から好かれ何事にも一生懸命。そして人情が溢れる…なんだか、ほめちぎっているようにも思いますが、まさにそんな人です。その人が、こんなことを言っていました。

生き方=粋方

「人それぞれ、いろんな生き方ってあるけれど、せっかく一度の人生だから、粋でいたいよね。そんなのを、粋方っていうのかな?」

とてもいい話だったので、それいただきました!

ありのままの自分をさらけ出せば、相手もそうしてくれる。そんな関係がやっぱり粋なんでしょうね。その人が粋だというのは、いつもありのままだからなのかもしれません。

もう一つ、粋の語源には、意気から転じたという話もあります。気性・態度・身なりがあか抜けしていて、自然な色気の感じられる・こと(さま)。でも、ここでもやはり「自然な」という言葉が出てきます。自然ということは、ありのままということです。どちらにしてもありのままで美しいことや様子を指すのでしょう。

人との縁

  • Posted by: マルコ式
  • 2009年2月 3日 07:40

人の縁とは不思議なもので、必要な時に必要な人と会うのだそうです。それは一瞬早すぎず、一瞬遅すぎないその時に。

これは、うちの社長に教えてもらった話ですが、まさにその通りだと思うのです。

昔、人材関係の仕事をしていたときに心がけていたことは、「一つ一つの出会いを大切に」ということです。一期一会という言葉がありますが、その時はその言葉が好きでした。

ちなみに、実際にお茶も習っていた時期があります。

人との出会いや縁には、すべて何らかの意味があると思えるようになったのもその頃からでしょうか。「人の出会いに偶然はなく、すべてが必然である。」という人も居ます。

それだけ、人との縁は、大切なものなのです。

ちなみに、英語には縁を的確に表す言葉ないのです。最も近いと思ったfateですら、かなりネガティブなニュアンスを含んでいるため、日本語の縁とは、ほど遠いです。英語では、出会ったその場所で、Nice to meet you.と言うわけですが、これが、一番、縁のニュアンスに近いように思います。

この考え方は、日本古来のもので、古くは「えにし」といっていました。それが、漢字が入ってきて当て込んだ時が「縁」という時だったため、いまでは、「えん」と呼ぶことの方が多いのです。日本人が最も古くから大切にしてきた概念の一つだと言えます。

この考え方は、他の国ではあまり見られないのではないでしょうか。

気持ちやニュアンスは伝わるでしょうし、それを感覚的に理解できるでしょう。しかし、言葉としてそれを一言で表現しているのは、おそらく日本人だけです。

実は、人との出会いが自分の人生のすべてを決定づけているとしたら、あなたはどうしますか?良い縁を必ず求めるはずです。そして、良い方へに行きたいと願うはずです。

「どんな人もすべて自分より賢者だと思え、そうすれば、本当の賢者に君はなれる」

いつ、誰が、どんなタイミングでそんな話をしたのかすら忘れてしまいましたが、この言葉がずっと頭の片隅にあって、たまに思い出します。

どんな人でも必ず自分に何か一つ教えを持ってきてくれるのだと言うのですが、それは、弟や妹、自分の子供ですらすべてだそうです。学歴の善し悪しや年齢性別、生まれ、国などすべて関係ありません。出会う人すべてが、自分より何か一つ秀でたものを必ず持っているのだと教えられました。

多分、その頃は謙虚さが足りなかったのかもしれません。それを見て戒めにそんなことを言われたのかもしれません。でも、そのことがきっかけで今でもその教えを心の片隅に常に置いています。

やはり、その時も一瞬遅すぎず、一瞬はや過ぎなかったのだと思います。

より良い縁を求めるのであれば、まず健全な精神を保つ必要があると言います。健全でまっすぐな精神を持って行動すれば、必ず向こうからやってくるのです。

それこそ不思議な話ですが、成功者の多くは、そんなことが実際に起ることを知っているのだと言います。

心ある人

  • Posted by: マルコ式
  • 2009年2月 2日 21:54

先日、友人の誕生日だったので、ご飯をごちそうしようかと思ったのですが、別にいいというのです。

嫌われたものだと思ったのですが、そのあとに、こんなことを言っていました。

「おめでとうの言葉だけで十分ですよ。誕生日は、両親とご先祖様に感謝する日と思えるようになったので・・・」

断られて、こんなに感動したことはないです。目から鱗も落ちました。

そりゃそうだ。だって、当たり前のことですから。

そんな当たり前のことだと思っていたことが、まず間違いだったと気づかされました。

ある人から、「ありがとう」の反対の言葉を知っているか?と聞かれたことがあります。その時は、全く答えられませんでした。そして、答えを聞いたところ、「当たり前」というのです。当たり前と思うことこそが、本当は感謝しなければならないことだったとその時も気づかされました。

でも、生まれてきたことに感謝できるようになったら、それはもう本物でしょうね。

自分は、そのことに一切気づかずに生きてきました。その感謝の心が何よりの幸せなのだということも知らずに。

当たり前だと思っていることにこそ、本当の意味での感謝の価値があるのかもしれません。

風が吹いたら桶屋が儲かる

  • Posted by: マルコ式
  • 2009年2月 1日 10:27

今の経済状況を見てく上で、風が吹けば桶屋が儲かるという発想を持つことが重要だと考えています。

そのお話を知らない人も居ると思いますので、Wikipediaからの抜粋を読んでみてください。

江戸時代の浮世草子『世間学者気質(かたぎ)』巻三(無跡散人著、明和5年、1768年)が初出である。ただしここでは、「桶」のかわりに「箱」であり、「風が吹けば箱屋が儲かる」などの成句の形では書かれていない。また、『東海道中膝栗毛』二編下(享和3年、1803年)に現れるのも有名で、ここでも「箱」になっている。

   今日の大風で土ほこりが立ちて人の目の中へ入れば、世間にめくらが大ぶん出来る。そこで三味線がよふうれる。そうすると猫の皮がたんといるによって世界中の猫が大分へる。そふなれば鼠があばれ出すによって、おのづから箱の類をかぢりおる。爰(ここ)で箱屋をしたらば大分よかりそふなものじゃと思案は仕だしても、是(これ)も元手がなふては埒(らち)明(あか)ず

   – 無跡散人『世間学者気質』より, 慣用句辞典より転記。[1]

つまり、

   1. 大風で土ぼこりが立つ

   2. 土ぼこりが目に入って、盲人が増える

   3. 盲人は三味線を買う(当時、三味線は盲人が弾いた)

   4. 三味線に使う猫皮が必要になり、ネコが殺される

   5. ネコが減ればネズミが増える

   6. ネズミは箱を囓る

   7. 箱の需要が増え箱屋が儲かる

ここでは、箱屋になっていますが、桶も箱も一緒です。要するにネズミがかじるから必要だろうということなので。

正直、この話には根拠はありません。しかも、そんな話をしたって信じる人は居ないでしょうし、ましてや桶屋を始めようと思う人も居ないはずです。しかし、「風が吹けば桶屋が儲かる」のは0.8%!? 身近なケースで学ぶ確率・統計 PHP新書という書籍も出ているので、一概には言えません。

今世界で起こっている、100年に一度とも言われる不況は、まさにこうした流れが現実になった結果とも言えます。アメリカのサブプライムローンに端を発したところまでは、ニュースでも取り上げられているためわかるかもしれませんが、そのおかげで実は中東のある国は儲かりました。

アメリカが風邪をひいたらドバイが儲かった。

  1. サブプライムローン問題で、投資家はお金をアメリカから引き上げた
  2. しかし、投資家はお金を手元に置いておくだけでは稼げない
  3. 次なる投資先を探していた
  4. どうやら、原油先物市場でドバイが儲かっているようだ
  5. それを知った投資家たちはこぞってドバイにお金を流し込んだ
  6. その結果、ドバイでバブルが起こった

簡単に説明するとだいたいこんなものです。では、もう一つ。

アメリカが風邪を引いたら日本は肺炎になった。

  1. アメリカがサブプライムローン問題のため不況になった
  2. 日本はもともと10年以上不況だったが、アメリカにモノを売ってなんとかやりくりしていた
  3. バブル崩壊後を思い出した
  4. そのとき大企業が一番困ったのは資金繰り(リストラという言葉もこのとき生まれてる)
  5. 同じツテを踏まないように自己資金を蓄えておかなければならない
  6. 海外に投資などの形で置いてあった資金を日本に戻す
  7. 日本にお金が流れるから円が上がる
  8. 円が上がると、輸出産業の利益は吹っ飛ぶ
  9. モノが売れなくなったばかりか、今度は売った分だけ赤字
  10. 日本の輸出製造業のほとんどは赤字決算

これも、ちょっと極端すぎますが、だいたいこんなもんです。

特に現在のようにグローバルなマクロ経済では、風が吹くと桶屋が儲かるというようなことが現実に起こってしまっているのです。

先行きが見えないとよく言われますが、実際に嘘みたいな話が現実に起こっているわけですから、見えなくて当然です。次何が起こるのか日本の総理大臣にすら予測できていません。

先が見えない不安は、閉塞感につながります。今はそうした中でなんとか先を見ようとあがいている状況です。

日本が今、すべきことは、内需拡大なのです。これまで輸出産業に頼ってきていましたが、それが出来なくなってしまいました。そして円高。輸入を増やして内需を拡大していけば、今度は日本に大きな風が吹いてくると思います。

実は今の日本にはかなりの額のお金があります。それを使わずに居るだけなのです。というか、先が見えてこないから使えないのです。先が見えるのであれば、先行投資もできますが、先が見えない状況ではそれは出来ません。日本の優秀な経営者の多くはそうした状況にあるのです。

そうしたことをふまえて考えていくと、先頃決まった定額給付金はその閉塞感を打破するための風とも考えられます。(もちろん賛否ありますし、消費税引き上げとセットだったり、詐欺の発生も考慮されるため問題は山積みですが)これによって、内需拡大の足がかりになれば、少しは先行きも見えてくるはずです。

内需が拡大し、日本にお金やモノがどんどん流れ込んでくると、今度は国内でバブルが起こります。お金は、儲かっていそうなところを好む習性があるため、世界中から流れ込んでくるでしょう。しかし、その時はいいかもしれませんが、そのバブルがはじけ飛んだとき、日本はより悲惨な状況になります。もしかすると、国そのものがなくなってしまうかもしれません。それぐらいの危機的状況も考えられます。

ただ、今は転換期であるため、どちらに転ぶのかははっきりしていません。

そんなことを考えていくと、「国政とは、国にいかに良い風を吹かせるか」なのかもしれません。

変革のとき

  • Posted by: マルコ式
  • 2009年1月25日 23:14

100年に1度の大不況などと揶揄される昨今ですが、今までの不況とは違い、明らかに時代に変革を求められているような気がします。

特に、産業構造の変革が今年から本格的に始まっていくでしょう。

先行きの見えない不安が蔓延している中、それを尻目に着実に準備をしている人たちも居ます。そうした人たちは、既に次の時代を見据え、しかも進むべき道もわかっているのです。

今、我々に求められていることは、そうした変革期とどう向き合うかです。

世界は、先行きを見据えられる人たちの手によって、また新しいステージへと導かれるでしょうが、それに順応し、そして新しいステージへと自分も上れるのかということです。

そのためには、傍観者になってはならないのです。積極的に当事者にならなければなりません。マズロー、トフラーの考え方をあわせると最終的に求められるのは、自発的な社会であり、それを実現すべき自発的な人間なのです。

最近、私はそうした活動を行っている人たちと接する機会が増えてきました。社長など特別な人ではなく、一個人として自発的な活動を行う人たちです。

人の縁は、必要な時に必要な人に会うようになっていると言います。それは、一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない。

この言葉は、私のとても尊敬する方から教えてもらった言葉ですが、私もそう思いますし、今までもそうでした。

今まさにそうした人たちと出会うことは、その縁が、私に何かを伝えようとしているからなのだと思います。そして、その縁が自分にも何か求めているのだと感じるのです。その求められていることに応えることが、私の使命です。

そうしたことに一人一人が気づいていけば、間違いなくよい方向へと行くのです。

派遣切りなどといって騒いではいますが、それを望んでいたのは、派遣社員としてはたらしていた人たちです。私は、最も就職が困難と言われた時代に、就職活動をしました。そんな時代でも、派遣社員やフリーターなどには流されず、厳しくても正社員の道を選んだのです。そして、今は、山形で正社員として働いています。自分も弱い人間なので、楽な方へと逃げたくなります。しかし、その自分の弱さをよく知っているからこそ、あえて厳しい方へと自分を追いやらなければならないとも考えているのです。そうしないと、いつかそのツケは回ってきますから。

昨年は、様々な不祥事が噴出した年でもありました。なぜそんなことが起こったのかというと、嘘をついた商売をしていたからです。だから、そのツケが回ってきたのです。

今年は、楽をして稼ごうとしていた人たちにツケが回ってきます。なぜそういいきれるのか?それは、作ってもモノが売れないわけですから、楽して商売は出来ないからです。

金融関係では、そのツケは昨年から回ってきていますが、今年はほかの業界にも波及するでしょう。自動車など製造業は、その手始めに過ぎません。

戦後50年、日本を牽引してきたのは間違いなく、製造業です。バブル崩壊後も、不況と言われる中で堅調だったのはやはり製造業でした。それが、日本らしさでもあり、日本経済そのものだったと言っても過言ではないでしょう。

しかし、それにあぐらをかいていたのも日本なのです。

中国を始めとするアジア諸国が、製造の分野で台頭してくる中、それでも世界は日本製品を買っていました。それは、これまで培ってきた信頼があったからこそです。

永続的にモノを買えることが前提であれば、それでもよかったかもしれませんが、今はそういう時代ではありません。環境問題もあり、長く一つのものを使おうという志向になっていますし、そもそも、今まで買ってくれていた人たちは、もう買えなくなってしまいました。

日本が世界に顔を向け始めた頃はまだ農業国でした。しかも貧しい農業国だったのです。それがたった10年足らずで、工業国へと変貌していったのです。そして、大戦が終わった後もずっと工業国としてその地位を不動のものにしていきました。大きな変革期にあったためだったのかもしれませんが、日本は確実に産業構造の変革を過去に経験しているのです。

そして今、日本は、2度目の変革期に来ているのだと感じます。

多分、それを感じているのは、私だけではないでしょう。この記事を読んでいる人の中にも、いるのではないでしょうか。

ただし、今回の変革は、自己変革とも言うべき個を重視した変革だと私は考えています。

世界が注目する中、先日オバマ新大統領が就任しました。そこでは、どんな状況であろうとも、アメリカはアメリカであるということを目の当たりにしたのです。

日本も、どんな状況や変革が訪れようとも日本であることを貫き通すことが必要なのです。日本人が日本人たらしめるのは、自分が日本人だという自覚だけです。

昔の日本人には自分のことしか考えない身勝手な人は、居ませんでした。そのことを今一度考える時期でもあるのです。

don’t be evil

  • Posted by: マルコ式
  • 2009年1月 5日 14:28

Googleのモットーに”don’t be evil”というものがあります。

Web2.0などと騒がれてた2006年頃に話題になったわけですが、今思えば、その真意というのは、Googleが行っていることそのものに対してではなく、組織のあり方ということに対して説いたものだったのではないかと感じます。

性善説と性悪説という人間の根本的問いに対しての一つの答えが、この言葉に隠されているのではないでしょうか?

人間は生まれながらに悪であるという性悪説、それに対して人間は生まれたときは善であるという性善説。

この哲学的問いは、人間と組織を考える上で最も重要なファクターだと考えています。

個々人を見れば悪い人は一人もいないとしても、組織全体では悪であるという出来事が昨年は特に露呈しました。食品偽装や品質管理問題などは、人間個人が行った悪ではありません。しかし、そこで働いていた人たちも悪とされてしまうのが現実です。

組織は、常に悪への方向性と戦い続けなければなりません。それが、組織を永続させていく上で最も重要なことなのです。たった一人が行ったことは、組織内においてはさほど大きな問題にはなりませんが、組織として悪を行った場合、社会に背反する行為としてとられます。

Googleはそうした、組織の持っている内在的悪を否定しているのだと思うのです。

社会に背反した組織だとしても個々人は、善でありまた、悪の意識はないのです。

赤信号もみんなで渡れば怖くないというのが、組織内の心理です。そして、それを一度見逃すと、次第に慣れていき慣習的になり、日常的になっていくのです。

社会学では、犯罪は他者から犯罪者との指摘がなければ犯罪としては認められず、逆に他者から犯罪者と指摘があれば、いかなる場合でもそれは犯罪だといいます。

人間は生まれたときは完全なる善であると、私は考えます。そして、家族、社会、会社、国家といった組織とかかわり合うことによって次第に悪になっていくのだとも思うのです。

真なる善を貫き通す覚悟があれば、まずは、俗世と関わりを捨てることが望ましいでしょう。また、そうしている人はたくさんいます。

人間は生まれながらに罪を背負ってきたのではなく、他者とのかかわり合いの中から罪を学んでいくのです。

昔インドで発見されたオオカミに育てられた少女は、全く罪を持っていませんでした。なぜなら、人間が罪と思うことは彼女にとってみれば、罪ではなかったのです。衣服を着ずに徘徊したとしても、彼女にとってみれば、罪ではないのです。

アダムとイブも禁断の果実を口にしたから、追放されたのではなく、禁断の果実こそが罪の意識だったと神学者は説きます。

こうしたことから、Google自体は、組織として活動する以上、何らかの罪を背をっていることを自覚しているのではないでしょうか。ただし、その罪に溺れ悪になることだけは否定しているだと思うのです。

MacBookのすばらしさ

  • Posted by: マルコ式
  • 2009年1月 4日 21:47

休み中、ずっとMacでいろいろと作業していたので、ずいぶんとこっちになれてしまい、Windowsで仕事するのが少し億劫になりつつあります。

あらためて、Macの使い勝手の良さに気づいた正月でした。

ブログはいつもWindows Live Writer を使っていたんですけど、Macでも使えるブログツールがあるとネタフルにあったので、早速使用。その名は、ecto

日本語にも対応していますが、1800円ぐらいのシェアウェアです。お試しで20日間ぐらい使えますが、2日目にて購入。

スクリーンショットはこちらから

実際に使ってみた感想は、なかなか。

コレなら、別にWindowsじゃなくてもいいじゃん。。。

ダブるブートもやめようかなぁ。。。

人との関わり

コミュニケーションにおいて、重要なのは、質問する力「質問力」だといわれています。

単に「質問」といっても、人によっては千差万別。何が聞きたいかによっても、変わってきます。

相手を知ることはコミュニケーションの第一歩。相手を知り、己を知る。これがコミュニケーションの極意だとも言われます。

質問の仕方には、相手にとって不愉快になるものと、快く話を進められるものがあります。前者は相手にとってネガティブな質問であり、後者は相手にとってポジティブな質問です。

言い方というものがあるわけですが、質問の仕方というものもあるのです。なるべく相手に快く回答してもらうことが、特にビジネスにおいては重要になります。

新聞やテレビなどのマスメディアの記者は、真実を伝えることが使命ですから、必要とあれば、相手が不快に思うような質問でもしなければなりませんし、むしろ単刀直入に、根掘り葉掘り聞きださなければ、短い時間でいろいろと知ることはできません。ニュースがスピードが命ですから、悠長に話を聞いている余裕などはないのです。

でも、そういうことを日常生活で行うとどうでしょうか?高圧的な態度になり必ず相手は不快な思いをするはずです。

質問に関する本は結構出ていますが、相手を引き出す質問の仕方はまさに魔法といえると思います。

同じ記者でも、インタビューをしている人は、こうした相手を引き出す質問のやり方をとります。そこにはニュース性などは必要なく、その人の人間性を伝えなければならないわけですから、いまだ語られていなかったことなどもうまくすれば引き出せるかもしれません。

相手を引き出すという意味合いは、あいまいですがニュアンスは伝わると思います。そのニュアンスがコミュニケーションにおいて微妙なさじ加減になっているのです。

ただ、ここでも注意したいことがあります。それは、引き出し方を間違えると相手を怒らせかねないということです。

いわゆる、地雷を踏んだという状況です。

何気なく聞いたことが、実は相手が一番聞かれたくなかったことだったりする場合と、相手が油断したすきに切りかかるような質問の場合は、相手は自己防衛のために全力で抵抗します。

言の葉だけでは人を殺すことはできませんが、それがめぐりめぐって相手を死に追いやることはあります。アフリカの一部の地域では、今でも呪術信仰が残っており、呪文や呪いの言葉などが存在しています。(コンゴ、サッカー場で11人死亡 呪文めぐり乱闘

ちなみに、日本でも言霊というものがあり、江本勝の著作の「水からの伝言」は、まさに現代の言霊を表しています。この本は賛否両論ありますが、免疫学でも愚痴や不平不満、人の悪口などを袋に詰めて調べると人が簡単に死んでしまうほどの毒素をもっていると言います。

いつも両親が喧嘩している家の子は、病気にかかりやすいそうですが、両親の邪気を子供が浄化しようとして体を壊すのだそうです。

少し話がそれてしまいましたが、こうしたことも踏まえてもう一度考えてみてください。

相手に好意を持つと、相手も自分に好意をもってくれるわけですが、そこから好意を信頼にしていくことで、より人間関係は深まります。

人の心は見えませんが、人の気持ちは感じることができます。それは、自分と相手を照らし合わせたときに初めてできることです。自分だったどう感じるか?という視点から、相手はどう感じているか?という視点が見えてくるのです。

すると自然に相手にとって悪いことは言わなくなりますし、いやな質問もしなくなります。日常生活でも、ビジネスでも人と関わり合うときはいつでもこのことを気にかけたいものです。

きらりよしじまネットワーク

今朝、あるコミュニティビジネスについてのセミナーで、山形県川西町 きらりよしじまネットワークの事例を聞きました。

NPO法人として町づくりを行っている団体ですが、活動内容は全国的にも例を見ません。

実際の行っている活動は、社会教育から始まり老人福祉、自主防災、スポーツ振興など多岐にわたります。こうした活動は、ここの団体がそれぞれ行っているというのが本来だと思いますが、ここでは、それらを一つのNPO法人が行っているのです。

また、特質すべきは、このきらりよしじまネットワークには、地区住民2,900名全員が加入しているという点です。もちろん子供からお年寄りまですべての地区住民です。

もともとは、さまざまな会合が乱立し、その役員も重複しているという現状がありました。そして、各会への会費負担もありその会費も余剰金が出てくるという無駄があったそうです。

そうした無駄を是正することから始めたのが、このきらりよしじまネットワークなのです。

この川西町の吉島地区には、30年以上も前から社会教育振興を中心としたボランティア活動がありました。それが、会員制になり、組織的になっていき、他の組織も巻き込む形でこのネットワークが誕生したそうです。

こうした活動は、山形県からも評価され、「2007年 やまがた公益大賞」を受賞しています。

ただし、ここまでの道のりは、決して楽なものではなかったと思います。住民全戸参加という異例のNPOを作るまでには、地域住民からの反対もあったでしょうし、その意義を明確に伝えることも必要だったでしょう。それには、地道に話し合っていくしか方法はないのですから。

しかし、そうしてしっかりと説明してこれたからこそ、自発的な地域という土壌ができたのだと思います。

自律参加型の町づくりにおいて、行政や国が何ができるのか?という地域住民のためという発想ではなく、住民と一緒に何ができるのか?という参加意識の向上があってこそ、初めて実現できることなのだと思います。

また、2,3年前からは、それまでの会費運営だけではなく、収益を上がられるような事業いわゆるビジネスにも積極的に取り組んでいます。そこで上がった収益金は、住民に還元されるという、まさにコミュニティビジネスそのものが行われているのです。

まさにこれこそ、「共有の経済学」のケーススタディとしては、最良のものです。

しかし、こうしたモデルケースは、さまざまな条件がそろわなければ、実現するのは難しいと思います。やっている内容は、すごいけど、じゃ自分のところだったどうするの?

ここで、ポイントを3つにまとめてみました。

  1. 強い想いをもった人材
    一番重要なのは、こうした活動を行える人材です。ただし、どんな人でもいいわけではありません。強い想いをもった人が必要です。これは、町づくりに限らず、起業においても同じですし、何か新しいことを始めようとする時、こうした強い想いがなければ、立ち上げることすらままなりません。しかも、そうした人が3人ほど集まれば、自然と形になっていくでしょう。
  2. 住民全体の危機意識
    実は、川西町の財政危機という話が平成17年ごろありました。このことによって、地域住民たちは、行政破綻という危機意識をもったのです。そして、行政に頼ったそれまでの考え方を転換させざるを得ない状況になったわけです。
  3. 小学校区という単位
    地域の単位において小学校区というのは、意味があります。小学生が徒歩で登校できる範囲に決められているため、都市、農村を問わず徒歩圏域なのです。徒歩で行き来できるということは、いつでもすぐに顔があわせられるという範囲でもあるのです。

すべての地方自治にとって最良の方法かといわれると、賛否はあるかと思います。

しかし、こうした形の自律的な町づくりは、地方財政にとっても大きな手助けになることはもちろん、現在すでに破たんしかかっている自治体では、ひとつの選択肢として考えることも必要なのではないでしょうか。

 

多謝
山形県川西町 きらりよしじまネットワーク
山形市市民活動支援センター

共有の経済学

経済学では、経済人が活動することが前提になっていますが、そもそもこの経済人と呼ばれる人は、血も涙もなく人の心をどこかに置き忘れてきた人を指します。

そこまで言わなくても。。。と思われるかもしれませんが、実際そうなのです。そもそもの原因は、経済学の父と呼ばれるアダム・スミスです。

経済人(けいざいじん)またはホモ・エコノミクス (homo economicus) とは、アダム・スミスが考え出した人間モデルで、経済活動において自己利益のみに従って行動する完全に合理的で冷徹無比な存在。実際の人間の行動を近似したモデル。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

つい最近までは、経済学といえばアダム・スミスより脈々と受け継がれてきたこの経済人が前提での話でした。しかし、2002年に行動経済学の立役者であるダニエル・カーネマンが、ノーベル経済学賞を受賞したことをきっかけに、人の心(心理学)も取り入れた経済学も注目されるようになってきています。(本当に経済人として生きる覚悟ができれば経済的成功はあり得るのでしょうか)

学者の人は、当たり前のことをこねくり回して論文を書くのが仕事などと言っていた人がいますが、まさに言い得て妙です。

Sharism(共有主義)という概念を軸とした、新しい経済の枠組みを説明するには、古い経済学では無理でしょう。しかし、行動経済学ならば説明ができるはずです。

最近よく耳にする言葉に、コミュニティビジネスというものがあります。

その概念は、

地域の市民が主体となり、地域の資源を活用して、地域の抱える課題をビジネス的手法で解決し、コミュニティの再生を通じて、その活動で得た利益を地域に還元すること。

コミュニティ・ビジネス - Wikipedia

ということですが、これは、官公庁がこれまでと同じように財政支援ができなくなってきたため、オブラートに包んだ言い回しだと私は理解しています。タテマエビジネスというといいすぎかもしれませんが、そんな印象を受けています。

ただ、その根底にある考え方は決して悪いものではありません。また、その根底には、やはり共有主義があると思います。

一方、企業側でもCSR(企業の社会的責任 - Wikipedia)やフィランソロピーという活動が行われています。アプローチの方法は違えど、実はコミュニティビジネスと同じところを目標としています。

もちろん、これだけで体系だてた説明はができるわけでもなく、あくまでも事例の一つですが、こうした現象を共有の経済という視点で探していくと、いろいろと見えてくる部分も多いはずです。特に、人間社会において共有するという概念は、文明とはかかわらずさまざまな社会構造の中で見出すことができるはずです。

思考力を養う

  • Posted by: マルコ式
  • 2008年11月29日 14:47
  • 詭弁論考

思考力という項目では、ヒントは出しましたが、結論は出しませんでした。

なぜ、答えを出さなかったのか?

それは、その答えがさほど重要ではなく、その過程が重要だったからです。

考えるということは結論を出す前にする行為ですから。

ヒントで将棋としたのには、理由があります。

将棋は100手先まで読むといいますが、これこそが考える力なのです。

自分が、ここにコマを進めると、相手はここにコマを進めるだろう…

そうすれば、次にここに打たざるを得なくなり、相手はそれを見越してここにコマを進めてくる。

ということは、その次の一手でこちらが詰められるわけだ。。。

このようなやり取りを頭の中で何度もシュミレーションをし、その選択肢の中から一つだけを選び行動する(コマを進める)わけです。(実際は、多くの詰将棋の状況(イメージ)を頭にインプットし、それと照らし合わせて決断をしているようですが)

それをほんの数秒、もしくは数分で行っているわけですから傍から見ているととても頭の回転が速いように見えるわけです(実際ものすごく早いですけど)

仕事においては、経験が長いほど、その場その場の対処が迅速で的確だったりします。それは、過去にあった似たような状況と照らし合わせて決断しているにすぎません。(この点を思うとすべての年長者を敬うことが必要になるわけですが)

では、過去に出会ったことのない状況に当たったときはどうするのでしょうか?

実は、これこそ考える真価が問われるのです。ただし、時間はまってはくれません。いかに早く決断し行動するかというあとの作業を思えば、のんびり考えている余裕などはないかもしれません。とすると、おおよそ見当をつけて決断するということが必要になってきます。

しかし、ここで重要なのは、なぜ?その決断に至ったかを明確に説明できなければならないということです。それができなければ、ただの思いつきだと言っても過言ではないのです。しかも説得力のある説明でなければなりません。一人で進めていくのであれば、思いつきでも十分かもしれませんが、仕事において一人でということは、まずありません。お客さんだったり、同僚だったり、協力者だったり必ず誰かがいて初めて仕事は成り立ちます。

未知の状況へ対応するための力、これこそが思考力だと私は、考えています。

ここ最近、思考や脳についての書籍が数多く出版されています。アマゾンで「脳」と検索しただけでも8,000件近く出てきます。茂木先生の関連書籍だけでも100冊以上もあるのです。

それに思考法に関する書籍は約900冊ありました。たぶん、一般的に売られている思考法や脳に関する書籍の数は10,000冊以上あることでしょう。

小難しい本から、簡単な話しまで様々ですが、人間は普段3%程度しか脳を使っていないという話は、TVなどで一度は聞いたことがあるかと思います。残り97%を使うコツなどは別に知らなくても、考えることさえ習慣化すれば知らず知らずのうちに使えてきたりします。

ヒラメキという経験をしたことがある方はどれくらいいるでしょうか?まさにこれは潜在意識をちょっとだけ引き出せた瞬間なのです。そのヒラメキを得るには、同じことを繰り返し考え続けなければなりません。考えるのも嫌になってきたころ、突然それは起こります。

毎回前置きが長くなってしまうのが私のくせですが、どうかお付き合いください。

これも、書きながらいろんなことが思い浮かんであれもこれもと書いていくと道草ばっかりの文章になってしまうといういい例かもしれません。こうした文章を読むと、考えがまとまっていないとな。と感じるでしょう。

考えるということは、言葉なのです。日本人であれば日本語で、アメリカやイギリス人なら英語で、フランス人ならフランス語で考えます。いろいろと難しいことを考えるようになってからもう10年以上たちますが、はじめのうちは考えをまとめることすらできませんでした。なぜそうなるのかとつきつめた結果、言葉を知らなすぎるということが分かりました。自分の考えをまとめるには、より多くの言葉を知らなければうまくまとめることはできません。

また、それを人に伝えるために文章化することもできません。

そこから本を読む習慣をつけました。学校の勉強はそこそこに、本ばかり読んでいた時期もあります。より多くの言葉や考え方に触れることによって、自分の考え方も昇華され難しいと思われるようなことに対しても立ち向かうことができるようになります。

思考力を養う上では、読書は最もよい方法です。考えることができる人にとっては、こんなことは当たり前すぎて何をいまさら偉そうに…などと思われるかもしれません。

そう思った人には、もう一つ別の思考法があることをお教えします。それは、数学です。数学はそもそも哲学をより分かりやすくするために使われた思考法の一つなのです。

ただし、数学を使って考える場合、気をつけなければならないのは、ひとつの答えを導き出さなければならないということです。複数の答えはありません。たとえば、複数の選択肢があり、その中から一つだけ選ばなければならない状況があったとします。そうした状況下では、言葉で考えるよりもはるかに便利です。

Sharism(共有主義)

ワークシェアリング、カーシェアリング、ルームシェア、共同購入など、共有するという概念が最近いたるところに派生しています。

英語のShareは、分担とか分け前、共有、分配という意味合いですが、インターネットの世界では、共有という意味合いで用いる場合が多いと思います。

そもそも、最近こうした概念が派生したバックボーンにはインターネットの存在が大きいのではないでしょうか。知識の共有、動画、音楽といったコンテンツについて共有することを目的としたサイトが多く存在しますし、そもそも、インターネット自体も、知識の共有を目的とした技術だと思うのです。

物質に価値を見出した時代では、共有という発想は持ちにくく、占有が基本でした。あの人が持っているものが欲しいという人間的欲求にこたえるべく、多くのものが生み出されそして消費されていきました。

しかし、昨今の世界経済情勢、長期にわたる日本経済の低迷が、新しい価値観を生み出していたということに、最近、あらためて気付かされたのです。

ブログで、こうして書いていることも結局は知識の共有につながっているわけですが。

この新しい価値観は、より多くの場面で用いられることが、予測されますし、そうしていかなければならないのではないかとも思います。

知識や、知的生産物はもちろん、実質的な物についてもです。

社会主義という思想もありましたが、それとはまた別の概念のような気がします。人間の進化は螺旋の上に成り立っているとすれば、社会主義からもう一歩進んだ概念なのかもしれません。

それを可能にしたのは、間違いなくインターネットですが、その考え方は、ネットのあちら側だけにとらわれることはないのです。むしろ、現実社会、実質経済においてより活用されるべきなのだと思います。

そのためには、他人を受け入れるという発想が不可欠です。個人のものではなく両者のものとして存在するわけですから、相手を受け入れられなければ、そもそもこの概念は成り立ちません。家族という枠組みにおいてはそれが実践されていますが、それは相手を受け入れているから可能なのです。

実は、日本の古き良き時代においては、それが実践されていました。とくに農村部において。特に稲作は、今ほど機械化も進んでおらず、田植え・稲刈りの時期には家族はもちろん、親戚縁者、近所の人までを巻き込んで行っていたほどです。また、葬式も近所の人が手伝いに来るというのが当たり前で、今のようにセレモニーホールを使っていたわけではありません。

これは、モノをシェアするとは若干違いますが、時間をシェアしています。人生において時間ほど価値のあるものはないわけですが、まさにものよりも大切なものを共有していたわけです。

小さい枠組みにとらわれず、インターネットを使ったより大きな枠組みへの取り組みも実はすでに行われています。

シェアモ(ShareMo):ソーシャル・シェアリング・サービス

このサイトは、日本中の人とモノをシェアし、何でも使ったり、使わせてもらったりするサービスとして、今注目を浴びています。

もったいない困ったときはお互い様という2つの言葉の上に成り立っているといえば、日本人にとっては分かりやすいかもしれません。

今まさに、こうした動きが日本で起こっているわけですが、これを世界に広めることができれば、新しい世界観が見えてくるのではないでしょうか。

思考力

  • Posted by: マルコ式
  • 2008年11月27日 18:52
  • 詭弁論考

どうも、最近参加するセミナーや読んでいる書籍、講演テープなどにこの思考力というキーワードが引っかかってきます。

思考力という言い方がいいのか、地頭力といった方がいいのか、それともロジカルシンキングといった方がいいのかはわかりませんが、どちらにしても考える能力が必要だということです。

茂木先生の脳科学もどうやら、ここにも通じる部分があるようですし。

特に、日本人はこの考える力はどうも低下しているように思えてなりません。もちろん、ノーベル賞など受賞する日本人もいるわけなので、全員というわけではありませんが、そういう人が多いような気がするのです。

決して知的水準が低いわけではないのですが、考える力がないというのは、結局のところ教育制度に問題があるといわざるを得ないわけですが、学校でしっかり勉強してきた人ですら、考える力がないというのは、どういうわけでしょうか。

そもそも、こんなことを真剣に考える人がどれだけいるでしょうか?

こんな話をすると、何か難しいことをまた考えているなぁ。。。と思った人は、確実に考えるという行為を拒絶しているか、嫌悪感をもっていませんか?

確かに、そんな事を考えなくても普通に生活はできますし、なんら問題はないでしょう。

しかし、確実に差になってくると私は考えています。

考える人と、考えない人。これが生活レベルにまで影響を及ぼすとしたら、考えずにはいられません。

では、何を考えればいいのでしょうか?

自分だって、毎日考えて生活しているよ!という人もいるでしょうが、こんな感じですか?

「この先どうしようかなぁ。。。」

「ボーナス出るかなぁ。。。」

「仕事がうまくいかないなぁ。。。」

これは、考えているのではなく、ぼんやり思っているだけです。

では、こんなのはどうでしょう?

「何で、あいつはちゃんと仕事をしないんだ!」

「あの人ばかりがよくて、何で自分はだめなんだ?」

「あの人また同じこと言ってるよ。さっぱり先に進みやしない」

これも思っているだけです。しかもネガティブに。

「少ない給与なのに、今月また余計な出費がかさんじゃったな。どうしようか。。。」

「明日の会議、またいろいろと突っ込まれるぞ。いやだなぁ。行くのやめようか。。。」

「やばい!電車に乗り遅れた!タクシーで行くか?それとも、先に連絡しておこうか。」

「あのお客さんは、変なところに細かいから、ちゃんとしておかないと。。。」

これを100歩譲って考えているとは言えません。その状況での思いつきです。

こうしたことの連続が日常生活なのだとは思いますが、だからこそ考えていないともいわれるのです。

 

では、考えるというのはどういうことなのでしょう。

まずは、それを考えてみてください。

 

ヒントは、将棋です。

チーズはどこへ消えた?

もう10年近く前になると思いますが、「チーズはどこへ消えた」という本がブレイクしたのをふと、思い出しました。

まさに今の時代がその状況そのものだと思うのです。

それまで、チーズはアメリカにありましたが、あっという間にチーズが消えてしまいました。

そのあと、アラブにチーズが現れましたが、それも消えそうです。

次は、どこにチーズが現れるのかな?

チーズはどこへ消えた?

未来ノートで道は開ける

先週、(株)アイエスエフネットの渡邉社長をお迎えし、セミナーを開催しました。

渡邉社長とは、実に4年ぶりでした。まぁ、お互いにほんの一時の接点でしたので、あまり記憶にはないとは思いますが。。。

渡邉社長の著書「未来ノート」で道は開けるは、アマゾンではいろいろといわれていますが、結構どうでもいい書評ばかりです。

できないことへの言い訳をしているだけなのかもしれませんね。

そもそも、渡邉社長の根幹にはディール・カーネギーの「道は開ける」があります。古市さんの著書の中でも紹介されている個所があるのですが、渡邉社長はこの本を100回以上も読んでおり、今でも枕もとには常にあるとおっしゃっていました。

成功哲学や自己啓発本は今も多数出ていますが、そこに書かれていることを素直に受け入れて、実行している人はどれだけいるでしょうか?

ナポレオン・ヒル、ロバート・キヨサキ、ジェームズ・スキナー、ジェームズ・アレン、アール・ナイチンゲール、ブライアン・トレーシー、ディール・カーネギー、スティーブン・R. コヴィー。。。などなど。数え上げればきりがありませんが、誰もが共通して同じことを繰り返し言っているということは、それらすべてのを見ていくとわかります。このうちの誰でもいいので3人の著書を読んでみてください。

出来るか、出来ないかを議論している間に、やっている人がすでにいるという現実も受け入れなければなりません。できる人は、みんなすでにやっているのです。

ただそれだけなのだと思います。

専業主婦とフリーターとニート

この違いがよくわかりません。

私には、すべて同じに見えてしまうのです。

嫁に行った妹が、友人の結婚式ということでかえってきていますが、結婚式も終わって用事も済んだはずなのに、明日まで家にいるといいます。

別にそれが悪い訳ではないのですが、先日、仕事を辞めて専業主婦として家に1日中いるらしいのですが、それって、ニートとかとあんまりかわらないんじゃないの?と思いました。

それを確信させたのは、夜11時過ぎに帰宅したときに彼女は2chを見ていたのです。

2chを見ていることが決して悪いとはいいませんが、なんかやっていることがあんまりニートとかとかわらんのではないかと。

旦那の稼ぎで生活していることと、親の稼ぎで生活していることとの違いとは何だろうかと考えさせられました。

もっと大変な専業主婦もいるのでしょうが、妹のような専業主婦をはたから見ていると、専業主婦とは何なんだろう?と思ってしまう訳です。

これで、子供がいれば、子育てをするからということも理解できますが、子供もおらず、日中得にすることがなくネットばかりを見ている専業主婦っていったいなんなんでしょう?

彼女曰く、「そのうちパートでもするから。。。」

パートっていうと、いわゆるアルバイトですね。

そもそも、パートとアルバイトの違いもよくわからない。一緒じゃない!?

どうも、専業主婦の中でもパートをしている専業主婦は、ちょっとランクが違うみたい。

でも、フリーターと何が違うんだろう?とも思う訳です。

フリーターだってアルバイトはしますけど、それとこれとは何が違うのか?

一番の大きな違いは、結婚していることです。

立場的には、以下のような感じ?

  1. 専業主婦(神)
  2. フリーター(カス)
  3. ニート(クズ)

ここで、専業主婦としての意見。

「上げ膳、据え膳で、旦那が気持ちよく働いてもらうために一生懸命尽くしている訳だから、根本的にそういう考え方自体がおかしい。」と。

おかしいこと自体は否定しませんが、それでもそれに疑問を持つ人だっているはず。

フェニミズム的な話ではなく、もっとマクロな話。

子供のいない専業主婦って、ニートとかと全く一緒だと思う訳ですが。。。

でも、おばさんが専業主婦なのですが、なんかいっつも働いているっていうか、動いているというか、普通に仕事している方が楽なんじゃない?って思うぐらいいつも何かしています。これが、専業主婦のイメージにあるから、適当にやっている妹が、専業主婦ということに納得いかなかったのかもしれません。

チームワーク

実は、かれこれ2年ほど、サッカーの社会人リーグに参加しています。中学校の時、サッカー部だったこともあり、地元の友人の誘いもあって現在に至るわけですが、つくづくサッカーはビジネスに通じる部分は多いと思わされます。

サッカーは、11人のチームで戦うスポーツですが、他のスポーツと比べるとひとチーム当たりの人数は多いように思いますし、その人数で1点を取り合うというシビアさもあります。

11人もいて、90分間で数点しか取れないスポーツというのは、サッカーだけではないでしょうか。効率という面においては、他のスポーツよりも悪いかもしれません。

しかし、だからこそその1点の重みが違うのです。

11人のプロフェッショナルが、一つの仕事をこなすというと、なんか映画の「オーシャンズ11」みたいでかっこいい印象ですね。

サッカーでは、それぞれ役割がある程度決まっています。まず、ゴールを守るゴールキーパー。守りに徹するディフェンス、ゲームを組み立てるミッドフィルダー、得点を挙げる役割のフォワード。この辺は常識なので改めて書く必要もなかったわけですが、仕事に置き換えてみると、どうでしょうか?

それぞれが、役割をもって試合に臨むわけですが、試合中はどうしても混戦になるわけで、自分のポジション不明確になるときもあります。ミッドフィルダーがサイドから走りこんできたとき、フォワードがその通り道にいたりすると邪魔になったり、ポジションがかぶったりする訳です。そうすると、1人は無駄な動きをしていることになります。

相手の動きに合わせてフォローアップに回ることも大切です。たとえば、ボールを持っている人が、敵ディフェンダーに囲まれてしまったとき、誰かがフォローについてあげないと、ボールはとられてしまいます。せっかく攻撃の流れが見えてきていても、ボールを取られた時点でまたはじめからやり直しです。

ボールをもっていない人の動きが実は最も重要だったりするのですが、これも、「オーシャンズ11」を見ると、スポットの当たっていない人たちが裏で何を一生懸命やっていたかを、最後に見せるのですが、まさにそこにこそチームワークがあると思うのです。

ビジネスにおいてもチームで仕事をする場合、表舞台に立っている人の裏には、自分の責任をキッチリとこなすプロフェッショナルの姿が必ずあります。だからこそ、表舞台に立てる人がいるわけです。

しかし、表舞台に立つ人だけにすべてが集中したらどうなるでしょうか?まず、失敗するでしょう。信頼できるプロフェッショナルがいるからこそ、大きな仕事もできるわけで、信頼できるプロフェッショナルが周りにいないとき、絶対に大きい仕事はできません。

仕事は大きいからよいのか?小さい仕事だって重要じゃないか?という人もいるかもしれませんが、小さい仕事をコツコツこなすことも大切ですが、より大きな仕事に取り組む時、自分自身の成長が実感できます。

普通に考えて無理だろう...と、ひとから言われても、自分自身が成功すると確信していれば、絶対に成功します。これは間違いありません。どうやらこれも(引き寄せの法則による)一つ真理です。

ただ、一人で行っていくには時間と労力がかかります。そこにプロフェッショナルというパートナーたちがいれば、そして彼らもまた成功すると確信して入れば、より早い段階で成功ができるでしょう。

これが、チームで仕事をする意義だと思います。

ちなみに、プロフェッショナルとは、自分の責任をしっかりと果たせる人のことを言います。「仕事とは責任」なのです。与えられた責任であっても、自らが課した責任だとしてもそれを果たせる人がプロフェッショナルなのです。

チームを組む時は、必ずプロフェッショナルと組むことを提案します。

もし、プロフェッショナルでない人と組んでしまった場合、絶対にその仕事は達成できません。たった一人でもプロフェッショナル出ない人がそのチームにいたときは要注意です。その人に役割を与えてはいけません。役割を与えてしまった場合、それは責任を与えたあなたの責任になるからです。

今の時代に合う言葉

  • Posted by: マルコ式
  • 2008年10月 6日 18:26
  • 詭弁論考

戦後、聖書の1節から「働かざる者、食うべからず」という言葉が日本でよくつかわれていました。そして、「より多く働け」と高度経済成長を引っ張ってきた言葉だと思います。

しかし、今の時代にはその言葉がどうやら当てはまらないようです。

フリーターやニートの存在が証明するように、働かなくても食える時代だからです。

そんな時代だからこそ、今一度「働かざる者、食うべからず」の精神を持つことも必要なのかもしれませんが、すでにそうした現実がある以上、精神論で終わってしまいます。

今の時代に最も合うのは、「持てる者はますます富み、持たざる者はさらに失う」や、「金持ちはますます富み、貧者はより貧しくなる」という言葉です。

今まさに、そうした現実が目の前で起こっています。

しかし、それを直視せず、目を背けたり、どうしてよいか分からず四苦八苦しているわけです。

ここが、宗教を忘れてしまった日本人の限界かもしれません。

アメリカが、今不況にさらされていますが、たぶん持ち直すでしょう。なぜなら、彼らの資本主義の源泉には、聖書があるからです。(詳しくはプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神を参考のこと)

それぞれが、聖書の1節ですから実は、答えも聖書に書いてあります。

「求めよ、さらば与えられん」

これが答えです。

たったこれだけのことですが、この真理を実践したときにこそ、富める者になることができるでしょう。

企業格差

同じ仕事をしているのにもかかわらず、賃金に大きく差が出るということを知っているでしょうか。

これは、企業規模による格差ですが、規模が大きいほど賃金がよく、規模が小さいと賃金が少ないというものです。

実態調査の結果もあります。

職種別、企業間賃金格差の残酷な実態 [月刊チャージャー] - Yahoo! JAPAN PR企画

同じ仕事といっても、実は仕事の規模が違うのです。最も違うのは、受注金額でしょう。

大企業と中小零細企業とでは、同じ仕事だとしても受注金額がまったく異なる場合があります。大企業はブランド力があり、ブランド力があるということは、購入以前より顧客に信頼されているわけで、その信頼料が上乗せされている分、金額も高いわけです。

一般的に、民間企業のサラリーマンの生涯賃金は3億円といわれているそうですが、実質的に3億円を得るとなると年俸1000万円で30年間です。

果たしてどうでしょうか?

大企業では、それは可能ですが、中小零細企業ではまず不可能です。何より、給与の原資となる資金がない。といっても、社員が働いていないわけではないんです。むしろ、大企業のサラリーマンよりも長く働いているのです。もちろん、規模にかかわらず、一生懸命働いている人はいるでしょうが、パレートの法則を当てはめると、大企業だとしても2割の人だけで会社の8割の利益を上げているのです。たとえば、1000人の会社だとすれば200人がとてつもない利益を上げているから残りの800人は、新橋あたりで一杯ひっかけて帰ることができるわけです。

逆に100人の会社だと、20人、50人規模だと10人、25人だと5人、10人以下の会社はもはや社長一人が頑張らないと何ともなりません。

しかも、規模に応じてできる仕事も限られてきます。100人規模の会社と1000人規模の会社とでは、そもそものステージが違うのです。同じ仕事といっても仕事の仕方だけであって、根本的に規模も質もまったく違います。その点が、企業格差を生み出す原因となっているわけですが、これが最近では顕著になってしまっているのではないでしょうか。

特に、こうした時代ですから、これまでお付き合いしていた中小企業同士は、もつれ合うような形でどんどん目減りしていくでしょう。企業倒産件数で上がってくる企業のほとんどは、中小零細企業です。大企業が倒産となれば、大ニュースになるわけですからそれがなく、倒産件数だけが報道される理由を考えるとすぐにわかります。
(たとえば、最近だとリーマンブラザーズとか)

「大企業でも倒産する時代になった」などといわれたのはもう10年も前になりますが、だからと言ってどこの大企業も経営が危うくなったかといえば決してそうでありません。

特に、サブプライムローン問題が浮上する前までは、景気が回復されたとまで言われたぐらいです。その実感をもっていたのは、大企業だけです。

これがまさに二極化の現象です。

アメリカの啓蒙家などがよく使う文句に「持てる者はますます富み、持たざる者はさらに失う」という聖書の1節があります。

これはまさに一つの真理ですが、より多くを求めようと考えている人がどれだけいるかが、結局すべてを左右しているのです。

神話の法則

トゥーランドット』(Turandot)を知っている人は、よほど教養の高い人だと思いますが、話を進めていく上で、どうしても内容に触れておかなければならないので、どうかご容赦ください。

「トゥーランドット」は、アラビアからペルシャにかけて見られる「謎かけ姫物語」と呼ばれる物語の一類型であり、同系の話は古くはニザーミーの叙事詩『ハフト・ペイカル(七王妃物語)』(1197年)にまでさかのぼる。この系統の物語をヨーロッパに紹介したのがペティの千一日物語であり、原典は失われてしまったが同じような筋書きのペルシャ語写本が残されている。 ただし、残されているペルシャ語写本にはトゥーラン国の名はあるもののトゥーランドットの名はなく、フランス人の研究者オバニアクは、この「トゥーランドット」という名はペティが出版する際に名づけたのかもしれないとしている。 このペティの手になる「カラフ王子と中国の王女の物語」を換骨奪胎して生まれたのがゴッツィ版「トゥーランドット」であり、この作品はさらにシラーによってドイツ語に翻案されている(1801年)。なお、プッチーニのオペラはゴッツィ版が元であり、ウェーバーのオペラはシラー版を元にしているとされている。 ペティの「カラフ王子と中国の王女の物語」のあらすじに関しては#外部リンク先を参照のこと。

このトゥーランドット物語は、オペラだけでも少なくとも12人の作曲家の作品が存在することが確認されているが、今日では以下のものが有名である。

  1. カール・マリア・フォン・ウェーバーが作曲、1809年ドイツシュトゥットガルトで初演された劇。中国らしさを出すためにジャン=ジャック・ルソーの『音楽辞典』の巻末譜例から『中国の歌』を引用している。後にこの『中国の歌』の部分がパウル・ヒンデミットにより『ウェーバーの主題による交響的変容』第2楽章の主題として用いられる。
  2. アントニオ・バッジーニが作曲、1867年イタリアミラノで初演されたオペラ『トゥーランダ』Turanda
  3. フェルッチョ・ブゾーニの作曲になる、1905年に初演された劇音楽、またそこから発展し1917年スイスチューリッヒで初演された2幕のオペラ。
  4. ジャコモ・プッチーニが作曲、彼の1924年の没後遺された未完部分にフランコ・アルファーノの補作を経て、1926年イタリアミラノで初演された3幕物のオペラ。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

この話は「竹取物語」にも似たようなくだりが出てきます。結果は違いますが、謎かけ姫という視点で考えれば、共通性はあります。

もっと身近な例をとってみると、日本古来の昔話などはいたるところに共通性を持っています。

たとえば、鶴の恩返し、笠かけ地蔵、雀の恩返しという3つのお話には

  1. お爺さんとお婆さんが出てくる
  2. お爺さんが助ける
  3. お返しに宝物をもらう

という共通点が見えています。

日本の昔話はなぜか、お爺さんとお婆さんが出てくるという話が多いのですが、これには何か意味があるのかもしれません。

そもそも、昔話や童話は、子供たちに教訓をわかりやすく教える役割があります。お爺さんとお婆さんとしているのは、感受性の豊かな子供たちが、客観的に話を聞けるようにするためにの配慮なのかもしれません。

こうした物語や神話を体系的にまとめる学問を神話学といいます。特に、比較神話研究からは、異なる神話(体系)に共通する神話類型やモチーフが明らかにされています。

さまざまな神話を比較分析していくと、面白いことにいくつか共通する点が見つかったりします。時代背景や場所などはまったく異なるのですが、不思議なことにそうしたことが起こるのです。

しかし、神話をはじめ多くの物語には、一定のルールが存在していると仮定して考えてみると、さほど不思議ではなくなります。

物事には、始まりと終わりは必ずあるわけで、森羅万象すべてに通じる理ですが、その始まりと終わりを結びつける流れというものは必ず存在します。そして、その流れこそが、物語として語られる部分なのです。

物語の流れを大きく見ると以下のようになります。

  1. 旅立ち
  2. 試練
  3. 終焉

「旅立ち」としていますが、必ずしもどこかに旅に出るというわけではなく、物語の始まりというニュアンスのほうが的確です。また、「試練」の前に集結という流れが組まれる場合もあります。これは、仲間が出てくる物語には共通しています。
最後の「終焉」は、たいていハッピーエンドで終わる場合が多いです。それは、「試練」を乗り越えたことの証でもあります。

最近の映画はやたらと続編が多いですが、続編のつなぎ方は、大きく分けると2パターンあります。ひとつは、「終焉」を迎えずに「試練」のまま終わり、またその続きから始まるパターンと、一度「終焉」を迎えるも、また新たな「試練」が立ちはだかるパターンです。

逆に、こうした共通するモチーフを使って物語を作ると、わりと素人でも面白い話ができるでしょう。

「そんな事を言っても、結局は物語上の話であって、人生はそんな物語のようにうまく話は進まないよ。」と思われるかもしれません。しかし、事実は小説よりも奇なりという言葉もあるように、物語よりも人生のほうが物語らしいです。

人生はドラマだということを言った人もいますが、人生はむしろ、旅立ち~終焉までの連続です。そして常に試練に向かい合わなければなりません。それが、物語とは大きく違うところです。一つの物事が終わりを迎えても、次に新たな試練が立ちはだかり、そしてそれをまた乗り越える。乗り越えられなければ、試練はそのまま続いていくのです。たとえそこから逃げようとも同じような試練がまた立ちはだかります。結局はその試練を乗り越えなければ先には進めないのです。

神話や物語には、そうした教えがひそかに隠されています。似たような話が多いのも、結局は人が主役である以上、人生という物語がすべての物語のベースになっているからなのだと思います。

仕事やビジネスにおいても、一連の流れは変わりません。ただし、人生同様、大小さまざまな物語の連続なのです。

人を動かすもの

オリンピックが始まりました。

毎回、オリンピックを見ていると何かやろうと思う人も多いのではないでしょうか?そして、挫折していつの間にかやらなくなってしまっていたりと。

感動は心を動かされるわけですが、心が動くということは、体も一緒に動こうとするのです。だから、何かに感動した時はそれを行動に移そうとします。

最近だと、感動経営という言葉が出てきています。

人に感動を与え、社員が感動するような会社にしていこうということですが、結局は、社員をいかに動かすのかというところにつきます。

心が動けば、体も動くのです。

ただ、それには感じる力がないとできません。感動とは、感じて動くと書くわけですが、感じる力がないとまずもって感動もしないですし、動きません。

感性だというかもしれませんが、その感性を磨く努力をしなければ、感動もしないのです。

ただし、これは人に動かされる人の話。

世の中には、自発的に行動を起こす人もいます。その人は、何かに感動したから動いたわけではなく、自分から心を震わして動いた人たちです。

そんな人たちが持っているものは、情熱です。

湧き上がるような情熱が、人を動かします。

起業家も湧き上がる情熱を持っています。音楽家も持っています。作家も持っています。画家も持っています。スポーツ選手も持っています。

自ら何かを成し遂げようとするとき、必ずこの情熱が必要なのです。

情熱こそが人を動かします。

情熱こそが、原動力です。

私が、ブログを書くことも、書きたいという情熱があるからできるのです。書くという情熱がなければ、ここまでは絶対にかけません。

書きたいから書くのです。湧き上がる情熱があるから書くのです。たまに、感動して書く時があるのですが、それは自分から書いているのではなく、感動させた人から書かされているのかもしれません。

奮い立つような情熱を持つことこそが、その人を動かします。

そして、その情熱を見た人は、必ず感動するのです。

規制緩和がもたらしたもの

  • Posted by: マルコ式
  • 2008年7月 9日 14:27
  • 詭弁論考

規制緩和がもたらしたもの・・・それは、「破壊と混乱」です。
具体的な例をいくつかあげてみます。

1月25日21時58分配信 毎日新聞

タクシー業界の規制緩和で年収が下がるなど苦痛を受けたとして、東京都内で働くタクシー運転手10人が国に計2786万円の賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁(三代川三千代裁判長)は25日、「原告が提起した諸問題の改善解消に向け、政府が責務を果たすことを強く期待する」と異例の付言をしたうえで、請求を棄却した。

政府は93年から規制緩和を進め、02年施行の改正道路運送法で▽新規参入を免許制から許可制とし、需給調整の廃止▽料金の認可基準の弾力化−−などを定めた。原告側は、こうした政策が過当競争を招き、生活不安を与えたと主張していた。

判決は「不法行為の特定を欠く」と訴えを退けたが、「規制緩和は輸送の安全や利用者の利便に結びついておらず、運転手の労働条件悪化というひずみを生んだのは明らか」と付言した。
【北村和巳】

規制緩和で苦しむ業界の最たる例ともいえます。

また、先日の秋葉原で起こった痛ましい事件の背景には、派遣業界の規制緩和による問題が根底にあったとされ、7月8日に日雇い派遣を原則禁止し、特定業務だけで例外的に認めることを柱とした労働者派遣制度の見直し案を正式に決定し、舛添厚労相に秋の臨時国会に労働者派遣法改正案を提出するよう要請しています。

規制緩和による実態は、以下の通りになります。

規制緩和

競争激化

価格下落

コスト削減

人件費削減

非正規雇用増加

それでも薄利のため過酷労働を強いられる。

将来に対して希望が持てない

犯罪行動

こうした負の連鎖ともいえる状況の中で、いったいどうすれば希望が持てるでしょうか?
犯罪の9割は、失業率でほとんど説明がつくとよく言われますが、まさに近頃の事件はそれを象徴しているかのようなものばかりです。

実質的に失業していなくとも、何の保証もないような雇用状況では、失業状態とさほど変わらないともいえるでしょう。

ややもすると、近頃の事件は、自分勝手な人の犯行とも言えなくはないのですが、人が犯罪行動をとるには、何らかの理由が存在します。
というより、人が行動をとることすべてにその人なりの理由が存在しているのです。

 

先の図で示した通り、規制緩和が結果犯罪者を生み出してしまっているといっても過言ではありません。

しかし、その規制緩和政策をとらざるを得なかった背景もあったわけです。そもそも、既得権益を享受している古い体制が、様々な業界であったことに端を発しているようにも取れますが、実際は、それをあおったマスコミの責任だと考えています。

テレビをはじめとするマスコミが流す情報のほとんどは、不安をあおるものです。社会情勢がそれほど不安でなければ、見向きもされないでしょうし、自分のこととは感じないでしょうが、社会情勢が不安な中では、冗談ではすまされません。

ある人は、「テレビで凶悪事件を報道するたびに、その事件を模写して新しい凶悪事件を起こせと言っているようなものだ。」ともいうぐらいです。これは、極端すぎるかもしれませんが、そう捉えられてもおかしくないのも事実です。

 

国を規制緩和に向かわせたのも、マスコミの過剰報道によるものではなかったのでしょうか。

事実を伝えることが仕事と考えているかもしれませんが、その事実によってどれだけ多くの人が影響を受けるのか?マスコミ関係者は、まずペンを握る前にそのあたりをもう一度よく考えてみたほうがいいです。

Reconcept

  • Posted by: マルコ式
  • 2008年7月 7日 14:27
  • 詭弁論考

本題に入る前に、まず、予備知識を入れておいたほうがいいかと思います。

今日は、概念についての話なので、まずは概念とは何かというところから…

概念(がいねん)、コンセプト:concept)とは、物事の総括的・概括的な意味のこと。ある事柄に対して共通事項を包括し、抽象・普遍化してとらえた意味内容で、普通、思考活動の基盤となる基本的な形態として頭の中でとらえたもの。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

引用した文章がかなり難解でしたが、コンセプトというと何となくイメージがつかめるような気がします。特に我々のような業界では、デザイン・コンセプトとかよく耳にする言葉ですから、意味を全く知らずとも何となくわかる人もいるでしょう。

僕が考える概念とは言葉です。

逆に、言葉こそ概念だと言ってもいいです。

言葉を研究する学問「言語学」に興味を持ち、独学していたときに出した結論の一つでした。

概念と言葉の関係性は、同義と言えるほど密接なのです。

Reconceptという言葉はあまり聞きなれないかもしれませんが、検索してみると意外と多くの結果が出てきます。Googleの検索結果では6,410件でしたし、Yahoo!では108,000件でした。(2008.07.07現在)

しかし、そのほとんどは英語サイトだったことは注目すべき点です。

今の段階では、日本ではそれほど一般的ではない言葉なのです。

日本語でも、「もったいない:mottainai」という言葉がありましたが、今では世界共通の言葉として知られています。そもそも、日本人以外で「もったいない:mottainai」という概念をもっている国はなかったわけです。

世界中では、英語や中国語をはじめ数多くの言葉が存在し話されています。ケセラセラという言葉がありますが、これは実はスペイン語のフレーズです。(Que sera sera/ケ・セラ・セラ)

また、長崎の特産品であるカステラはポルトガルから伝わってきたものですし、バッテラ寿司も見た目は押し寿司ですが、語源はポルトガル語なのです。img05[1]

先のウィキペディアの説明の中に、

施行活動の基盤となる基本的な形態として頭の中でとらえたもの。

と、ありましたが、概念はただとらえておくだけでは何の意味もなしません。それを人に伝えることができて、初めて概念として世に存在し得るのです。

概念は意味の担い手である。一つの概念は複数の言語で表現することができる。例えば、「犬」という概念はドイツ語では 'Hund' と、フランス語では 'chien' と、スペイン語では 'perro' と表現される。概念がある意味で言語とは独立したものであるということが、翻訳を可能にする。つまり、同一の概念を表す様々な言語の言葉は「同じことを意味する」。

ここからが本題なのですが、タイトルのReconceptについては、日本語では、まだ適切な概念が存在していないといえます。

Yahoo!で検索してみると、高知のリフォーム会社やリフォーム関係の日本語サイトが出てきますが、僕の考える本質的な概念とは若干違うようです。

僕が考えるReconceptとは、「再概念」です。

もともとある概念を再度、概念化する作業のことを指しています。

簡単にいえば、もう一回考え直してみるということです。

リフォームや建築関係のサイトがかかってくることも実は納得がいくのです。ニュアンス的にはRestructure(再構築)に近いためです。ただ、言葉の意味合い的にはReconceptのほうが強いです。なんせ、形だけを変えるのではなくその意味あいすら変えてしまおうというのですから。

今の世の中で、まったく新しい概念はなかなか生まれにくくなっています。それは、これまで数多くの概念を先人達が作り上げてきたからなのです。

高度に文明が発達すれば、概念の多様化にも限界が生じてくるのです。

一見新しい物の見方のように見えるものが実は、Reconceptされたものだというのが結論です。

人類が有史以来2000年以上にかけて培ってきた概念は、今の豊かな生活を与えてくれました。しかし、人類はより進歩を望んでいます。人間は欲深き生き物なので、今よりももっと幸せになりたいのです。

それが罪だというのならば、人類の進歩は減速していくでしょう。しかし、自分の欲望と向き合い、そして正しい方向へと向かうことができるのならば、進歩はすべての人を満たしてくれます。

Reconceptによってそれまでないがしろにされてきた価値観やモノの見方が、もう一度見直されつつあります。知らない人にとっては、まったく新しいものに見えるかもしれませんが、知っている人にとってみれば、それはまさしく再概念なのです。

マルコ式ダイエット法

  • Posted by: マルコ式
  • 2008年6月17日 13:49
  • 詭弁論考

事後報告ですが、ダイエットに成功しました。

6か月で7Kg減量です。

マルコ式ダイエット法は、やらないことを決めるのがポイントです。

何をやめたかというと、夕食を食べることをやめました。

「夕食を抜いたら体に悪いんじゃないの?」という人もいます。

夕食を抜くことよりも過剰にカロリーを摂取していることのほうがよっぽど体に悪いんです!

成人男性が必要としている1日のカロリーは2,000Kcal~2,500Kcalといわれています。しかし、現実的には3,000Kcal~4,000Kcalもとっているのです。

「いやいや、それはないでしょ。いくらなんでも4,000Kcalって」

たとえば、仕事帰りにちょっと一杯飲みに行ったりしますよね?それだけで1,000Kcalは摂取してしまいます。

現代人の食生活では、3食まともに食べると、3,000Kcal以上は摂取してしまう計算になります。

それだけですでに500Kcal~1,000Kcalはオーバーしているのです。

つまり、1食分は確実にオーバーしている計算になります。

 

それまでの自分の食生活における1日当たりの摂取カロリーを実際に計算したところ、平均3,500Kcalでした。

確実に約1,000Kcalはオーバーしていました。しかも、仕事がらお付き合いというのも多く、月に何度かは飲みに行くのですが、飲みながら食べていると確実に2,000Kcalは摂取しています。ビール中ジョッキ2杯で400Kcal程度あり、居酒屋のつまみはたいてい油ものが多いため知らず知らず1日分のカロリーを摂取していた…なんてこともあります。

 

ちまたでは、レコーディングダイエットという食べたものを記述していくダイエット方式がはやっていますが、基本的な考え方はこれと似ています。重要なのは摂取カロリーを意識するということです。

レコーディングのようなまめな作業が私は苦手なので、そもそも摂取カロリーをオーバーしているのであれば、それを摂取しなければいいという発想に行きついたのです。

かなり極端ではありますが、確実に痩せられます。

 

よくある質問で、「夜抜くのはつらくないですか?」というものがあります。確かに、つらい時もありました。はじめの3か月は、断食をイメージしていました。4ヶ月目は、飢餓に苦しむ子供たちを意識しました。5ヶ月目ぐらいには6キロのダイエットに成功したので、ルールを決めました。

200Kcalまでは、許容範囲としたのです。

ちなみに、ビール中ジョッキ1杯は約200Kcalですが、毎晩ビールは飲んでいません。

飲んでいるのは野菜ジュースです。

これもカロリーがあるんです。ちなみにコンビニで売っている野菜ジュースは約70Kcalぐらいあります。他には、乳酸菌飲料(100Kcal)なども飲みます。

なぜ、200Kcalなのかというと、朝と昼をついつい食べ過ぎてしまって2,000Kcalだったとします。しかし、よる200Kcalと決めておけば、決して2,500Kcalを超えることはありません。

 

はじめ意識していると、そのうちそれが無意識にできるようになります。半年間続けてみて、よる食べないのも今では当たり前になってきました。食事に幸せを見出す人には、酷な話かもしれませんが、聖書の7つの大罪の一番はじめに出てくるのは「暴食」です。

宗教は、人間が正しく生きる道を説く哲学だとすれば、あながち間違ってはいません。

ツンデレ反応

  • Posted by: マルコ式
  • 2008年6月 8日 13:56
  • 詭弁論考

素直な人の反応は、基本的に、直球ですが、すべての人が素直かというとそうではありません。素直じゃない人もいます。

そんな人の反応をツンデレ反応と呼ぶことにします。

ツンデレとは、オタク用語として生まれた言葉ですが、最近では結構使う人が増えてきたような気がします。(自分の周りだけ?)「普段はツンと澄ました態度を取るが、ある条件下では特定の人物に対しデレデレといちゃつく」ことだそうです。

変な話ですが、かなり使える言葉であることは間違いありません。実際そんな人はいますし。

ただ、ツンデレ反応自体は健全な反応とは言い難いです。これも、自分に依存する気持ちがそういう反応を取らせるのだと思いますが、その反応の受け方によっては、相手に誤解を与えかねないからです。

Emotional Intelligenceが高い人であれば、その反応を見て、「素直じゃないなぁ」と思うのでしょうが、Emotional Intelligenceが低い人だと、「( ゚Д゚)ハァ?」となるわけです。

たとえば、小学校で好きな子に意地悪をする男子生徒を想像してみてください。

された子は「何でこんなことするの?」と思うわけですし、自分自身も「なんであんなことをしちゃったんだろう…」と思うのですが、子供だからEmotional Intelligenceが低いだけともいえるのですが、大人になってもそんな人はいます。

そういう人に共通しているのは、当事者間の反応よりも周囲の反応を気にしてしまうのです。特に、小学生の場合、周囲に好意を悟られるとその中に必ず冷やかす輩がいます。たいていは男の子ですが、その子は、恋愛という反応を持ち合わせていないため、その反応にただ興味を示しているだけなのです。

大人になると、それはいわゆる世間体として意識されます。周囲の反応=世間体なのです。世間体ばかり気にしてしまうと、結果としてツンデレ反応に陥ってしまいます。

立場のある人やプライドの高い人などは、ツンデレ反応を起こしやすいです。もし、仮に世間体を悪化させる事態に陥った時、こういった人たちはどういう反応をするかというと、まず、自己の内的反応としては、恥としての罪悪感を持ちます。そして外的反応は、相手の否定につながっていくのです。

小学生にとっては、小学校が社会生活の基盤ですから、そのコミュニティーの中で立場を悪化させることは、自分に対してデメリットがあると考えるわけです。大人の場合も同様です。あるコミュニティーの中で立場を悪化させることによって、自分にデメリットがあるのではないかという不安が、ツンデレ反応を引き起こします。

しかし、一歩そのコミュニティーを出てしまうと、世間体などというものにこだわらなくてもよいのです。

愛するがゆえにしっかりときついことを伝えなければならない時もありますが、それは別です。ただ、そこにもEmotional Intelligenceが作用するわけですから、それすらも予測して、伝える必要があるのです。

Emotional Intelligence

  • Posted by: マルコ式
  • 2008年6月 8日 12:52
  • 詭弁論考

一般的には

Emotional Intelligenceは心の知能指数と言われ、自己や他者の感情を感知したり、自分の感情をコントロールする技術を測る指標等といわれていますが、定義はまだはっきりしていません。

でも、それが高ければ人間関係を円滑にすることができるのは、わかると思います。

基本的に学者の先生たちは、事象を難しくとらえ、難しい言葉を使って論文を書くのが仕事なわけですから、我々一般人にはピンとこないのも当たり前です。

しかし、それは考えすぎなだけです。もっとシンプルに物事をとらえようと思えば、いくらでもそれは可能です。

 

反応予測とコントロール

私が考えるEmotional Intelligenceは、反応予測能力です。

反応とはとは、ある出来事や動作などに対する他者の動作などの応答といわれています。

人は、意識的にしろ、無意識的にしろ常に様々なものに対して反応しています。

  • 朝目覚まし時計が鳴る→起きる
  • おなかがすいた→朝ごはんを食べる
  • 赤信号になった→止まる
  • 朝から怒られた→苛立つ
  • いらだちが抑えられない→ごみ箱を蹴る
  • ごみ箱を蹴る→ごみが飛び出す
  • その光景を見た→びっくりする

もちろん、これ以上の反応を自分自身が起こしていますし、周りにも起こしています。人間の反応は、大きく分けて内的反応と外的反応があるということは、この例からおぼろげにわかると思います。

自分自身の心理的反応の多くは感情によるものです。無意識的反応は反射として表れます。そして、自分の行動はすべて外的反応を生み出します。

これが、人間関係であり、社会はこうした個々人の反応によって形成されているのです。

あの人が嫌いだと思えば、実はその人も嫌っていたりします。なぜならそれが行動に表れていてその行動に対する反応が嫌悪感なのです。そして、嫌いだという感情自体は自己の心理的反応によるものです。なぜ嫌いなのかについては、いろいろと理由はあると思いますが、その原因は外的環境からのフィードバックが多いのです。

人に対して好意を持つことも、外的反応からのフィードバックです。他者が好意的に接してくれると、その人に対しての反応も好意的になるわけです。ですから、人から好かれたいと思っている人は、まず人に好意的に接することが肝要です。

しかし、期待した反応が返ってこないことも十分あり得ます。

たとえば、好きな人に好きだと告白しても、相手が嫌いだという状況はあります。

それは相手の反応を予測できていなかった、もしくは反応の予測に大きな誤差があった場合に起こります。

この現象はいわゆる「空気が読めていない」ことにほかなりません。最近の俗語的な言い方をすれば、KYといいます。

なぜ反応が予測できなかったのか、もしくは大きな誤差を生んでしまったのか。それは、自己を優先してしまったからです。反応の予測がうまい人は、まず他人本位で話したり、行動します。

社会生活は人の反応の上に成り立っているわけですから、相手の反応をまず先に考えると、自分が何をすべきかが見えていきます。それに合わせて行動すれば、特に大きな誤差などは起こり得ません。これは断言します。

しかし、反応が悪い方に向かっているときは、あえて良い方向に修正する必要もあります。これを行わないと、そのまま人の反応に流され、そして関係はより悪化してしまいます。

Emotional Intelligenceは、感情のコントロールといっていましたが、それこそが、人の反応を良い方向に修正するためコントロールにほかなりません。

人の反応についての予測とコントロールという発想であれば、簡単なアンケートによる計測が可能になります。

 

反応測定

たとえば、あなたはこんな時どんな反応をしますか?

  1. 上司に怒られた
    1. ムカつくが口答えはしない
    2. 反論する
    3. いきなり殴りかかる
    4. 素直に受け止め、悪かった点を見直す
  2. 好きな人ができました
    1. とりあえず告白する
    2. よく知るために尾行する
    3. とりあえず話しかける
    4. じっと見つめる

1は、わりと簡単だと思います。しかし、実際の反応はどうでしょうか?2については、難しいと思う人もいるかもしれません。でも、尾行はいけません。それを世間ではストーカーと呼ぶのです。とりあえず話しかけるぐらいが一番妥当でしょうが、実際最も効果があるのは、じっと見つめることです。

実は、相手の目を見るという行為自体が、相手に対して好意的であるという反応なのです。好意がなければ、まず、相手の目を見ません。嫌な上司や先生などに怒られているときは、まず相手の目を見ようとしません。それも反応として表れています。

日本においては源氏物語の時代から、相手の目を見ることが好意的反応だということは言われています。源氏物語にある「まぐわい」というのは、「目合」と書き、目を見て愛情を知らせることなのです。今では、そこから何段も飛ばしてしまって、いきなり男女の交際、果ては性交などという卑猥な意味になってしまっていますが、そもそもの意味は違うのです。

 

過剰反応

こうしたことを理解して、相手の反応を予測し行動できる人が、Emotional Intelligenceの高い人なのですが、突発的な事象に対しての反応は誰でも一緒です。

まずは、びっくりするのですが、そのあと自分に対して損害のあることに対してはすぐに怒りの反応が出てきます。そして、その事象を起こした人を激しく非難します。もしくは、言い争いになるでしょう。しかし、これは突発的な事故と一緒で、防ぎようがありません。いわゆる想定外の出来事がおこってしまうのです。毎日の反応を計測したわけではないので、はっきりとは言えませんが、確率的に飛行機が落ちる確率(1/200,000)と同じだとしても、反応回数が多ければ衝突する確率も高くなります。

いつも誰かと衝突している人は、神経過敏で人の倍以上は反応しているか、反応の度合が大きいため、確率が同じだとしても、そうした結果を生み出してしまうのです。

逆に、反応回数の低い人や反応の度合が小さい人は、「おとなしいよね。」とか、「何か、いつも反応薄いよね」などといわれます。

それがあまりにも過度だと、精神病といわれてしまうのです。(まぁ、実際、病気ですけど)

 

Emotional Intelligenceの高め方

Emotional Intelligenceの意味と、計測方法などについては、先に説明した通りですが、これは、後天的に伸ばすことが可能です。そもそも、先天的に高い人はいません。

赤ちゃんの反応は誰でも一緒なわけですから。いきなり成人で生まれてくる人がいない以上、スタートラインはみんな一緒なのです。

ちなみに、赤ちゃんの反応は・・・

  • お腹がすく→泣く
  • うんちをした→泣く
  • うれしい→笑う
  • 嫌だ→泣く
  • 好き→笑う

泣くか笑うしかないんです。

こうした反応を見て、お父さんやお母さんが、その子の面倒をみるわけです。はじめは、何をしていいのかわからないですが、次第に、何をしてほしいのかが自然とわかってきます。

これは、相手の反応予測ができるようになったからなのです。もう少し、子供が大きくなると、また違った問題が出てきます。特に好奇心が旺盛な3歳~5歳ぐらいまでは、ギャングのような存在です。赤ちゃんのころに比べて、この時期になると、反応のバリエーションが増えてきます。しかし、善悪の区別がつかないため、反応がコントロールできません。ですから、しかってやるのです。そうすることによって、反応をコントロールします。

健全な人間は、こうして年を重ねるごとによってEmotional Intelligenceを高めることができるのです。

しかし、そうしたことをせずとも、Emotional Intelligenceを高める人もいますし、飛びぬけて高い人もいます。

高めたい人はまず、身近な人に何かプレゼントをしてみてください。しかし条件があります。プレゼントは、相手が心から喜ぶであろうものに限ります。そして、相手の反応を見てください。

あまりうれしそうでなかった場合、次はもっと喜びそうなものをプレゼントしなければなりません。

かなり喜んでくれたら、また別の人にプレゼントをしてみてください。

それを繰り返すだけで、自然とEmotional Intelligenceは高まっていきます。

人の想像力が世界を救う

  • Posted by: マルコ式
  • 2008年6月 6日 22:59
  • 詭弁論考

最近、想ったことの一つに、「未来を想像しなくなったなぁ」ということがあります。

単に、仕事が忙しくてそんなことを考える暇がないとか、大人になったら、あんまりそういうことを考えなくなったということもあるのかもしれませんが、文化や芸術、音楽などを見ても「未来に対してのイメージが突飛なものではなくなった」と言えます。

今よりももっと、未来を想像していた時代、特に1970年代から2000年代において、それは顕著にあらわれていました。近くて、遠くの未来、そして新世紀。この20年間のなかで様々な未来への切望を文化や芸術などで表現する人も少なくなかったのです。

逆に、終末思想というものもこのころから出始めました。いわゆる「恐怖の大王」説です。空から恐怖の大王が舞い降りて世界が終るという類の話ですが、部分的に紛争や自然災害などは起こっているものの、世界規模での戦争や自然災害は今のところおこっていません。(これからも起こらないことを切に願います)

特に日本においては、失われた10年といわれる1990年代以降、未来に対しての不安ばかりが助長されているような気がします。そして、新世紀に入り、それはますます加速しています。

特に最近は、原油高による物価の上昇は先が見えず、不安要素は増すばかりです。また、各地の大地震。これによっても多くの人命が失われています。

しかし、それもまた少なからず「人々が望んでいた結果なのかもしれない」ということに最近気づきました。平和で安全が保障されている人たちの中には、この平和がずっと続けばいいと望んでいる人と、何か悪いことが起きないかと考えている人がいるのです。前者は、現在の生活に満足のいっている人たちで、後者は現在の生活に満足いかず、かつ自己本位ではないのです。言い換えれば、それは無責任ということです。

世の中におこっていることはすべて、人の想像力の具象化に過ぎないと仮定すれば、悪いことを考えると、それがまさに現実となり、良いことを想えばそれが現実化するのです。

世の中すべての事象はすべて微妙なバランスの上に成立しています。陰と陽の関係がそれをよく表していると言われていますが、それはひとつの真実です。光が強ければ強いほど影も濃く、大きくあらわれるわけです。ただ、それはすでに現実世界で貧富の差として表れていますが。

地球上の多くの人たちが、「こんな世の中、嫌だ」と想うようになると、それが現実のものとなり、世界を変えるほどの変動が起こりえるということです。過去の歴史の中において、そうした変動は革命や戦争という形で具現化し、そのたびに今まで築き上げてきたものを一瞬で破壊してしまいました。

それが歴史の真実ですから、人の想像力は、個々人が思っている以上に大きいことがわかります。自分一人が、思っている以上に自分の考えや想像力は、自分の外的環境に大きく影響を与えているのです。自分が望んだ以上の生活はできませんし、それ以下の生活もしていません。今ある環境はすべて自分が考え行動した結果に過ぎません。

よりより方向へと誰もが望めば、結果はよりよくなりますし、逆もまた、しかりです。それは、戦後の経済復興という形で特に日本人は具現化してきました。しかし、豊かになったことによって、悪い考えの人も増えてきたのは事実です。様々な事件もまた、そうした考えを具現化した結果に過ぎません。

誰もが心に平安を持ち、幸せに暮らせる世界は、それを誰もが心から望んでいれば、必ず実現します。

競争の先にあるものは…

  • Posted by: マルコ式
  • 2008年5月28日 10:18
  • 詭弁論考

競争の先にあるもの。それは、「敗北」です。これは、競争をし続ける限り必ずそこに行きつきます。

そもそも、勝つか負けるかでしか判断できないわけですから、敗北が起こる確率は半分あるわけです。ただ、その確率を減らす努力をしているから、勝っていられるだけの話であって、負ける確率を0にすることはできません。

100回後か1000回後かはわかりませんが、いずれは負けるのです。常に勝ち続けられる人はいません。自分は勝ち組だという人に限って、恐ろしいほどの転落をします。これもまた真実です。

平家物語の冒頭には、「おごれる人も久しからず…」というくだりがあります。

まさに、このくだりが指し示すとおりです。時代を制した平家も敵対していた源氏に敗れ、歴史の表舞台から消えました。その後、平家は一切歴史には出てきません。しかし、その源氏も、繁栄は一時だけだったのです。

競争がもたらしもの、それはいったい何なのか?勝つことに何の意味があるのか?

そうした哲学的なことを考え始めると、競争自体が自己満足以外のなにものでもないことに気がつきます。

競争こそは、人間の人間たらしめる最も本能的部分なのです。

そもそも、競争意識は人間の自己優位性に起因しています。「あの人よりも優位に立ちたい」そんな気持ちが、競争意識を芽生えさせそして、人を競争へと駆り立てるのです。

他者への競争意識は、エゴでしかありません。そんなものに一喜一憂していても、諸行無常なだけなのです。

しかし、自分自身への競争意識は克己へとつながります。「己に勝てば百戦百勝」という言葉もあるように、自分自身に勝つことが本当の意味での勝つことなのです。

逆の言い方をすれば、己に敵を見出していること自体、他者とは競争していないのです。

「負けるが勝ち」とは、そもそも戦い自体を放棄していますが、これもまた、競争の先が見えているからこそ、そもそもはじめから戦わないということです。

われわれ現代人は、仕事の上で常に何かと競争させられていたり、自ら競争しています。しかし、そうしたことの先にあるもはいったい何なのか?それをもう一度考えてみてください。

そこから、競争のない素晴らしい世界が見えてくるはずです。

群衆の叡智

先ごろ、「群衆の叡智」をテーマに、企業や開発者研究者などが集って討論する「群衆の叡智サミット(WOSC) 2008 Spring」が5月21日、開催されました。

2回目になる今回は、『群衆の意見は専門家より正しいのか?』という結論を導くために様々な議論がなされたようです。

詳しくはCNET JAPAN

私の場合、群衆というとD・リースマンの「孤独な群衆」を連想してしまうわけですが、その中にある「他人指向型」というものがまさに現在の状況をうまく説明していると思います。

そして、群衆の叡智というものも、この「他人指向型」の性格のよるものなのではないだろうかと思うわけです。(ここで、孤独な群衆について詳しく説明してしまうと、かなり膨大なレポートになってしまうので、まずは書籍を読んでみて下さい)

他人指向型の人は、常に他者とのかかわりを気にしているため、他者との関係が良いか、悪いかが、彼らの行動の基準になります。

インターネットは常に他者とのかかわりを気にしなければならない状況を生み出しています。それが、良い方向に働けば、叡智として人々にとって有益なものになるのですが、悪い方向に陥った場合、衆愚を生み出しかねません。

 

…そういえば、こんなことを、大学でやったなぁ~などと、ふと思いだしてしまいました。

オブジェクト思考?

オブジェクト指向といえば、何か難しい話なのでは…?と思わず距離を置きたくなってしまいますが、それほど考え込むようなことでもないのです。

あまり興味のない人にとって見れば、こんな話は何にも役に立たないかもしれませんが、一つの考え方として覚えておくことにこしたことはありません。意外とプログラミング以外の仕事で役に立つ場面があるかもしれません。

もう5年以上も前の話になりますが、プログラミングをかじっていたとき、このオブジェクト指向というものに出会いました。初めて、「オブジェクト指向」という名称を聞いた時、新しいプログラミング言語のことだと思ったのも今では懐かしいです。(あながち間違いではありませんが)

そもそも、オブジェクト指向なんなのか?ということですが、これは、システム開発を楽にするための技術です。もっと具体的に言うと、昔、書いたプログラムを再利用できるのです。

まったく同じ要件であれば、システムそのまま再利用してしまえばいいのですが、クライアントによって要件は千差万別で、すべての要件を満たした上で、まったく同じシステムをほしがる会社はありません。同じ業種だとしてもその会社ごとにやり方や考え方が異なります。経営理念が同じ会社だとしても、そこにいる人たちの指向性が違えば、おのずと要件も変わってくるのですから。

オブジェクト指向についての詳しい説明は、「オブジェクト指向」でググってもらえばいくらでも出てくるので、ここでは省きます。

今回、タイトルにわざわざ「オブジェクト思考」と銘打ったのは、この考え方が、一般の業務でもかなり役に立つ考え方だからです。

オブジェクト指向で開発を進めるときにまずはじめにやることは、業務分析です。今行っている業務を基本的な動作にまで落とし込んで、考えていきます。

たとえば、おいしいご飯を炊ける炊飯ジャーの制御システムを作るとします。

おいしいご飯の炊き方は、「はじめチョロチョロ、中パッパ、赤子泣いてもふた取るな」という原則が存在しており、その原則に従って考えてみると、

  1. 弱火で加熱する(はじめチョロチョロ)
  2. 強火で加熱する(中パッパ)
  3. 蒸らす(赤子泣いてもふた取るな)

といった一連の動作が見えてきます。電子炊飯器などといった便利なものがなかった時代、みんなカマドでご飯を炊いていたんです。

今の電子炊飯器には、この原則が組み込まれているわけですが、これも「ご飯をおいしくたく」という一連の動作を分析した結果、プログラムが書けるようになるわけです。

ここからもわかるように、業務分析のポイントは、全体を把握してから部分を切り出していくところにあります。プロセスだけを把握するわけです。

プログラムの分野だけに限らず、この手法は、さまざまなところで応用が利ききます。

たとえば、おいしい料理とまずい料理の違いを見るときや、儲かる会社と儲からない会社の違いを見るとき、成功する人と失敗する人の違いや、モテるひととモテない人の違いなどなど…人が行ういかなることも、プロセスを見ていくと、たいていのことは分かってしまうものです。

結果が芳しくない時、必ずプロセスのどこかに問題が潜んでいることは明らかですが、それをうまく把握するためには、こうした分析手法はとても役に立ちます。逆に、良好な結果のプロセスを分析し、クラス化しておけば、似たような結果が求められるケースの場合にそのクラスをそのまま再利用できるわけです。

たとえば、先ほどの電子炊飯器の例を使って、今度は、パンを焼いてみます。

  1. パン生地を炊飯器に入れる
  2. 常温で1次発酵させる
  3. 温めて2次発酵(“蒸らす”を再利用)
  4. 取り出しガスを抜く
  5. パン生地を炊飯器に入れ焼く(“強火で加熱する”を再利用)

だいたいこんな感じでしょうか、さっきご飯を炊くときに使った部分が2つも再利用できました。

ちなみに、電子炊飯器でパンを焼く方法については、以前テレビでも紹介していましたので、本気でパンを焼きたい人はググってください。

同じように、ケーキも焼けますし、カステラだって作れます。結果は違いますが、プロセスは部分的に再利用可能なところがいくつもあります。

こういう思考法を持っていると、答えを導くまでのスピードが全然違います。特に、求められる答えが人によって違うようなケース(コンサルティングなど)の場合は、恐ろしく力を発揮します。

システム開発だけに使っているのはもったいないぐらいすばらしい概念なので、これこそ、ほかの分野で再利用すべきだということです。

No Needs, No Sales

営業という仕事は、断られるのが一つの仕事のようなものだと誰かが言っていましたが、まさに、その通りだと思います。

何回断られたのか?それが重要です。たいてい100件ぐらい断れれると開き直ってしまうものですが・・・。逆に、開き直るぐらいじゃないとこの仕事は続きませんが。

ただ単に、「断られた」ということだけに注目してしまうと、実は何にもなりません。なぜ断られたのかをすべて考えていくと、お客さんが本当に必要としているものが何なのかというところが次第に見えていきます。

私が、前の会社にいたときに新人にまずやらせたのは、電話帳のリストと電話のかけ方のマニュアルをわたし、ひたすら電話をかけさせることでした。それをだいたい1か月ぐらいやらせます。そうすることによって、電話に対する恐怖心をなくすばかりか、アポイントの取り方を体に覚えさせることができます。

ちなみに、電話営業で重要なのは、電話でクロージングするのではなく、アポイントを取ることのみに焦点を絞ることです。

また、今の会社に入社してはじめに行ったのは、企業リストの制作でした。そして、入社2日目からは、そのリストを持って飛び込みに行きました。

誰かにそれをしろと言われたわけではなく、自分から考え行動したのです。なぜなら、そうすることが最も最良の手段だと思ったからです。

飛び込みを行った理由は2つ。

  1. 移動にかかる時間(距離感)をつかむため
  2. どんなニーズがあるのか?

東京と違い、移動はすべて車になります。とすると、電車で移動する感覚では時間に間に合わない可能性もあります。特にアポイントを取って動くとなった場合に、時間感覚がないとうまくスケジュールも組めません。ですから、次の行動計画を策定する上で移動にかかる時間を測定しておく必要がありました。

次に、どんなところにニーズがあるのか?という部分です。それは、言って聞いてきたほうが早いです。こちらで思っていても、実際はそうでないということは多々あります。そうした思いこみを持つことも時には必要だと思いますが、それだけで行動していては、具体的な成果は上がりません。

そして、結果はどうだったか?

  1. 効率的に動けるスケジュールが組めるようになった
  2. 新商品を開発した

これによって、ようやく売上らしいものが見えてきました。

…とここまでだと、ふつうのサクセスストーリーで終わってしまいますが、実はここからが今日の本題です。

飛び込み営業と電話営業を2人で手分けして行っていましたが、それはそれは、実績の上がらないつらい日々でした。非効率ですし、断られることだって決して気持ちのいいものではありませんし。

このときはとにかく数をまわることだけに集中し、どんな小さな個人商店でも決裁権者と会えそうなところはだいたい回っています。かなりの数あたっていると、そのうち2,3件は運よく受注できたりもするのですが、それはラッキーだったと思うべきです。

断られるのに慣れてきたころに、断られ方にも何種類かあるということに気がつくようになります。それを分類していくと、以下のような形になります。

  1. 話を聞くだけの時間(余裕)がない
  2. 人見知りであまり人と話したがらない
  3. まったく興味がない

ざっくりと分類すると、こんな感じです。

1と2は実はかなり見込みがありますが、3は見込みがありません。そこに対して時間を使ってはいけないのです。これこそが、No Needs, No Salesの原則です。 「需要のないところに販売なし」というのがこの発想です。

「晴れた日に、傘を買ってくれと言ってもだれも買わないが、雨の日に傘を買ってくれと言えば、瞬く間に売り切れてしまう」

こういうと、もっとわかりやすいですが、意外とこれが見えていない人が多いのです。押し売りになってしまっていませんか?

ついでに1と2についても解説します。もともと、飛び込みで行っているわけですから、忙しいのは想定内です。しかし、「今日は時間がないから」と言われたらしめたものです。

「突然おじゃまして、申し訳ございません。また日を改めますので、いつ頃ですとご都合がよいでしょうか?」

と聞けるのです。そこで、もう来なくていいよ。と言われれば、もう行かないだけですし、アポイントが取れれば、かなり受注に大きく近づきます。

2つ目については、たいてい初めて会う人に対する対応というのは、そんなものです。しかも、飛び込みなわけですから、普段から訓練していない人ですと、まずは対応に困ります。接客業のお店は、飛び込みの人に対しても基本的にいい対応をしてくれます。なぜなら、飛び込みで来た人であろうと、そのお店にとってのお客様になる可能性はかなり高いわけですから。(しかもそれを理解しているお店は、繁盛しているんです…当たり前ですが)

営業でまずやるべきことは、ニーズの把握です。

そもそもニーズのないところに一生懸命セールスを行っている人が大勢いる、という事実に気づいている人は少ないです。

何をどこに売るのか?というのは、あまり重要ではなく、ニーズがあるのかどうかが最も重要です。

ニーズある所にセールスがあり、セールは市場を生みます。

意外と発想として多いのは、誰にどんな商品を売るのか?ということです。しかし、それもニーズがあることが大前提なわけです。しかし、その前提が不確かなままにマーケティングや商品開発を進めてしまうと、まったく売れないわけです。だって、そもそもそこにニーズはなかったんですから。

ニーズの見えないままに進めていったとしても、後で必ずニーズの洗い出しをしなければなりません。そんなことだったらははじめから行っていたほうが、効率的なのです。

それに、後から…あとから…と思って先延ばししてしまうと、結局後になってもやることはありません。原因としては時間的な問題と、気持ち的(モチベーション)な問題です。
はじめのうちは時間もありますし、仕事に対するモチベーションも高いですが、それらは仕事を続けていくうちにどんどん削られていくのです。そうならないうちにも先にやっておくことをお勧めするのです。

ニーズはどこにあるのか?

昔、「チーズはどこへ消えた」という本がベストセラーになりましたが、考え方はそれに似ているかもしれませんね。

紙の上で考える

情報を整理するとき、自分の頭の中で考えるとうまく整理されません。

自分の頭の中で考えられるのは、アイディアだけです。ただし、アイディアというものは、頭のなかにあるうちはとても良い物のように感じますが、一度外に出した瞬間から陳腐化していきます。

アイディアを外に出すというのは、一般的に紙に書くことをさしますが、それはブログであってもいいわけですし、何らかの文章や箇条書きなどでもかまいません。

そうした作業を経てもなお、陳腐化しないアイディアこそが、本当のアイディアなのです。

どんな仕事でも、知的生産を行う場合においては、常に良質なアイディアを求められます。そしてそれに応えられなければ報酬は得られません。

紙に書くことが良いアイディを作る上で最も良い方法であることは、さまざまな書籍で述べられている通りですが、それを実践している人はあまりいません。自分の頭の中だけで終わってしまうのです。

アイディアは、例えるならシャボン玉の泡のようなものです。

シャボン玉の泡は、すぐに消えてしまいますが、それを残す方法があります。その方法とは、写真を撮ることです。

もっとも単純で簡単な方法ですが、シャボン玉をそのまま残しておくにはどうしたらいいですか?という質問をすると、いろんな答えが返ってくるでしょう。それが考え方になるわけですが、その考え方自体も、豊富なアイディアの副産物であるのです。

アイディアを紙に書くこと自体は、シャボン玉を写真で撮っておくことと似ています。実際にシャボン玉を写真に撮ってみてください。携帯の写メでも十分です。写真の良しあしは画素数の問題もありますが、それよりも光の加減やタイミングです。ですから、素人でも100枚ぐらい撮れば、その中から1枚か2枚ぐらいはいいと思われる写真が見つかるはずです。

それを、アイディアで試してみるとどうなるでしょうか?

100個のアイディアを生むのには相当な時間がかかりますが、20個ぐらいであればどうでしょうか。1日20個のアイディアを考えてみると、1か月で約600個のアイディアになり、1年では7,200個、それを3年続ければ21,600個のアイディアが生まれる計算になります。

21,600個ものアイディアを整理していく時、どうやって整理しましょうか?

紙に書いておかなければ、うまく整理はできないでしょう。

どんな天才でも、どんなに記憶力がよくても頭の中でそれをしようとしてもそれはできないはずです。なぜなら、人間は忘れるように脳の構造ができているからです。

忘れてしまわなければ、次の情報が処理できません。そのあたりがパソコンの処理と似ています。

情報を整理するときも、紙の上で整理していくことは必要です。

紙に書くことの良さは、人に見てもらえるということです。人に見てもらうことによって、その人との認識を合わせていきます。でないと、後になって「そうは思っていなかった…」などという事態に陥るのです。

もっともシンプルなことですが、これがなかなかできません。

しかし、これが最も大切なことはみんな知っているはずです。

マルコ式就活必勝法

4月と言えば、新学期、新年度といった期の変わり目。会社では新入社員の入社式などが執り行われているかと思います。

特に新卒の人たちにとっては、就職活動を経て初めて入る会社となるわけですから、期待や不安もあることでしょう。

私が就職活動を行っていた時は、ちょうど就職氷河期のまっただ中で、就職率が最も低かった年でした。その数年前から就職が非常に厳しい状況で、20社、30社受けても内定は一切もらえないという人もざらにいましたし、すでに就職自体を放棄してしまう人もいました。最悪のケースになると自殺というところまであったぐらいです。(この失われた10年の間にニートやフリーターは増産していったわけですね)

そうした状況のなか、企業の採用のあり方にも問題があるのではないだろうか?と思いつつ、自分と同じ状況にある人たちの手助けをしたいという想いから人材系の会社に就職したのです。(インターンシップをしていたところにそのまま流れで入ったような感じですが)

現在はインターネットの仕事に従事していますが、やはりこの時期になると、どうしても就職活動についていろいろと思いだしてしまいます。

自分のやりたい仕事が明確だと、それに向かって突き進むだけなので案外わかりやすいですが、意外と自分のやりたいことは分からないものです。まずはここからスタートしなければなりません。

実際、私も本当にやりたい仕事を見つけるのに仕事をして3年かかり、そしてそれができるようになるまでやはり3年かかっています。

自分の場合は、大学4年生のときにはある程度自分のやりたいことは見つかっていました。それは、今しているインターネットにかかわる仕事です。具体的にはホームページの制作やWEBマーケティングの提案などがそうです。でも、はじめのうちはシステム開発をしたかったというのものありますが。。。

はじめは別の仕事に従事していましたが、自分の強みはどこでもインターネットやIT関連です。人材の仕事をしていた時も、SEやPG、PMなどといった人たちの紹介を中心に行っていましたし、社内のネットワークの設計・管理と管理システムの開発なども行った記憶があります。(現在は、外注でしょうけれど)

もちろん、人材の面接も積極的に行っていました。もともと、人と話をするのが好きですし、初対面の人とでもすぐに打ち解けられる性格なので。

人材業というと、今では一大マーケットが存在しており、斡旋企業を介在せずに採用を行うのは困難とまで言われるぐらいです。広告主体のビジネスモデルから、実際の紹介までを行う企業まで様々ですが、私は後者に携わっていました。

人材を紹介する上で、最も気を使うのがマッチング(面談)のときです。このときばかりは、自分を売り込むことはできませんし、互いのやり取りを黙って見ているしかありません。営業で仕事を取ってくるほうがよっぽど楽だと思わされる瞬間でもあります。

面接前に必ず3つの約束というものを教えていました。これは、上司に教わった話ですが、面接で注意すべきことが3つあるのです。

  1. 明るく元気にあいさつをする
  2. 質問に対する受け答えは常にポジティブにハキハキと
    (わからないことは分からないと答える)
  3. 笑顔を忘れない

これだけ押さえておけば、たいてい面接では通ります。

面接で会ってくれるまでには、履歴書やアピールポイントなどをあらかじめ先方にお話ししているわけですから、面接での印象がよければ基本的には採用されるわけす。

とすると、面接まで行くための過程である履歴書やアピールポイントの作り方が重要になってくるのですが、これも実はやり方があります。

この方法は、SWOT分析と優先順位、目標設定の練習によってできるようになります。当時作ったフォーマットがあるので、ほしい人はそれを見て実際に行ってください。

Self Check Sheet.pdf

これを3回ぐらい行うことによって、具体的な方向性やビジョンが明確になり、自分探しに行こうかどうしようか迷っていた人でも自分を簡単に見つけることができます。

このシートには3つのメリットがあります。

  1. 書きながら考えることができる
  2. 目標や目的、やりたいことが明確になる
  3. 80%以上成功する

実は、このシートを書き続けること自体が目標達成につながる作業なのです。

まず、第1の「書きながら考える」というのは、効率よく頭を使うのに適した手法です。ある程度は、先に考えておく必要もありますが、書くことによって、具体的に自分の考えはまとまりやすくなります。私が長年ブログを書いているのも、この手法が最も最良だと思っているからです。

また、書いておくことによって後で確認ができるところも大きいでしょう。

2つ目の「目標や目的、やりたいことが明確になる」ということも、結局は書くことによって導き出される必然的答えなのです。もう一つ付け加えるのならば、この自己分析シートはマーケティングメソッドを応用しているため、分析するには最も適した形になっています。

問題は、現状が見えてくれば50%は解決しています。それは、どんな問題でも同じですし、コンサルタントがまず行うことはこの現状把握なのです。

3つ目は、結果です。このシートがいいと思って続ける人の8割は、成功します。というのは、目標を立ててそこに向かっていく過程こそが成功ですから、このシートを書き続け、そこに向かって動き始めれば自然と結果はついてきます。ただそれだけのことです。

たいていの人は、書くことによって頭が整理され行動に移れるようになりますが、2割の人は書いて終わりです。書くだけの人は必ず2割存在しますので、結局8割の人しか成功しません。

前職では、学生にこのシートの使い方をレクチャーし、コーチングまで行っていましたが、そこまでやれば間違いなく成長していきます。ただ、問題は開発した人しか正しい使い方を知らないということでしょうか。結局はレクチャーやコーチングまでを体系化まではしませんでした。結局、ノウハウを自分だけのものにしたかったのかもしれません。

今となってはバカバカしい話ですが、その当時は、ノウハウは他人に教えるべきではないという考え方を持っていました。まだまだ若かったんです。そして、気持ちも小さかったわけです。

レクチャーやコーチングの手法については、ここでは書けませんがいずれまとめて書いていこうと思います。

最後に結論として、企業側がどんな人材を求めているのか?それがわかれば基本的にどこでも採用は可能でしょう。

企業は利益を追求することが存在意義であり、それこそが目的であるとするならば、儲けられる人がほしいですよね。

10年という歳月

10年という歳月の中で、とてもいろんなことを学んできたようにも思います。10年前に書いた日記を読み返すことによって、それがはっきりと認識できるのです。

目標は紙に書いておくと達成するという成功哲学を知らない時分から、書き始めたものの中には、すでに達成したものもいくつかありました。

ひとつは、大学受験。

ちょうど、その時の目標はそこに集約されていたようにも思います。順調ではなかったにしろ、念願かなって大学に入学し、卒業を迎え、今ではそんなことを振り返ることもなく生活しています。

目標を達成することは、このとき学んだような気がします。

大学入学後は、起業家を目指していました。ただ、その時はまだ自身もなく、知識も不十分でまずは勉強をしようと近い、さまざまなビジネス書を読みあさり、成功哲学についても多くの書籍を読みました。

たぶん、その時々で独立するチャンスはいくつかあったように思いますが、不安が先立って結局何もせずにいたのです。

確か2000年ごろだったかと思いますが、楽天の三木谷社長がNHKの取材を受けた番組を見たことがあります。その時はまだ、楽天を今から立ち上げるという準備段階でしたが、それを見ながら、これからはインターネットの時代だと確信しました。

そこから、パソコンを購入し、当時はまだISDNすら新しい時代にインターネットを始めたのでした。それ以降、詭弁論考というテーマもあいまいな随筆を続けてきたのです。

しかし、それ以前は何も書いていなかったのかというと、そうではありませんでした。

実はつい最近までそのことに気がついていなかっただけです。先日、10年前の日記を手にとって見たとき、まさに自分の青春がそこに記されているように感じたのです。だから、内容も青臭いものばかりです。でも、今も多くの青春を謳歌している人たちがいるわけですし、そんな人たちの助けになればと思い、掲載可能なものだけを抜粋していきます。

カテゴリは、手記と題しました。

20歳前後のときは、将来に対する不安と闘いながら、それでも一生懸命に頑張ろうとしている姿がありました。それは、今の人たちもあまり変わっていないかもしれません。

書くこと

  • Posted by: マルコ式
  • 2008年3月 4日 14:04
  • 詭弁論考

勝間和代さんの本を2冊ばかり読み、そういえば、あそこに書いてあった本って、結構読んでるものもあるよなぁ?と思って、本棚を整理していた時に、題名のない一冊の本が出てきました。

それは、高校卒業をまじかに控えた時期から20歳までに書いていた日記でした。

18歳のころいったい何を考え、どんなことを思っていたのだろうか?

かなり興味がわき、改めて読んでみることにしました。

初めの日付は1997.9.26

およそ10年以上前に初めて書いた文章です。

1ページにもみたないないように少しがく然としましたが、「書く」ことに対する決意のようなものが記されていました。

まず最初に日記を書くにあたって、考えなければならいことがあるだろう。

日記というものがどのようなものなのか、それが書き始めるに当たり最も大切なのことではないだろうか?

日記というものは、後になって読み返すことに意義があり、それが本来の趣旨であると考える。

何年かのちの自分に向けての手紙なのだ。

何年かのちの自分に思いをよせて。

かなり堅苦しい始まりは、やはり何年たっても変わらないものだと思います。

それと同時に、日記に対しての定義付けから始めるあたりが、まさしく自分自身が書いたものだと確信できました。

最後の日付は200.5.3となっていました。

ということは、それ以降はインターネット移行したという経緯も見えてきました。

自分のことなのですが、すっかり忘れてしまっており、「あぁ、そういえばそんな感じだったかも?」という程度で、あまり実感はありません。

いまにもまして、難しいことこの上ない内容はもちろんのこと、予備知識がなければ決して読み進めることすらままならない、かなり不親切な構成は若気の至りなのでしょうか。

「20歳前後の頃、よくそんなことを考えていたよな。でもそれは、考えすぎだって!」

と言ってあげたくなるようなことばかりを書いていました。

将来に対する不安や、恋愛はもちろんですが、かなり純粋に社会を見つめていたということです。

もしかすると、誰もがそれぐらいの次期にそうしたことを考えていたようにも感じます。

せっかくなので、ポイントを絞っていくつかこのブログでアップしていこうかと思います。(かなりプライベートなことなので公表できるものとそうでないものとがあります)

いまもまだまだ、稚拙な文章であることには変わりありませんが、10年も書いているわけですから、少しはましな文章を書けるようになったと思いたいですね。

一人当たりの自己資本額1億円。

今日は、アーバンベネフィット株式会社の取締役会長・木村勝男氏の講演を聞いてきました。
内容は、BS経営についてのお話でしたが、これは、木村氏が長年の経験から培ったノウハウの結晶のようなもので、実体験をベースとしたかなり貴重なお話でした。

そもそもBSとは何ぞや?という話ですが、これは、Balance sheet(バランスシート)の略で、貸借対照表といいます。正式な略はB/Sなのですが、あえて木村氏はBS経営としています。

貸借対照表は損益計算書(PL)と並んで、会社の決算書のことです。貸借対照表は、企業のある一定時点における資産負債純資産の状態を表すために複式簿記と呼ばれる手法により損益計算書などと同時に作成され、その企業の株主債権者などに経営状態に関する情報を提供するためのものです。

なぜ、それがバランスシートと呼ばれるのかというと、左右の合計数字がイコールになり、常にバランスがとられている状態で表記されるため、そう呼ばれています。

貸借対照表の項目の詳しい項目については、Wikipediaにありますのでそちらをご覧ください。

木村氏は、バブル崩壊で230億の負債を抱え、そこから現在経常利益10億の企業を作り上げた経営者です。実際、お会いしてみて話を聞いて、凄味を感じました。そんな木村氏はすでに68歳。世代交代もすでに終えており、現在の社長で3人目です。

なぜ、バランスシートが重要なのか?それは、230億の負債を抱えた原因と正面から向き合った時初めて見えてきたといいます。
それまでは、損益計算書を重視し、どれくらい節税できるか?とか、どれくらい売上が上がったか?とか、従業員数はどれくらいか?支店の数は?営業車の台数は?などといった部分を追いかけていたそうです。高度成長期時代はそれがすべてだったわけですが、バブルの崩壊とともに、そうした価値観も一緒に崩壊してしまったわけです。
そして、多額の借金を背負った時、はじめのうちは、ほかに責任があると考えていたといいます。しかし、ある出会いをきっかけにして自分の責任だったということを認識し、「強くてよい会社」という新しい価値観のもと、現在のアーバンベネフィットを作り上げていったということでした。

ちなみに、従業員数は20名だそうです。そして、一人当たりの自己資本額は1億円。
この自己資本額というのは、会社が自由に使えるお金、いわゆる貯金です。

会社の貯金を増やしていくには、経常利益からの毎年の積立によってのみ行えます。出ていくお金からはいくら積み立て用としてもそれは無理な話。会社としての利益を出して初めて会社の貯金は増やしていけるわけです。

自己資本以外にも他人資本というものがありますが、これはいずれ返さなければならないお金なので、借金です。
無借金経営というものもありますが、木村氏は、借金にはいい借金と悪い借金があるとも言っていました。必ずしも借金をしないということが決していいわけではないと。
しかし、借金してビジネスをしていくのであれば、自己資本比率を最低20%にしておかなければならないということです。ですから、仮に20億の自己資本額だとすれば、必要であれば80億を調達して100億までだったらOKということです。
もちろん、それ以上の利益を出さなければならないわけですが・・・。

ここまでの話だけだと、へぇ~すごいなぁ~。で終わってしまいます。
ここからが、私なりの考えの話です。

木村氏の話を聞いたとたん、学生時代に愛読書だったロバート・キヨサキの「金持ち父さん、貧乏父さん」がすぐに頭に浮かびました。そして、これはキャッシュフロー経営のことを指しているのだとわかりました。言い方は違えど、考え方は一緒です。

資本を増やして、その資本をもとに新たに投資し、そして資本を増やし続ける仕組みを作ることが重要だということなのです。
入ってくるお金が資産ではなく、手元に残ったお金が資産なのです。ここが、キャッシュフローのポイントだと私は認識しています。どれだけの自由に使えるお金を手元に残せるのか?

そのためには、入ってくるお金よりも出ていくお金について注意しなければならないです。それは、投資なのか?消費なのか?
後で数倍になって戻ってくるものは投資で、刹那的な出費はすべて消費です。投資をしているとよく耳にするのが、ROAやROEといった指標です。投資家はこれをもとに投資効率を考えます。木村氏もこのROAやROEといった指標がBS経営では重要だと話をしていました。
ちなみに、アメリカ企業の多くはROEが10%以上というのは当たり前。しかし、日本においては、5%以下にとどまっているのが現状だといわれています。
実際投資するなら、ROEが10%以上ないと、リターンはないと考えたほうがいいです。
それは、決して株主だからというわけではなく、そこで働く従業員に対しても同じことなのです。「働けど、働けど、暮らしは一向に楽にはならず。」というのは、この比率が低いことも要因の一つだと考えたほうがいいです。

そうすると、木村氏の言っているBS経営がいかに重要なのか?ということがわかってくると思います。従業員一人当たりの自己資本額1億あれば、年収を一人当たり1000万円払っても10%なのですから、当然、従業員の給与は高くなります。
そうした会社には、優秀な人材が入ってきます。もちろん、はじめはお金という部分もあるでしょうが、そこに理念が加わると、より一層強い会社になると木村氏はまとめていました。

個人としての社会的責任

CSRについては、今の社会状況から発したものだとだれもが理解できるかと思います。そして、今後、企業として取るべき方向性というのも見えてきました。

それは、企業は永続して、自社の商品やサービスを提供し続けることこそが、社会に対する責任だということです。

しかし、忘れてならないのは、企業といってもそれは人が作り出したものであり、企業そのものが人であるということです。

企業に対する責任を考えるとき、そこで働く人たちの責任はどうなるのか?

いまはまだそこまでの議論はあまりなされていないように思いますが、根本的なところとしては、この部分は避けては通れないのではないでしょうか。

それでは、個人としての社会的責任とはなにか?

企業の社会的責任は永続して自社の商品やサービスを提供し続けることと位置付けるならば、個人の社会的責任は、永続して、幸福を享受することなのだと思います。

特に、日本においては憲法の中で、日本に住むすべての国民が幸福に生活することをうたっています。

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

All of the people shall be respected as individuals. Their right to life, liberty, and the pursuit of happiness shall, to the extent that it does not interfere with the public welfare, be the supreme consideration in legislation and in other governmental affairs.

憲法第13条の条文ですが、ここで出てくる「自由及び幸福追求に対する国民の権利」については、幸福追求権ともいわれ、1960年代以降の経済社会の変容は新たな権利を求めるようになり、また学説も次第に13条に具体的権利性を認める説が主流となってきました。しかし、「人権のインフレ化」という現象が懸念されることもあります。

我々日本人が享受すべき権利を主張する時、必ずそこには、社会的責任が存在します。もし、その社会的責任を果たさなければ、権利を主張べきではありません。

では、個人の社会的責任を実行するためには何を行えばよいのでしょうか?

 基本的にはCSRと同じ事です。

  • 法令遵守
  • 社会貢献
  • 情報公開

ただし、個人の場合、最後の情報公開という部分については議論の余地はあります。プライバシーが尊重される現代において、どんな形でどういった情報公開がなされるべきか?そもそも、この部分は必要なのか?といった意見はこれから出てくるでしょう。

しかし、法令遵守と社会貢献については、むしろ当たり前のこと過ぎていまさら...と思われるかもしれませんが、完全に法律を守っている人がどれだけいるでしょうか?

法令遵守については多少許容したとしても、社会貢献はほとんどの個人は行っていないと思います。たとえば、ボランティア活動。または、地域活動への積極的参加。そうしたことが必要とされているにもかかわらず、行動を起こさないのは、個人としての社会的責任を果たしていないことにもつながると思います。

世の中が乱れる原因には、こうした責任を放棄したからだと思います。

ただ、救いなのは企業がそうした活動を積極的に行い始めたということです。いい会社に所属している人であれば、自然とそうした発想や価値観は身に付くものですし、そうした価値観を持たなければ、今後いい会社に就職はできなくなってくるでしょう。

個人が、伴うべき社会的責任をどこで果たすかというのはそれぞれの自由だとは思いますが、少なくともそうした活動が行えるところにいたいものです。

CSR

企業の社会的責任(きぎょうのしゃかいてきせきにん CSR: Corporate Social Responsibility)は、持続可能な社会を目指すためには、行政、民間、非営利団体のみならず、企業も経済だけでなく社会や環境などの要素にも責任を持つべきであるという考えのもとに成立した概念である。
最近、よく聞く言葉ですなので、ご存知の方もいらっしゃることだと思います。日経新聞を読んでいる方などは、たまに目にかけるかもしれません。

なぜ、それほどまでに企業の社会的責任が重視されるようになったのか?いまさらそれを説明せずとも、毎日のニュースを見ていれば、よくわかるはずです。

CSRにもアメリカ、ヨーロッパ、日本でそれぞれ考え方が若干違うようです。何を重視するのか?それは風土や価値観の違いなのかもしれません。

日本においては、CSRに対する取り組みは諸外国に比べても早く、1970年代から企業の社会的責任ということばが使われていたことが知られている。しかしながら、一般に日本企業がCSRに期待するものは、「企業の持続的発展」 であり、そのため、しばしば企業の社会的責任は企業の社会的貢献や企業イメージの向上を図る諸活動のように考えられ、このため企業収益を実現した後の活動 として理解されることが多かった。実際、企業活動における利益実現が主の目標でCSRは従と考えている企業経営者はいまだ多く、利益幅の小さな企業におけ るCSRの活動の取り組みはあまり進んでいない[5][6]。 近年特に企業不祥事とそれに対する企業統治の実現や法令順守の問題の文脈でCSRが語られることが多く、こうした状況は前述の東欧諸国などの企業の状況と相通じるものがある[4][5]。 経済団体などではCSRの普及に努めており、一定の成果をみせているものの[7][1] 特に日本の企業において圧倒的に多い中小企業の意識の変化には時間がかかると思われる。なお、調和を尊ぶ日本社会においてCSRは経験的に会得されたり、実践されているという主張もあり、そのような主張では江戸時代の学者石田梅岩の記述や、三井家住友家などの江戸時代の商人に代々引き継がれた家訓などを引いて日本の伝統的企業経営とCSRは矛盾しないとされている。
日本には、古くから「皆様のおかげ様」という価値観がありました。それが、いつの間にか自己中心的な価値観が優先されるようになり、企業にもそんな価値観が蔓延してしまったことがまずかったように思います。

また、「まぁ、いいか・・・」という短絡的な決断が、事態を悪化させてしまいます。

日本は、マネジメントがへたくそだと海外では見られているようですが、確かに様々な不祥事を見る限り、そうした印象はぬぐえませんし、実際にそうなのでしょう。
たぶん、管理されるほうには慣れているのですが、管理する側には慣れないんでしょうね。敗戦国ですし。

企業の持続性は、商売の本懐だと思います。代々引き継がれるためには、続けるための仕組が必要ですし、続ける意思を持ち続けることも大切です。
誰かが、やめてしまえばそれまでですし、何らかの理由があってやめざるを得ないということもあるでしょう。
しかし、続けてきたものを止めるには、始める以上のパワーが必要です。一度始めたことは簡単にやめることはできなんです。本来。

ただ、バブル崩壊からこれまで数多くの企業が、何らかの理由で業務を続けられなくなっています。不景気のあおりを受けて大手企業が倒産という話はかなり懐かしいものとなってしまいました。
今は、どちらかというと不祥事がが原因で、業務が遂行できなくなってしまう企業のほうが多いような気がします。
業界最大手だから安泰という時代は、バブルと一緒にはじけてしまいました。今は、むしろ最大手ほど危険だったりします。そうした危機感からか、各業界の大手企業はこぞって、CSRに取り組んでいます。下記はその一部です。

もちろん、これは一部です。
もっと多くの企業がこうした取り組みをしています。

みんながやっているから、横並びで取り組むという何とも日本人らしい発想でやっている会社もあるかもしれませんが、そもそもなぜそれが求められているのかを真剣に考える必要はあるのだと思います。

危機感

どうやら、危機感と自己の成長は相関関係にあります。

外的環境の中でも特に、他人との接点がそれを生み出すような気がします。特に、年下か同年代で自分以上の立場にいる友人や知人などからの影響は、大きいと思います。

年上の人が自分が優れているのは、むしろ当たり前という発想が根本にあるからかもしれません。

ただ、どんな人にも必ず優れている点はありますし、それを見つけるのも自分自身の人間力だと思います。人間力とは、人に与える影響と人から受ける影響の両方がありますが、どちらの場合も、その人の感性が重要です。
他人からその人の良さを引き出すには、理屈ではないような気がします。
相手がどう感じるかによって、相手が何を私に対して出せるかと考えさせることによって、それは可能となります。

大学生の時、ある講義の中で「他人は自分を映す鏡である」という話がありました。それ以降、その言葉がえらく気に入り、自分自身を見つめなおすとき、他の人を通して自分を見るようにしています。
人それぞれ、私に対するとらえ方は違いますが、それはすべて自分自身であり、自分が知っている以上の自分がそこには存在します。

また、ある社長は、「自己の成長を、今かかわっている人たちではかる」と言っていました。どんな人たちとかかわっているかによって、自分自身の成長が分かるというのです。
たとえば、大企業の社長や政治家などとかかわっていれば、それだけ高みにいるという考え方です。

確かに、それはひとつの真実かもしれません。自分の内面特に人格を磨くことによって、より高い位置にいる人たちと同じ感性を持てるわけですから。むしろ、同じ感性を持っているからこそ、そうした人たちとかかわることができるのでしょう。

目標や目的を持っている人は、それらを持ち得ない人たちよりも危機感は高いと思います。なぜなら、そうした人たちは、今の自分に満足しておらず、常に目標に向かって前進しているからです。
それは、外的な要因よりも自分自身に対する内的な要因といえます。

しかし、重要なのは、危機感を持つことではなく、危機感を持ったときにいかに行動するかというところです。危機感だけを持ち続けることは、精神に多大な負荷をかけ、病んでしまいます。危機感には行動が伴わなければ、実質的な成長にはつながりません。

「このままではだめだ」と感じたとき、どうしますか?
1.どうすればよくなるかを考える
2.どうすればよくなるのかと悩む

一見同じようにみえますが、この2つは全く違った結果を生み出します。この2つの大きな違いは、取り組む姿勢です。
1.ポジティブな姿勢
2.ネガティブな姿勢

それは、行動する意思があるかどうかということによって分かれます。
1.行動する意思がある
2.行動する意思がない

これをまとめると以下のようになります。
1.どうすれば現状より良くなるのかを考えるときは次にすべきことが見えてくる。
2.どうすれば現状より良くなるのかと悩む時は次にすべきことが見えてこない。

何をすべきかが明確な時は、誰も悩みはしないわけです。

危機感を持つことが確かに大切ですが、自己が成長するかどうかについては、その後の行動にかかってくるというのが、最終的な結論です。

情報の栄養価

飽食の時代と呼ばれる昨今、肥満は以前より深刻さを増しているのは周知の事実です。
そうした背景もあり、健康食やダイエットについての情報は以前より重要視されるようになっています。

それと同じ状況が、情報の分野に置いてもおこっています。

それは、私を含め個人的に情報発信が容易になっている事に起因するのですが。


情報の取得が容易になった時代だからこそ、情報の質を重視すべきなのではないだろうかと感じます。
普段、私たちが触れる情報はとても多く存在し、多分一生かかっても処理しきれないでしょう。

活版印刷が生まれた時代から本という情報リソースは誰にでも容易に取得できるようになりました。また、それ以外のチラシやポスター、新聞や雑誌などの紙媒体は、より手軽に情報を得る手段としてもっと多くの人に利用されるようになっています。
そして、ラジオによってよりスピーディーに情報の伝達は可能となり、テレビに出現によって、その場の臨場感をより具体的に伝える事ができるようになったのです。 さらには、インターネットの出現で、それまでの情報量を遥かに超える情報の取得が可能になりました。
 2000年以降急速に拡大をし続けるインターネット上には、現在1億以上のサイトが存在していると言われています。多分、その数は10年後には10倍100年後には100倍になっているのではないでしょか。

そうした状況の中、私は、ある事に気がつきました。

自分にとって栄養価の高い情報とそうではない情報の2つがあることです。それは、時と場合によって異なりますが、必ず存在していて無意識のうちに取捨選択を行っているという事です。

1日24時間という制限された時間の中に置いて、膨大な情報を処理するには正直、時間が足りないような気もしますが、無意識のうちに自分の志向性や生活環境の中で、うまく情報を処理しているのです。

人間は唯一忘れる事ができる生き物だと言いますが、自分の志向性のあわないもの、仕事や普段の生活においてあまり必要としないものは情報を得たとしても忘れてしまい、自分にあった情報を得る事を可能にしています。

しかし、そうした過程を経る事で気づく事もあります。まさに、情報の栄養価というのはこの「気づき」だと言う事に気がついたのですが、様々な情報に触れる中で、自分に気づきをもたらしてくれるものは、質の高い情報なのではないでしょうか。

それは、一冊の本かもしれませんし、映画かもしれません。もしくは人から聞いた話という事も考えられますが、その情報を得る事によって、何か一つでも気づく事ができるのであれば、それはいずれ知恵として役に立ってきます。

今現段階で、どんな情報が自分にとって栄養価の高い情報なのかは定義できませんが、一つだけ言える事は、好き嫌いせずにいろんな情報を吸収する事が、より良い気づきを得られるということです。(これは私の経験論です)

体が健全である事は大変重要な事ですが、考え方や志向性が健全である事も、同じくらいに重要だと思います。

まずは、様々な情報を受けられる体制、言い換えるならば「素直」である事が何よりも大切なのかもしれません。

情報リソースの信頼性と影響力の関係についての考察

もうすでにこのタイトルを見ておなかいっぱいになってしまった方もいるかもしれませんが、興味をみった方だけ読み進めてください。

これを読まなかったから損するということは決してありません。知らなくても誰もが幸せに暮らせます。

前口上はこれぐらいにしておいて、本題に入ります。

すでにタイトルが物語っている通り、「情報リソースの信頼性と影響力の関係について」考えてみたわけです。 何もそんなことを考える必要もなかったのですが、お客さん先で話をしているときにピン閃いたのです。

似たような話はすでに誰かしているかもしれませんし、知っている人もいるかもしれませんが、 私なりに考えてみたことをまとめてみました。

その前に、「噂」についてお話しいたします。大学で情報社会学という講義の中でそんな話が出ていたことをぼんやりと覚えていますが、 「噂」というのは、どうやって伝わるのかは誰でも知っていると思います。

隣の奥さんや、クラスメイト、同僚などから伝わってくるものがいわゆる「噂」です。 伝達経路は多いようで実はそれほど多くはありません。自分が生活している中で、 かかわりをもつ人からしか伝わらないようになっているのが「噂」なのです。

ちなみに…

(うわさ) とは、その内容が事実であるかどうかを問わず、世間で言い交わされている話の事。類義語として飛語(蜚語)・ゴシップ・デマ・ 流言などがある。
(Wikipediaより)

噂の定義には大きく分けて4つあるようですが、その中で流言というものが一般的な噂と考えられます。ちなみに…

流言 (りゅうげん)とは、正確な知識や情報を得られず、明確な根拠も無いままに広まる噂のこと。風説、流説ともいう。 ある一部での話が連鎖的に広まり、それがやがて全体に広がっていく形態を取る。日本での流言の古い歴史は1600年ごろまでさかのぼる。 (Wikipediaより)

根拠はないが、連鎖的に広まるわけなので、そこには何らかのメカニズムが存在すると考えられます。

自分が生活している中で、かかわりをもつ人からしか伝わらないようになっている」 と前述したのは、そこにこそ情報伝達のポイントが潜んでいるのではないかと考えてのことです。

いきなり話は変わりますが、あなたの尊敬する人をイメージしてみて下さい。

いない場合、よく見る雑誌やWEBサイトなどでも結構です。

そこからの情報というものは割と信用していしまうのではないでしょうか?

たとえば私は、毎朝、日経新聞を読んでいますが、そこからの情報は信用していますし、多くの経営者も同じだと思います。

別にそこから得られる情報がすべて正しく、それ以外が間違っていると言っているわけでも、 日経新聞以外は信用しないというわけでもありません。

では、あなたの親が「志村けん死んだらしいよ」と言ったとするとあなたは信用しますか?仲のいい友達だったらどうでしょう?

実際、そうした形で「志村けん死亡説」 という噂は流れました。

よく知っている人からの話だと、人は簡単に信用してしまいます。それは、その情報リソースに何の根拠がなくてもです。

人間としてコミュニケーションがとれるようになった時から、情報伝達方法の基本は会話によるものです。 会話は人と人とがその場に居合わせればできる究極の情報伝達手段です。また、最も伝わりやすい手段でもあります。

私は、営業という仕事をしているため、さまざまな情報ツールを駆使してお客さんとコミュニケーションを図っていますが、 一番喜んでくれる伝達手法はやはり対面です。そして、私自身も対面によってのコミュニケーション手法が一番安心できます。もちろん、 信頼関係の構築されているお客さんに限りますが。。。

もし、信頼関係がないお客さんに訪問した場合、軽くあしらわれるか、一切取り合ってくれないはずです。嘘だと思うのであれば、 今すぐ見知らぬ土地で飛び込み営業をしてみるといいでしょう。(100件中1件か2件ぐらいは話を聞いてくれるかもしれませんが)

この話はよく営業研修やトップセールスマンの本やセミナーなどで話されている内容なのですが、結局、 情報の伝達も同じことなのだと思うのです。

信頼性の高いリソースであれば、誰もが信用し影響力も絶大でしょう。しかし、 信頼性の低いリソースは見る人はあまりいないかもしれません。

情報リソースは多様化を極め、取捨選択しなければ処理できない時代に来ています。それは、すべての人たちに当てはまりますし、 特に情報を発信する側にとっては大変な時代になってきています。より多くの人たちに情報を伝達したいのであれば、 より信用してもらうことが今後いっそう重要になってくるのではないでしょうか。

DEATH NOTE

ちょっと遅めですが、一時期話題になったDEATH NOTE(デスノート)を全部見てみました。

見るまでは、正直何が面白いのか?なぜ話題になったのか?わかりませんでしたが、見ているうちにどんどん話に引き込まれていく魅力は確かにありました。

見たものは、映画版とアニメ版の両方。

はじめにアニメ版を見てからその後映画版を見てみましたが、映画版は時間の関係で内容が変更されていることと、主人公のイメージが合っていない(太ってる?)いなかったのでちょっとがっかりしました。

すべて見終わって感じた事は、よくできた話だと言う事です。

デスノートを巡って繰り広げられる静的な戦いと言うのでしょうか。それまでの少年誌にはない一種独特な世界観と、殴り合いというそれまでのガチンコバトルから頭脳戦という新しい戦いを見せてくれました。

また、背景と人物設定もよくできていると思います。デスノートや死神という話をのぞけば、あり得ない話ではありません。

日本では青少年のよる犯罪が増えているという時代背景と、主人公の持つ一種病的な正義感は精神の発展途上にはよくある話です。

また、世界のバランスをとろうとする組織の存在。これは、こうしたオカルト話には必ずと言っていいほど出てくるフリーメーソンの存在をにおわせます。

天才的な二人が互いの知恵を絞ってやり取りする様は、その決断力の早さとスピード感もあって見ている人を引き込みます。
聡明さとは、その人の行動を左右するものだと言われていますが、行動を決定づけるのは決断力です。
どんなときも、いかなる場合にでも冷静になりその場にあった的確は何段ができる事。これが、聡明さを表現するには最適です。原作者はそうした事をふまえているかのように話を展開するため、見ている人には戦っている二人が互いに聡明である事を決定づけます。

もう一つ特質すべきは、群衆の心理を良く理解しているという事。群衆それ自体には明確な意志は存在しませんが、そこに第三者の意思が加わると世論を作り出したり、暴徒と化すのです。それを行える手段は、インターネットとマス・コミュミケーションです。その中でもインターネットは、状況を生み出しやすいメディアであり、この作品中でも、はじめにインターネットで話題になって、そこから火がついたような状況を生み出しています。
それは、実際に起こりうる事でもありとても自然に見ている側は受け取った事でしょう。

私が考える、良い作品とは、その作品を見てどれくらいの気づきを得られたかという事です。
ここまで書いてきた事を見てもわかるかと思いますが、デスノートはかなり良い作品である事は間違いありません。何より、時勢に合っている。

こうした時勢にあった作品は、後世にその時代の世界観を読み解く上でも重要な役割を示すわけですが、それは、我々が天寿を全うした後の話でしょう。


情報の価値

今日は、もったいぶらずに結論を一言で述べます。

「情報は明文化した時点で価値が半減する」のです。

これ以降の文章は、理由について延々と語っていくため、結論だけで十分な人は読まなくてかまいません。

いつも結論をもったいつけて、うんちくを延々と書き続けるマルコ式には珍しい文体で驚いた方もいるかもしれませんが、この事については、先に結論を持ってきた方が話として落としやすいと思ったのです。

なぜ、こんな事を思ったのか?それは自分でもわかりません。ふと、閃いたのです。
誰かとそんな話をしていた訳ではないのです。
いつもと同じようにブログを書いていたときに、思ったのです。

はじめに、情報とは何かという事を考えていました。
それは以前、情報について「情報を制するものは世界を制する」という事で書いています。

それを書いているときに、インターネットが普及して以降、情報の価値が著しく低下しているようにも思ったのです。情報が今以上に取得が容易でなかった時代には、ほんの些細な出来事ですら重要な情報だったと思います。
また、遠くはなれた人が、昨日、何をしていたかなどという事も知る由もなかった訳です。(別に今でも知る必要はありませんが、それが好きな人だったら話は別でしょう)

口頭伝承方式(口伝)による情報の伝達は、時として正確な情報を伝える事ができないため、多くの情報は明文化されることによって正確に後世まで伝える事ができるのです。

しかし、明文化をよしとせず、口伝のみだけの分野も存在します。それは、職人の世界に顕著に現れています。特に独自の技を持っている職人の多くは、明文化せず口伝のみでその技を後世に伝えているのです。
決して、明文化するのが面倒だからという理由ではありません。明文化をし、誰にでもできるようなると、価値がなくなってしまうからです。

私が、はじめに結論を持ってきたのはそうした理由もあったからです。
誰もがそれを知ってしまえば、私の考えについての価値は無いに等しいのです。コロンブスの卵が物語るように、知ってしまえば誰でもそれは容易な事だと認識するものなのです。

多くの高名な哲学者の書物が難解なのは、そんな理由もあるのかもしれません。
また、宗教の教義もしかり。難解にする事によって、代弁者の存在意義が成立します。もっと簡単で誰でも一言で理解できる教義だとすれば、代弁者はいりませんし、存在意義もありません。

私にとって、考えを巡らせている瞬間が最も価値のある時間なのかも知れません。そして、最も充実している時間だと私は感じます。それを、明文化していく作業は、既に終わった事に対する記録をとっているにすぎないのです。

しかし、明文化する事によってよい事もあります。情報の価値はなくなるかもしれませんが、それが良い情報であればあるほど、その情報を出した人の価値は高まるのです。

価値のある存在になりたければ、価値のある情報を出し続ける事です。

志向性とコミュニケーション

インターネットの中では、「誠実」である事が一つの秩序だと私は、考えます。特に、顔が見えない分、一般生活よりも誠実である事が望まれていると思います。
WEB2.0と言われるようになってから、それはよりいっそう重要性を増しています。
ブログやSNSなどでは、それが顕著です。

去年、一昨年ぐらいにトラックバックマーケティングについて研究した事がありましたが、多くのお礼のコメントと同じくらいの割合で、手厳しいコメントやメールまでもいただきました。その人たちにとっては、私の行為には誠意を感じかなった訳です。しかし、その行為について誠意を感じだ人は、わざわざブログの記事にしてくれたり、お礼のコメントをくれたりと、見知らぬ人同士でコミュニケーションが成立していたのです。

良かれと思った事であっても、受け手にとってみればそれは、単に嫌がらせにしか感じないという事は多々あります。しかも顔が見えない分、その気持ちは強くなるという危険性もあります。
この問題には「志向性」というものが大きく関与しています。
志向性が同じ人同士であれば、コミュニケーションが成立しますが、志向性が極端に異なる場合、そこにコミュニケーションは存在しません。

新しい秩序とは?

私は、大学生時代、社会学を専攻していました。
しかし、社会学とは何か?と問われても、今となってはうまく説明できません。
大学の勉強はそんなものです。

ただし、社会学は好きです。卒業してもう5年以上たちますが、今でもその気持ちは変わりません。社会学というよりも社会科学全般ですが。

大学を卒業したからといって、勉強をやめるつもりはありませんでした。大学院にも行ってみたいとは思ったのですが、それよりも、社会に出て社会経験を積む事が最も勉強になるのではないだろうか?と考えたのです。
そもそも、社会の勉強をするのに社会に出ずしていったい何を勉強するのでしょうか。(こんなことを言うと、いわゆる社会学者に失礼ですが)

仕事、特にビジネスに携わるようになって感じた事は、人が関わりを持つ場には必ずルール(秩序)が存在するのです。
もちろん、そんな事は、誰もが知っている訳ですが。

改めて、この秩序について考えてみると、インターネット(向こう側)でいったい何がおこっているのか?という事が容易に説明できるのです。

結論としては、インターネットは新しい秩序です。

この話自体も、今さら改めて言う事もありませんが。

しかし、この新しい秩序は、インターネットというインタラクティブなコミュニケーションツールによって、加速度的に進化しているという事は、まだあまり知られていないと思います。

人が集まる場所には、必ず秩序は存在します。秩序がない場合、自由そうに見えますが、その場にいる人たちは、不自由と感じるでしょう。
誰もが好き勝手な事を言って、勝手な事をしている状態を想像してみてください。

以前のインターネットでは、そうした状況も確かにありましたし、今もその傾向は多少残っています。
しかし、多くの利用者はその空間においてルールが存在することに気がついています。そのルールを破るとどうなるか?

いわゆる「炎上」という現象が起きます。

そのルールをバーチャル上に存在するものとして、切り離して考えてはいけません。なぜなら、インターネットを利用しているのは人間ですから。

多くの「炎上」したサイトやコミュニティーを見てきましたが、どれもが「炎上」して当然という原因がそこには存在していました。その原因の多くには、「誠実さ」がかけていました。

ジェネレーションY(generation Y)と暗黒の10年

  • Posted by: マルコ式
  • 2007年12月18日 23:41
  • 詭弁論考

ジェネレーションYという言葉を初めて知ったのが、私がまだ大学生の頃でした。学校で習ったわけではなく、誰かが言っていたのを聞いて知ったのです。

大まかな区分で1977年から1997年の間に生まれた7,000万人から8,000万人の世代を指し、米国人口の21%から30%を占め、そのピーク時にはベビーブーマー(BB)を追い越す勢力と言われています。

彼らの特徴は、非常にポジティブで、前の世代のGen Xが「Disillusioned(幻滅した)」、「Rebellious(反抗的な)」、「Pessimistic(悲観的な)」と言ったネガティブな言葉で表現されたのとは違って、親の世代のBBが持っていた前向きな価値観を保持しています。 

Gen Yの属性を表す言葉 日本語訳
Optimistic 楽天的な
Idealistic 理想的な
Empowered 能力のある
Ambitious 野心のある
Confident 自信のある
Committed 約束を守る
Passionate 情熱的な
Traditional 伝統的な


Gen Yは特にアメリカの事として、話されますが、日本にも全く同じ事は言えます。それは、こうした特徴には、社会的背景が大いにあるからです。

特に、日本の場合、戦後のめまぐるしい経済復興のおかげで生活や豊かになり、娯楽品への関心が高まり、そして供給が始まったころです。すでにテレビがほぼ全世帯にあったわけです。

そして経済も安定し、将来に対する期待感が高かった時代でもあります。

社会が楽観的だったとも言えます。そんな時代に幼少期を経た人達ですから、ポジティブなのかもしれません。

また、BBの価値観と言われる部分に関して代表的だと思われるのは、学歴に起因するヒエラルキーがあります。小さい頃から、いい学校に行って、いい大学を出て、一流企業と呼ばれる会社に就職すれば誰もが幸せになれると言う価値観です。

しかし、これは日本では既に崩壊してしまいました。そのヒエラルキーの崩壊がもたらしたものが、フリーターであり、ニートという社会現象です。高度成長期を経てバブルが崩壊した後に待っていたのは、暗黒の10年と呼ばれる時代でした。

そして、それと同時に、それまで親が正しいと言ってきた事自体も崩壊してしまったのです。だから、親の言う事を聞いても幸せになれない。しかし、自分では幸せが何なのかもわからないという人たちが増えてしまったのです。親が指し示す価値観が自分の幸せの土台にはなり得ない事に誰もが気がついたのです。

正直、将来や未来に絶望している人も多い事でしょう。絶望したら普通死にたくなるみたいです。

フランスの哲学者キルケゴールも、「死にいたる病」のなかでそんな話をしています。(詳しくはGoogleで)

ちなみに、面接試験を20回落ちて自殺した女子大生の話などもあったぐらいです。

Gen Yの持つポジティブさと自己防衛本能から、就職活動をしないという選択肢が生まれ、そしてそれがフリーターやニートへと発展していったのは自明の理であります。

しかもフリーターやニートは年々増え続けているといいますが、そろそろ頭打ちになるのではないかと考えられます。それは、団塊の世代の退職は2007年から始まっているからです。既に大企業を中心に大規模な採用活動を行っているところも多く、2,3年前から採用は売り手市場へになっています。

日本の大企業を中心とした社会が、ニートやフリーターを生み出したといっても過言ではありませんが、これからの10年、彼らはその代償を支払わなければならないところにきているのも事実です。

そうした事をふまえると、コーポレートガバナンスの観点から、ますます企業統合やM&Aが盛んに行われるのではないかと考えられます。

情報を制する者は世界を制する

いまさらですが、改めてこのことを言わせてください。

「情報を制する者が世界を制する」と。

それは、すでにGoogleが体現している為、あえて言う必要もなかったかもしれません。

しかし、改めて考えてみると、そうしたことに気がついてそしてそれを実践できた人はどれくらいいるのだろうか?というわけです。情報それは、整理されたデータです。

整理されていないものは、情報とは呼びません。

整理されていない情報はBuzzなどという場合もあります。

Blogが一般化して以降、世界中に散らばるデータはいまだかつてないスピードで増え続けています。

私が、こうしてブログを書いていることも一つのデータを生み出している行為になるわけです。

その行為は、一見意味をなしません。

しかし、整理されたデータの場合、重要な意味をなします。

たとえば、私が書いているこの記事は、ここにあるだけではまったく意味を成さないかもしれませんが、誰かが検索エンジンを使って検索をした場合、その人にとってはかなり重要な意味をもつかもしれません。そして、そうしたデータは情報となるのです。

情報社会などと言われるようになって久しいですが、誰も情報とは何かを理解していないように感じます。

そして、それを理解し利用しているものだけが得をする世界になっているようにも感じます。

Googleなどは、現象の一つにすぎないのです。

情報が支配する世界では、情報をもつものと持たざる者との差には、貧富の差以上の格差が存在しています。

名言

人は、失敗から学ぶ事を「教訓」と言い、成功から学ぶ事を「成功法則」と呼ぶ。そして、政治・経済で成功する人ほど、ポジティブな名言を残すが、文学・芸術で偉大な作品を残す人ほどネガティブな発言が目立つ。

7年間

  • Posted by: マルコ式
  • 2007年11月 2日 22:01
  • 詭弁論考

これまで過去のデータの保存場所として使っていたt-empire.comというドメインをそのままにしておくのものったいないので、 有効活用しようと思い、過去の記事をこの「マルコ式ネット白書」に保存する作業をしていました。

昔の記事は、まるでアルバムを開くかの如く懐かしさを覚え、そして、文章の未熟さを痛感します。

いま思うと、すでにWEBでこうして自分の考えなどを出し始めてから7年経っています。

はたして、どれだけ成長できているのでしょうか?

多分、記事の数は今の方が確実に多く出せていると思います。また、誤字脱字についても、今の方がないと思います。 (以前はかなり誤字脱字がありました)

昔の記事は多少修正はしたものはあるにしても、基本的にはそのまま掲載しています。これは、 自分自身に対する戒めと成長をはかる意味でそうしています。

ただ、記事を書くのとが早く、正確になっただけだとちょっとさみしいですけど。

内容的には、昔書いたものの方が感性的で勢いがあるように思います。文章から若さのようなものも感じます。(実際、若かった)

しかし、今は多少洗練されてきているかもしれませんが、確実に勢いはなくなっています。

もともと、文章を書くということを始めたのは高校3年生のころからでした。そのころは、書き方も分からずただ、 思ったことを書きとめることが主体でした。考えたことを文章化することがそのころの目的だったともいます。

高校卒業後、文章を書くことから2年ほど離れていた時期もありましたが、パソコンを購入したことによって、 再び書くことを始めたのです。パソコンを購入した理由としては、これから時代パソコンぐらい使えないと就職すらできないという母親の一言と、 編入祝ということで当時としては最新のものを買ってもらったのです。(実は今でも家においています)

高校、大学と音楽にのめり込んでいたためPCを買ってすぐは作曲活動の道具として、利用していました。 今まで行っていた作業が短縮されたことと、高い機材を買いそろえることをせずとも高いクオリティーが出せることもあって、 すぐに何曲かできました。

曲を作ると、誰かに聞いてもらいたいとおもい、ホームページを立ち上げることにしたのです。 ちょうどその時に親しくしていた大学の先生が、いろいろとアドバイスをくれ、初のホームページを立ち上げたのが20歳の時でした。

ただ、曲だけ載せていても検索にはかからないですし、面白みのないサイトなので、とりあえず日記を書くことにしたのが、始まりです。

そんな単純な理由から、始めたものだったのですが、いつの間にか7年も続けていたことに気がついたのです。

正直自分でも驚きでした。

誰が続けろと言ったわけでもなく、なぜ続けるかの理由も分からずに、書き続ける。

学生時代は、たくさん本を読んでいましたから、アウトプットすることで知識を落とし込もうとしていたところもあります。 実際その方法は大変効率よく、何冊か本を読んだあとなどには、とても効果的です。

人間は忘れる生き物と言われていますが、こうして情報を外部ソースとして出力することによって、 自分の脳内にインデックス化しておけば、必要な情報を必要な時に引き出せる大変有益な辞書にもなります。

また、ブログというものができてこれまで行ってきたことがかなり効率的になりました。ブログを使わず、 HTMLで自分でページを作成していた時と比べ、確実に生産性は向上しているわけです。

仕事をしながら、こうして書き続けられるのは、ブログのおかげかもしれません。

いろいろと感慨深いものがありますが、インターネットを利用するようになってすでに7年は経過しているわけです。

はじめは誰もが何を書いていいのか、どんなものが面白い情報となりうるのか?何を基準とすればいいのか?まるで分からないと思います。 それは、私も同じでした。

7年という歳月が、私にどういったものをどんな風に発信すると情報として有益なのかを教えてくれたことは事実です。

情報を出す側は、常に受け手側のことを考えて書かなければなりません。それは、私も一緒です。

1日平均100以上のユニークアクセスがありますが、私は、その100人のために書いています。多分、 リピータとして来てくれているのはその半分以下だとは思いますが、むしろそうして読んでくれる人のために書き続けているのです。

そしてこれは、多分この先もずっと変わらないでしょう。

「すいません」よりも「ありがとう」

  • Posted by: マルコ式
  • 2007年11月 1日 12:50
  • 詭弁論考

ある会社に同僚と訪問した時のこと、応接間に通され担当の方をお待ちしている時に、多分、事務の方だとは思いますが、お茶を持ってきてくださいました。

その時、あなたは何と声をかけていますか?

  1. すいません
  2. ありがとうございます
  3. あ、どうも

また、別の会社に伺ったとき、入口が狭く一人しか通れないところで、向こうからも人が来ました。

その人が気を使ってくれて、先に通してくれたとき、あなたは何といいますか?

  1. すいません
  2. ありがとうございます
  3. あ、どうも

ちなみに、アンケートも取ってみました。

どれが正しいということではないと思います。これは、気持の問題ですから。

相手にしっかりと自分の気持ちを伝えるのに最適な言葉が何か?ということが重要です。

私は、どの場合でも「ありがとう」「ありがとうございます」といいます。実は、3年前からどんな倍でも「ありがとう」と言えるように自分で決心し、それを実行してきました。はじめのうちはかなり照れくさく、なかなか普通には出ませんでしたが、最近は何とか言えるようになったと思います。

なぜ、そう思うのかというと、「ありがとう」と言わないことが気になるようになったからです。しかも、自然に出なかったときなどは、後になって、あのときは、「ありがとうだったなぁ」と感じます。

だからと言って、それを強要するつもりもありません。
ただ、ありがとうと言えるようになって、自分自身気分が良くなりました。もちろん、人から言われると気分はいいのですが、ちょっとしたことでも、誰かに「ありがとう」といわれると気分は誰でもいいはずです。
そうした前提にたって、自分もありがとうを言えることがいいと思えるようになったのです。

ちょっとしたことでも、誰かに何かをしてもらった時は、「すいません」ではなくて「ありがとう」と言いたいものです。
なぜかって?だって、そのほうが気分がいいじゃないですか。

どうやって仕事探しますか? : アバウトミー - 自分発見プロフィール : @nifty

どうやって仕事を探しますか?という質問に対して

ほとんどが、インターネットで仕事を探すという答えでした。

でもこれって、インターネット上でアンケート取っているのでその信ぴょう性は高いかどうかという話もあるかもしれませんが。
でも、自分としては今どきホームページもない会社には入りたくないわけで。。。(どんな会社かそこが知れてる。
(そもそも企業の社会的責任以前の問題です)

そもそも大卒の採用をしているところで、サイト自体持っていないのはもはや採用活動を放棄しているといっても過言ではありません。

でも結構、地方だとまだまだそういう会社多いんですよね。。。見られているという意識がないのか、見られたくないのか。。。

「それは、私も考えていた」というのは簡単です。

ちょうど、今から8年ほど前、 まだインターネットがISDNが最速で誰もがNTTのテレほーだいという引きこもり製造計画に参画していた時期の話です。

そのころ、私は大学生でした。 ちょうど始めた買ったPC(NECバリュースターで当時30万もした)でインターネットというものに触れ始めたころでした。 その2年前ぐらいには、楽天やYahoo!がオープンしていたりします。19世紀終わりというと、何だかはなはだしいですが。。。

ネットワークのスピードは64kが最速という、まだまだ可能性を十分感じられる時代でした。

そんな時代だったわけですが、私は、Second Lifeのようなものを考えていました。ただし、 それを実現するための行動は起こしませんでした。

なぜなら、そんな夢物語は不可能だと思ったからです。できないということが、私の結論でした。

しかし、現在、Second Lifeは存在します。彼らは、それができると結論付け、そして行動したのです。 これが結果なのだと思います。

そもそも、仮想空間の町という発想は、私の大学での専攻が社会学だったのも影響しています。そして、 インターネットの可能性について強い思い入れがあったことも、こうした発想を生んだのでしょう。しかし、アイディアの段階で、 終わってしまいました。

いま思うと、あのころはいろいろな可能性を想像し、面白いアイディアもいくつかあったはずですが、 結局やり方が分からないというできない理由を持ち出して、すべてをダメにしていました。

いま思うと、やり方なんて言うのは、別に知らなくても覚えていけばいいだけなのです。

ただ、今となっては、あのころのような奇抜なアイディアというのは出せなくなってしまっています。

まさに、ジレンマですね。

会社は誰の為にあるのか?何のために仕事をするのか?

だいぶ前にiTuneでダウンロードしたP.ドラッガーのオーディオブックを思い出しました。
会社はだれのために存在するのか?これが、21世紀を迎えた経営者に突きつけられた問題であると。

日本において、70年代の高度成長時代は、社員のためにあるものとして会社は位置づけられていました。そして、その時代は、 海外から日本型経営を学ぼうと多くの経営者や経営学者が来日していました。

ドラッガーもその一人です。その後、暗黒の10年といわれる時代を経て、日本は大きく変わったとドラッガーは言います。 アメリカでは会社は株主のためにあり、ドイツでは、社会のために会社が存在するといいます。日本では、 今でも会社は社員のためにあるといえるのでしょうか。ご存じのように暗黒の10年に人事制度は大きく変わりました。

アメリカ型の能力尊重主義を導入した企業も数多くあります。やればやった分だけの見返りが得られるというものです。一見すると、 年功序列型よりも公平な人事評価だと思いますが、それは、若いうちだけです。
その餌に群がってくるのは、たいてい血気盛んな若者ですが、経験不足という面から、 入社当初は生活する分だけの保証が得られないという側面も持っています。
それをばねにして伸びる人は、確かに年俸1000万円も夢ではないでしょうが、たいていは初めの段階でつぶれてしまいます。

企業にとってみれば、それでも売り上げが伸ばせるなら…と思っているかもしれませんが、実は、そこにも問題がありました。
というのも、会社にノウハウが蓄積されないのです。競争に敗れた人は会社を去っていくでしょうが、 競争に勝ち残ったひとも会社を去っていきます。

転職という文化が既に定着してしまっている現在、一生同じ会社で仕事をする人の割合は極端に少なくなってきました。
人事面においても、それを考慮して退職金の支払をせずに、その分を日々の給与に反映するという就業規則を定めているところまであります。

変化の激しい現代において、柔軟さこそが生き残る最良の手段とも言われています。しかし、会社はだれのためにあるのか? というところの考え方は、アメリカと日本とでは大きく違っていました。アメリカでは、会社は出資している株主のためにあります。日本では、 そこで働く社員のために会社は存在しています。

株主のために存在するという経営方針は、ホリエモンという存在を産みました。株主に対しての経営を重点にすればするほど、 株価が決算書よりも大切になってしまうのです。
決算書が悪ければ、株価は下がるというのは当たり前ですが、株価に重点を置くことによって、 粉飾決算という手段に対しての認識が甘くなってしまうのです。

だって人間だもの。。。しかも、特に優秀な人は、自分の行動や判断には常に優先順位をつけています。優先順位さえ間違えなければ、 今でも優秀な経営者として君臨していたかも知れません。

仕事をする上で忘れてはならないことは、何のために仕事をしているのか?ということです。お金を稼ぐことは手段であって、 目的ではありません。目的はもっと別のところにあったはずなのに、いつの間にか、 お金を稼ぐことが目的となってしまっていることはありませんか?

会社はだれのためにあるのか?人は何のために仕事をするのか?私たちはその答えを知っています。

ダイヤモンドはそこにあった

こんな話を聞きました。

ある農夫が、それまで蓄えた財産と土地をすべて売ってダイヤモンドを探す旅に出たそうです。
世界各地を転々としましたが、結局ダイヤモンドは見つからず、貧しさの中でこの世を去りました。そして、その農夫が死んで間もなく、もともと彼の農地だった場所のすぐ近くで、その土地を買った人が大きなダイヤモンドを見つけたのです。

この話の教訓は、自分が探し求めているものは、意外と足もとに転がっているというものでした。
地道にその場所で農業を続けていれば、ダイヤモンドも見つかったかもしれません。そんなお話です。

これは、誰にとっても同じ教訓なのだと思いますが、特に、自分自身にとってはかなり衝撃を受けました。
また、別の話も知っています。

ある人がイギリスに旅行に行ったときに、とても芝生が奇麗なお屋敷の前を通りかかりました。ちょうど、庭師が芝生の手入れをしていたので、その観光客は、庭師に話しかけました。
「立派な芝生ですね。どう手入れすればこれぐらい立派な芝生にできるのですか?」
すると、庭師はこう答えました。
「簡単なことですよ。水をまいて伸びてきた部分を切りそろえるだけですから。それを500年ぐらい続けるとおなじくらいの芝生にはなると思いますよ。」
その観光客は、その話を聞いて実際に芝生を手入れし始めたかどうかはわかりませんが、少なくとも、そうしたことの積み重ねが、自分でもどれだけやったのかわからなくなるぐらいやって初めて人から認められるのだということです。

自分自身、いつも、より良いビジネスモデルを模索してはいますが、そんなに簡単にビジネスモデルが思いつくはずもなく、思いついて実践してみても、うまくいかないことのほうが多いです。
だからと言って、そこであきらめた試合終了なのです。

最近は、地道にコツコツとしていくほうが結果としては大きいものを得るのではないだろうかと思っています。

モンスターペアレント(Monster parent)

  • Posted by: マルコ式
  • 2007年10月 9日 16:33
  • 詭弁論考

モンスターペアレント(Monster parent)とは、学校に対して自己中心的で理不尽な要求を繰り返す保護者を意味する和製英語である。 向山洋一の命名 (「教室ツーウェイ」 2007年8月号9ページ参照)。当然ながら常識の範囲を逸脱しない要求を行う保護者はここには含まれない。

基本的には直接教員にクレームを行うものが多いが、 校長教育委員会など、 より権限の強い部署にクレームを持ち込んで、間接的に現場の教員や学校に圧力をかけるという形式も増えている。また、 なかには虚偽の告発をするなどして法的問題に発展させようとする場合もある。

なお、日本と同様に理不尽な要求を学校に出す保護者が社会問題化しているアメリカでは、 彼らはヘリコプターペアレント(Helicopter parent)と呼ばれている。これは、学校の上空を周回するヘリコプターのように常に自分の子供を監視し、 何かあればすぐに学校に乗り込んでくることからきている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

そんな親が増えているようです。また、この現象を研究している先生もいて、 1970年代という社会背景が大きく影響しているのではないかという指摘があります。

この問題を研究している大阪大学大学院教授である小野田正利によると、 こうした保護者が目立って増え始めたのは1990年代後半からであるとされる (アメリカにおける「ヘリコプター・ペアレント」問題の発見は1991年である)。 この時期に子供が学齢期を迎えた人々の多くは1970年代後半から1980年代前半の校内暴力時代を経験しているので元来教師への敬意を持っておらず、 さらに教職の人気が低かったバブル期に社会に出たために教師をバカにしている、 というのが小野田の解釈である。また「言ったもん勝ち」 がまかり通る風潮が強まっていることもモンスターペアレント出現の原因の一つではないかと小野田は指摘している[1]

アメリカでは、ヘリコプターと呼ばれているみたいですね。日本よりはよさそうな響きです。

しかし、ほぼ同じぐらいの時期から日米同時にこうした問題が起こってきているというのも不思議なものです。 たいていは、5年落ちぐらいで日本ではやりそうなものですが・・・。悪ことばかりが先行してしまっているようですね。

モンスターペアレント(Monster parent)の直接的事件事例もありました。

2003年に福岡県の小学校で起こった事例では、 モンスターペアレントが担任教師を「いじめ教師」として非難し、事件が法廷に持ち込まれた際には、 それをサポートする550人もの大弁護団が結成されることとなった。しかし、 審理の過程でモンスターペアレントの告発が捏造であったことが次々と明らかになった。 この事件は1審で被告(教師側)勝訴となり原告は控訴したが、2007年3月に控訴を取り下げて原告敗訴が確定した。

また2007年2月1日NHKが放送した 「クローズアップ現代: 要求する親、問われる教師」では、モンスターペアレントへの対応に疲れ果てて自殺した女性教師の事例が紹介され、 反響を呼んだ[3][4]

そんな言葉があるということ自体、知りませんでしたが、そもそもは、 DQNという言葉を検索していたら行き着いたものでした。

ちなみにモンスターペアレント(Monster parent)はDQN親に含まれます。

親がDQNでモラルのないこと。 例を挙げれば

  • 保育料給食費を支払えるのに意図的に支払わない。 [6]
  • レストラン電車の中など、 公共施設で子供が騒いだり、走ったりして周りが迷惑を感じているのに注意しない。
  • 子供の健全な心身の成長に悪い影響を与える事をする。(茶髪ピアス喫煙などを黙認または奨励する, 深夜に子供を連れ歩くなど)
  • 学校に些細なことでクレームをつけたり、 無茶な要求をする。(→モンスターペアレント

また、親がDQNであり、その子供もDQNであるというような場合は、歴史は繰り返すという概念から、DQNスパイラルと呼ばれることがある。

ちなみに、DQNはテレビ朝日系で1994年2002年に放送されていた 「目撃!ドキュン」 という番組に由来するらしいです。この番組に出演する一般人にいわゆる元ヤンキー(不良)が多く、 時として非常識な行動が多々見られたことから、インターネットスラングで非常識な人物を指す蔑称としての「ドキュン」 という言葉が生まれたということでした。

流行とイノベーター理論

スタンフォード大学の社会学者Everett M. Rogers教授が提唱しているイノベーションの普及についての学説 「イノベーター理論」というものがあります。

ここでは、イノベーションに取り入れる順番に5つのグループに分類しています。

  1. イノベーター(Innovators)
    革新者と呼ばれ、冒険心にあふれ、新しいものを進んで採用する人たちの事です。これらの人は、市場に2.5%存在します。
  2. アーリーアダプター(Early Adopters)
    初期採用者と呼ばれ、流行に敏感で、自ら情報収集を行い、その情報を見極める人たちです。オピニオンリーダーと呼ばれる事もあります。 市場には13.5%存在します。
  3. アーリーマジョリティ(Early Majority)
    前期追随者と呼ばれ、やや慎重ですが、平均より早く新しいものを取り入れ、ブリッジピープルとも呼ばれます。 市場の34.0%を占めます。
  4. レイトマジョリティ(Late Majority)
    後期追随者と呼ばれ、どちらかと言えば懐疑的な人たちで、周囲が新しいものを取り入れるのを見てから追随する人たちをさします。 フォロワーズとも呼ばれます。アーリーマジョリティと同じ、市場の34.0%を占めます。
  5. ラガード(Laggards)
    遅滞者とよばれ、最も保守的な人たちです。 流行や世の中の動きへの関心が薄く、イノベーションが伝統になるまで採用しない人たちです。市場では残りの16.0%に相当します。


この分類方法は、インターネットに関わる分野に置いてかなり正確に当てはまるように感じています。

実例を用いると、「電車男」のブームが最もわかりやすいと思います。元々は2ちゃんねるでの話ですが、 それを広めたのはブロッガーたちでした。
いわゆる口コミ効果がネット上でおこり、その波が大きくなるにつれ、他のメディアも注目するようになったのです。

イノベーターを2ちゃんねるとすると、ブロッガーたちは、アーリーアダプターとなり、雑誌やTVはアーリーマジョリティだったのです。 そしてインターネットと無縁の人たち(レイトマジョリティ)にも広まり、一大ブームになったのです。

同じような現象が、「脳内メーカー」 でもおこりつつあります。

ただ、流行という社会現象をイノベーションと呼んでしまうのは、いささか言い過ぎなので、 ここではあくまで流行という社会現象を解析する上で使用したにすぎないという事を断っておきます。

1万2千年前の真実 ~文化人類学的視点~

  • Posted by: マルコ式
  • 2007年9月27日 21:55
  • 詭弁論考

インターネットとはかなり便利なものだとつくづく考える。

1万2千年前の真実などという途方もないテーマについて書くときでも、容易に情報を得られるからだ。

実際、このテーマについて何か書こうと思ったのは、ネイティブアメリカンの話をふと思い出したからだった。

「ネイティブアメリカン 洪水」とGoolgeで検索してもらうと実に多くの記述が出される。ネイティブアメリカンといえど、 さまざまな部族があり様式も多少異なるが、この点についてはどの部族においても何らかの神話や伝説として語り継がれているようだ。

特に、ネイティブアメリカンのホピ族の間では、世界を洗い流す洪水から救われたという神話があり、 その中ではすでに4回世界は崩壊しているという。

はじめは、火(噴火)次に、氷(氷河)そして水(洪水)によって滅んでいて、今は第4の太陽の世界に生きているという。

そのほかにナヴァホ族の神話では、

第3の世界は黄色い世界。現在の我々の世界に近づいてきていた。 陸地には各方角に山があり、山の人々は「最初の男」と「最初の女」にトウモロコシの育て方や家の造り方を教えた。また、 水の怪物を怒らせないように警告した。
しかしコヨーテは警告を無視し、水の怪物の2人の子供を連れ去ってしまった。
突然海が盛り上がり陸地は洪水に見舞われた。人も動物も一番高い山の頂上に集まった。
人々は巨大な葦を山の頂上に植え、内側を登っていった。4日間上り続け、遂に第4の世界へ辿り着いた。

第4の世界は白い世界。 今までの世界よりも美しく多くの人々や動物で賑わっている。
「最初の男」と「最初の女」はさらにトウモロコシの育て方や様々なことを学んだ。
しかしコヨーテは水の怪物の子供を返していなかったので、再び盛り上がってきた海を見て最初の人々は恐れた。
再び葦を植えて登り始めたが、今回は最後まで登りきることが出来ず次の世界への穴も見つけられなかった。
黄色い鷹が穴を開けようと試みた。鷺と禿鷹も手を貸した。最終的にバッタが穴を開けることに成功した。
そして全員が穴まで登れるように蜘蛛が糸をたらした。

第5の世界は小さい島だった。蟻が第4の世界から土を運び、 人々は作物の種を運んだ。
再び水位が上がり始めた時、「最初の男」と「最初の女」は水の怪物を怒らせたコヨーテを探し出し2人の子供をボートに乗せた。
水位は下がり以後洪水で世界が破壊されることはなくなった。
・・・ナヴァホ族の神話[2007.09.26]

このナヴァホ族の神話については、ホピ族とは違い第5の世界観にて神話が構成されていますが、「洪水」 は同じキーワードになっている。

1万2千年前にアラスカを通って、北米大陸に渡ってきたとされるネイティブアメリカンは、洪水があったことを語り継いでいる。

洪水と言えば、旧約聖書に出てくるノアの方舟は有名だ。 あえてここで語る必要もないほどだ。

実はこの洪水に関する話は、北米だけに限ったことではない。中国南部、 沖縄から東南アジアに広く分布する 「洪水説話」 というものも存在する。日本においては、伊邪那岐(イザナキ) ・伊邪那美(イザナミ) という二柱の兄妹神による国産みの説話がそれにあたる。

この「洪水説話」 というものもは、世界の諸神話に共通して見られるテーマである。 聖書旧約聖書) 『創世記』 のノアノアの方舟 インド神話 ヒンズー教のプラーナのマツヤ ギリシャ神話デウカリオン、 および『ギルガメシュ叙事詩』 のウトナピシュティムの物語は、 よく知られた神話である。過去現在の世界の文化のうち大部分が、古い文明を壊滅させる「大洪水」物語を有している。

この「大洪水」に関する物語の起源について、何人かの地質学者は、遠い過去に実際に起きた河川の大氾濫が、 神話に影響を与えたのだと考えている。

しかし、その観点だと、これだけ共通した神話を世界中で語り継がれているのはなぜか?という部分疑問については答えたれない。 答えられるとすれば、ただ一つ、

世界中が大洪水に巻き込まれた

からだ。

しかも、最も古い神話は1万2千年より前には存在しない。なぜなら、古代文明と呼ばれるものの多くは、 1万2千年前に発生したと考えられている。

…思い出してほしい、1万2千年年前よりも前は氷河期だったことを。

しかも、それ以前の記録は一切残っていない。というよりは、すべて失ってしまったような感じなのだ。

それは、人類の歴史の中でネアンデルタール人が 「ホモサピエンスの先祖ではない」ということが明らかになって以降、いったいどこからやってきたのか? というところがほとんど振り出しなってしまっている。100歩譲ってクロマニョン人が祖先だとしても、 約4万~1万年前に存在していたとされているため、約3万年の間をつなぐ糸口は見つかってすらいない。

逆に、ネアンデルタール人とホモサピエンスは一緒ではなくしかも、 クロマニョン人とも違うのであれば、 突然変異したものなのか?

進化という概念自体がダーウィニズムなのだが、 その思想が提唱されて以降これまでずっと反証を受け否定を受け続けている。これだけ世に知れ渡ったにもかかわらず、 さまざまな批判がなされている。そもそも、ダーウィニズムがなければ環境問題すら起こらなかったという視点すらあるほどだ。

構造的に考えてみると、いくつかの矛盾点を指摘せざるを得ない不完全な理論であることは間違いないとは思うのだが、それでも、 人類の歴史は語りつくせない。

ただ、1万2千年ごろからは人類の歴史は残っている。

参考文献一覧

 

1万2千年前の真実 ~地質学的視点~

  • Posted by: マルコ式
  • 2007年9月26日 20:38
  • 詭弁論考

1万2千年前とGoolgeで検索をかけるとフリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』の記述が出てくる。皆さんもごぞんだと思うが、 このウィキペディアは一般の人たちが知識の補完ともよべる作業によって構築されているサイトだ。

その中に1万2千年前に関連する部分を抜き出してみた。

  • 約1万2千年前 - この頃は、こと座 (七夕の織り姫星付近) が北極星だった。
地球の歳差運動により、 北極星は25,920年周期で変化している。
解凍した氷河の水で滝の形成がはじまった。初期の滝は現在より10kmほど下流にあり、 年1mほどのペースで後退しながら現在の姿となった。

ここで興味深いのは、地球の歳差運動という部分だ。 歳差とは、 自転している物体の回転軸が、 円をえがくように振れる現象である。

誰がこのような記述をしたのかは定かでないし、どれだけ信憑性があるのかも疑わしいが、そうした仮設もあるというのは事実らしい。

また、同じ時期にナイアガラ滝の形成が始まったようだが、「解凍した氷河の水で滝の形成がはじまった。」とある。 なぜそれほどまでの氷河が一気に解凍したのか?それを考えると、大きな地殻変動が起こったことは容易に想像できる。

しかも、そうした地質学的視点で1万2千年前を見ていったときに、地殻変動があったとされる痕跡が多数見つかっている。

1万2千年前~1万年前
北半球中高緯度からと、低緯度からのCH4放出量が共に増加しています。これは、 気温の上昇とともに氷床が著しく減少したためと考えられます・・・グリーンランドNorth GRIP氷床コア分析 [2007.09.23.] より

今から約1万年から1万2千年前に縄文時代は始まり、そして何千年もの間この時代が続きます。 日本で一番長く続いた時代であり文化でしょう。気温の上昇とともに氷河が溶けはじめ海水面が上昇しました。日本は大陸から孤立し 「ユーラシア大陸の東」から「ユーラシア大陸の東にある島」になりす。島の形はこの時代に形成され、 その島には大小いくつもの村が点在すしていました。 この時、 日本はまだ国として成り立っていたわけではなく 大小さまざまな大きさの村があり その村ごとに違った慣わしなどがあったようです。・・ ・旧石器時代 [2007.09.23.]

地質学上では、この1万2千年前~1万年前を氷河期の終わりと位置付けているようで、 完新世(過去1万2千年間)などとも呼ばれる。完新世(かんしんせい、Holocene) は地質時代区分のうち最も新しいもので、 かつての沖積世(Alluvium)とはほぼ同義である。最後の氷期が終わる約10,000年前から現在まで (近未来も含む)のこと。その境界は、ヨーロッパにおける大陸氷床の消滅をもって定義された。

その間に起こった出来事は、大陸氷床の融解によって海面が130m以上急激に上昇した。 とくに完新世の気候最温暖期と呼ばれる時代には、 現在より3~5m海水準が高かったとされる (縄文海進) 。その後海面は緩やかに下降し、最近2000年程度は海水準は比較的安定している。

不思議なのは、氷河期が終わったとされてはいるが、なぜ終わったのかということまでは明らかにしていない。 それは、地質学の領域から外れているといわれるのであれば、仕方ないのかもしれない。しかし他の分野において氷河期を調べてみると、 今だになぜ起こるのかについては解明されていない。

氷河期に関する最新の研究の中には、2万3000年の歳差運動の周期に対する離心率 (弱い10万年周期)の変調効果が、4万1000年と2万3,000年の周期でおこる温室効果ガスフィードバック効果と結びついたという説明がある。

何が真実なのかというのは、あくまでも空想の域を脱しないわけだが、ただはっきりとわかることは、 1万2千年前に海面が130m以上急激に上昇するほどの大変動があったということだ。

その点だけは、共通認識とされている。

参考文献一覧

心理学的アプローチ

結論を先にあげると「インターネットは、集団無意識の顕在化」という事が言えるのです。

集団無意識という概念は、分析心理学の理論を創始したカール・グスタフ・ユングが、その理論の中心概念として、人間の無意識の深層に存在する、個人の経験を越えた先天的な構造領域であるとして、ジークムント・フロイト精神分析の理論では説明の付かない深層心理の力動を説明するため、この無意識領域を提唱しました。

もう少しわかりやすく言うと、民族や人類に共通してみられるある種の典型的なイメージで、このブログを見ているひとも、見ていない人も、アマゾンの奥地にいる人もアフリカの人も誰もが心の奥底には同じようなイメージを持っている問い事です。
別の言い方をすると、「我々は既に神を知っている」のです。

しかし、この理論は、意識が科学的に証明されていない以上、一つの仮説にしかすぎないのですが、その仮説を立証する意味でもこうした思考的実験は必要だと思います。

私は、インターネットの普及によって、誰もが無意識レベルで感じていたイメージをよりはっきりとしたイメージにまで持って来れるようになったと考えています。これは、無意識レベルで共感し合える事があって初めて起こる現象なのです。

だれもが、「こんなものがあったらいいのになぁ〜」と思っている事が現実の物になる。それは、思考という段階よりもっと前の思いつきの領域です。むしろ、感性の領域です。どう感じるのか?どう感じたのか?どう思ったのか?

「こんなのあったらいいなぁ〜」をリアルに実行しようとすると莫大な研究開発費が必要になってきますが、バーチャルではそれがより手軽に行えるのです。

今、世界で利用されている便利な物のすべては、潜在的な意識が顕在化した結果です。空を飛びたいと誰もが感じていた結果、飛行機という物が生まれ、もっと早く走りたいと誰もが思った結果、自動車や列車という物が生まれました。それを思わなかったり、そう感じたりしなければ、それらの物は未だに存在しなかったでしょう。

古代文明が存在すると仮定するならば、そこでは、違った形での意識の顕在化が行われていたと思います。(例えば魔法や呪術的なものなど)

ただ、感じたり、思ったりした事が、文明の進歩に大きく関与しているとするならば、インターネットはまさに意識レベルでの補完と考えられるのかもしれません。私がこうして思考実験を繰り返し行う事によって、それを見た誰かが、そこから次の段階へとその思考を昇華させ、また別の人がそうした思考実験を昇華させていく。。。そして最終的には全く新しい概念が生まれるのではないでしょうか。

心の奥底に眠っていたものを無理矢理起こし、そして顕在化する事によって、それに共感する人がそれを昇華させより洗練されたものが出来上がる。

今、インターネット上でデファクトスタンダードを確立しているサイトの多くは、人々が感じていた部分を顕在化した結果なのです。

ただし、それを提供できる人間は限られています。それは、人が想像している物をより深く妄想している人間なのです。想像というのは、ただ思っていたり感じている人のことをいいます。妄想している人間は、既にそのサービスや商品を利用している事を思っている人の事です。

例えば、今では誰もが使っている検索エンジンは、当たり前の話ですが、存在していませんでした。でも、アメリカの大学院生がサイトをもっと調べやすくできるという妄想に取り付かれ、それを実現しました。その他にもパソコンを一家に一台あったらいいと思い込んだ人が、リンゴのマークのパソコンを世に出しましたし、もっと誰でも簡単にパソコンが扱えるという妄想に取り付かれた学生が今では世界一の資産家です。

こうして見ていくと、そこには、一つの共通点があります。それは、思い込みが他の人よりも強かったという事です。しかも、誰もが想像だけにとどめている事を実際に形にしようとするだけの時間と柔軟性は、大人にはありません。そうした事ができるのは、大学生ぐらいなものです。

1万2千年前の真実 ~はじめに~

  • Posted by: マルコ式
  • 2007年9月20日 10:02
  • 詭弁論考

インターネットの普及で、膨大な情報が容易に入手できるようになった。

それによって、それまであまり知られていなかった事実も誰もが触れることができる。しかし、 それに触れることをするかどうかは別の話だが。

たとえば、検索エンジンGoolgeで「1万2千年前」と検索してみるといい。すると、以外とさまざまなことがわかる。

特に、1万2千年前に地球の地球の歳差運動があったことを示唆する内容や、 それを裏付けるかのように世界各地で地殻変動が起こったという形跡も、地質学の分野で見られている。

また、古い書物には、1万2千年前には、高度な古代文明が存在していたことも語られている。

Googleでは、「1万2千年前」で検索した結果、一致する日本語のページは、約2万8千件以上あった。 同じキーワードでYahoo!Japanで検索した結果一致するページは2万5千件以上あった。(いずれも2007年9月20日現在)

ただ、もう少し大まかな見方で1万年前と考えると、その情報量は約5倍にまで膨れ上がるが、9千年前でも、 1万1千年前でもそれほどの検索結果は得られない。

この事実は、何なのか?

賢明な方であれば、1万2千年前に実際に「何か」があったことは理解できると思う。ただし、その「何か」というのは、 すべての事実をつなげてみないと見えてこないだろう。

歴史家は、形跡らしきものをたどりながら想像力を働かせて歴史を紡いでいくというが、 まさにこの真実に近づくためには同じような作業が必要になる。

作用と反作用が生み出す宇宙観

  • Posted by: マルコ式
  • 2007年9月10日 17:44
  • 詭弁論考

物理学とか、天文学とかよくわかりませんが、世の中には、 作用反作用というものが存在するらしいです。

ちなみに作用をフリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』で調べてみてところ、いくつかの異なる意味で用いられているということで、内容も中途半端でした。また、 三省堂提供「大辞林 第二版」をひくと、

(名)スル
(1)他に力や影響を及ぼすこと。また、そのはたらき。
「触媒として―する」「人体に及ぼす―」
(2)心身のいとなみ。はたらき。
「消化―」「心理―」
(3)〔物〕
(ア)二つの物体の間に力がはたらいているとき、一方にはたらく力。他方にはたらく力は反作用という。
(イ)物体および場に及ぼされる種々のはたらき。化学作用・熱作用など。
(ウ)エネルギーと時間との積に等しい次元をもち、最小作用の原理が適用される物理量。作用量。
(4)〔哲〕 ブレンターノの心理学やフッサールの現象学で、意識の対象志向的なはたらきをいう。意識作用。心的作用。

などという言葉が載っていました。

何がよくわからないけど、力が働いている様子のことを作用というみたいです。

さようですか・・・と。

作用の定義から察するに、反作用は、作用に反対する力?何か良くわからないけど、力が働いていることに対して、 反対の力が働いていることを反作用というみたいです。

何が!?さようですか・・・だと。

作用と反作用のバランスによって、この宇宙は均衡をたもっているのだ」と先生は言います。

宇宙の理の中では、それがすべてだと、先生は言うのです。

ある作用には常に反作用が付いて回るようです。そして、作用・反作用のバランスは常に一定に向かっていくのだといいます。

人が生きていることを作用だとすれば、死は反作用です。逆に、死が作用だとすれば、生は反作用です。人口が増えすぎると、 バランスをとるために反作用である死が多く訪れると先生は言います。いわゆる戦争です。逆に、戦争が長く続くと、生という反作用が働き、 平和になるのです。

また、宇宙は、今拡張しているといいますが、実はある一点を境に収縮へ向かうのだと先生は言います。これも、現時点で見れば、 宇宙が拡張していることが作用で、収縮は反作用らしいのですが、拡張しすぎると、バランスをとるために収縮へ向かうのだといいます。

宇宙は、こうした形で、のびたり、縮んだりを繰り返しながら、バランスを取っているのだといいます。

そんな話を聞いて、私は、宇宙が収縮することが、現時点において反作用だとすると、それが起こった場合、 生と死は逆転するのではないだろうか?と思いました。

そこで先生に、

「宇宙が収縮する時代では、死んだ人間が蘇るということですか?」

と聞いたところ、

「その可能性は、高い。蘇るという現象ではないにしてもそれと同等の現象が起こる」

とおっしゃいました。

この宇宙のすべてには、作用と反作用が存在し、常にバランスを取っている…。

陰と陽の存在。

天使と悪魔という概念。

善と悪という基準。

生と死という現象。

宇宙と私の関係。

平和と戦争という願望。

先生は、その理を知れば、すべての先が見えるとおっしゃいますが、私はまだまだ修行が足りないようです。

必要悪という考え方

  • Posted by: マルコ式
  • 2007年9月 4日 20:58
  • 詭弁論考

最近、2ちゃんねるはなぜ潰れないのかを読みました。作者は2ちゃんねるの管理人のひろゆきこと西村博之氏。ちなみに、オビには 「もうこれ以上、インターネットは社会を変えない。」というフレーズが。。。むしろ、 このフレーズにノックアウト気味に買ってしまった感があります。

アマゾンのレビューには、賛否両論、罵詈雑言なので「2ちゃんか!?」と思ってしまうほどの反響ぶり。良くも悪くも、 話題になる人ではることは間違いありません。

2ちゃんねるはなぜ潰れないのかということについての結論も早々に書いてありました。

その理由は、「必要だから」

完全に言いきってます。

もし、2ちゃんねるがこの世に存在しなかったとしたら、似たようなサイトが名前を変えて同じようなことをするだろうというのです。

また、仮に2ちゃんねるが法的手続きを経て閉鎖される事態になったとしても、やはり同じようなサイトが生まれるだろうというのです。 (そもそも、そうならないようになっているみたいです)もしくは、2ちゃんねるの残党ともいうべき人たちが、管理者不在のまま、 延々と続けていくかもしれません。

本書の中で、Winny開発者の金子氏についても触れていました。内容は、彼を逮捕すべきではなかったというのです。

実際逮捕後、Winny利用者いなくなったかというと、確かに利用者は減りましたが、今だに利用している人はいるのです。

また、これが問題になったのは、利用者の中に公官庁関係者など情報を決してもらしてはならない人たちがいたことにあります。そして、 Winny自体が問題となったわけではなく、Winny利用者に感染する「山田オルタナティブ」などの山田系ウィルスや「仁義なき○○」 などといったHDDのデータを暴露するウィルスが蔓延したことが、問題でした。

Winny利用を促進したと思われるネットランナーなどの専門誌は全くおとがめなしですし、 ポストWinnyとしてShereというP2Pソフトも出ています。

そもそも、WinMXから始まるこのファイル違法共有ソフトに関しては、 いくら開発者を逮捕しても結局はイタチごっこになるのは明白でした。

むしろ、逮捕されたことによって、バージョンアップはされず、 依然危険な状態で利用している人たちがまだいるという事実に目を向けるべきなのではないでしょうか?

これは、国家権力という力が働いた結果なのだと私は分析しています。個人が自分のPCの情報を漏えいされたということだけであれば、 それほど深刻ではなかったと思いますが、公官庁の機密情報が漏えいしたことによって、自体はかなり深刻になってしまったのです。

そもそも、業務用PCで勤務中に利用していた職員が問題なのですが、 公官庁職員でどれくらいの人たちが利用しているのかが全く把握できない状態になったため、 事態を収拾すべく開発者の逮捕に向かったというのが、真相です。

いわゆるスケープゴートにされたわけです。

・・・今さらそんなことを言っても、どうしようもないですし、どうでもいいことですが・・・

2ちゃんねるとWinnyとの決定的な違いは、情報に対する信用度にあると思います。 2ちゃんねるの場合、誰ともわからない人が勝手なことをぬかしているわけなので、その情報に対しての信用度はかなり低いです。 情報は出典を明らかにしてこそ価値があります。

誰が言ったかわからない話は、その中に真実が隠されていたとしても、高い価値は生み出しませんし、 ややもすると単なる噂としてとらえられるのです。

もっとわかりやすく言うと、本を出版する際に匿名で出版する人はいません。だから、お金を払ってでも得たいと思う情報になるわけです。 (実はそれに気がついたので今では実名を出しています)

Winnyの場合は、確かに利用者の匿名性は高いかもしれませんが、P2Pという特性によって、 信頼性の高い情報が共有可能だったことが、大きな問題でした。Winnyの利用者同士は、 誰かのパソコンにリアルタイムでつながっているということを知っています。実際に、 著作権を明らかいに侵害している動画コンテンツなどが自由に手に入れらたわけですから。
ですから、その情報が誰のパソコンに入っていたのかが問題ではなく、その情報自体が外部に漏れてしまったこと自体が問題なのです。
特に「秘密」「機密」とされる情報は、外部に漏れること自体が問題となります。

私が考えるに、必要悪とは、ある一面では確かに悪なのだと思いますが、ある一面では、 守るべき最低限のルールは尊守しているのだと思います。

必要悪を説明する際によく、「ヤクザ」の話が出ますが、実際「ヤクザ」な人たちも最低限のルールは守って生活しているのだと思います。 「ヤクザ」が交通違反を頻繁にするか?といわれると、決してそうでないように、 必要悪といえども守るべき最低限のルールを持っていると考えています。

西村氏も、2ちゃんねるが犯罪に使われたと言われれば、警察に利用者のログを提出するそうですし、裁判があれば、 できる限り出廷しています。一方では悪といわれるけれども、ルールを守ろうとする意志は尊重できるため、必要悪という位置づけのまま当分、 2ちゃんねるは続いていくのでしょう。

マルコ式 "Did you know...?"

  • Posted by: マルコ式
  • 2007年8月27日 20:00
  • 詭弁論考

まずは、下記のムービーを見てください。

この動画を見て、いろいろ考えさせられる部分もあるかと思います。

このDid you knowに関しては、すでに多くの人がブログの中で様々な言及をしています。これは、世界的というよりは、 アメリカと中国という部分がかなりクローズアップされているような気がします。

もともと、アメリカで作成されたものなので、データや視点が欧米よりだったりするのはいたし方ありません。

 

でも日本は実際のところどうなんでしょうか?

中国では、2010年には、大学進学率が25%(3000万人)に達するだろうといわれていますが、日本は、 2007年の段階で51%でした。(大学等進学者:587381÷全体:1147035=51.2%:::文部科学省平成19年度学校基本調査速報) 現段階ですでに日本では2人に1人は大学へ進学していることになります。

ただ、中国の場合は、都市部の高校生の進学率はほぼ100%だといわれています。全体の割合を引き下げているのは、 農村部の学生の進学率です。農村部から大学へ進学するのは中国では至難の業。 かなり難しいといわれていいます。

1_4_01インターネットの国内利用者数もついでに見てみます。

インターネット白書2007年版を見てみると、国内の利用者数は約8300万人です。世帯浸透率は83.3%でした。

ちなみに、日本の人口は、1億2768万7千人(平成16年10月1日現在推移)  です。日本の場合は、5年に一度の国勢調査があるため、2005年度のデータが最新となります。(次回は2010年)

しかし、出生率は年々低下しており、ここ4,5年は出生率が2を切っている状況が続いています。2を切るとどうなるのか? 人口が減っていきます。

余談ですが、1+1が2にならない算数の代表的な問題ではないでしょうか?

1+1が2になると、加算的に人口は増加していくと予測されます。死亡率が不変で合計特殊出生率が高ければ、 将来の人口は自然増を示すわけです。

仮に、調査対象における男女比が1対1であり、すべての女性が出産可能年齢以上まで生きるとすると、 合計特殊出生率が2であれば人口は横ばいを示し、これを上回れば自然増、下回れば自然減となるはずです。

しかし、実際には生まれてくる子供の男女比は男性が若干高いこと、出産可能年齢以下で死亡する女性がいることから、 自然増と自然減との境目は2.08とされています。

日本ではこの2.08という数値を切ってからすでに数年たっています。これから反転し、出生率が20.8まで伸びれば、 将来の人口は自然増を示すでしょうが、そう簡単にはいきません。

ちなみに、2006年時点での世界の出生率は、アメリカは2.05、フランスが1.94、韓国は1.08、 イタリア1.32という数値で、軒並み先進国は低い数値でした。1550

ただ、気になったのが、韓国の1.08という数値です。これは日本やイタリアよりもかなり低い数値です。 1人産めばいい方なのかもしれません。

 

・・・あなたは、知っていましたか?

 

 

 

 

かっこいい男の条件

  • Posted by: マルコ式
  • 2007年8月24日 14:56
  • 詭弁論考

学生時代に、「かっこいい男の条件」 というコラムを書きました。

そのころ何を考えていたのか、あまりよく覚えていませんが、多分よからなぬことです。

このタイトルがいいのか、ここのサイトではかなり長い間人気記事になっています。結構見る人いるんですね。

こういうのは、男性が見るんでしょうか?それとも女性が見るんでしょうか?

実際、このコラムでは結論は出せていません。自分自身かっこいい男の条件がよくわかっていなかった(事実自分はかっこよくないので) ためだと思います。

今なら、かっこいいところの条件は、「愛と情熱を持っている人」だと思います。

要するにハートですね。

実は、ヒーローに必要なエッセンスとおんなじです。

ヒーローは、絶大な力と一緒に、愛と情熱を持ち合わせています。私の尊敬する多くの社長も、この愛と情熱を持っています。(そもそも、 愛と情熱がないと人はついてきませんが)

愛と情熱を持っている人」は、とてもかっこいいです。

むしろ、「愛と情熱を持っている人」をかっこいいといわず、何をかっこいいというのでしょうか? ニヒルな感じ?クールな感じ?シャープな感じ?おしゃれな感じ?

どれをとっても、すべて見せかけです。

心が惹かれません。心惹かれる人は、それだけで力を持っています。そこにいるだけで、存在感を常に感じます。それは、 愛と情熱のパワーです。

失敗しても、泥だらけでも、愛と情熱を持って向かっていく姿はかっこいいじゃないですか?

そんな人を苦手に感じる人はいるかもしれませんが、好感が持てない人はいないと思います。もしいたとしたら、それは、 その人自身に問題があります。斜に構えたって、かっこよくないです。斜に構えて否定的なことを言う人は、その時はいいかもしれませんが、 そのうち誰からも相手にされなくなると、バルタザール・グラシアンは語っていました。

多少野暮ったくても、直球勝負しかできないぐらい不器用でも、一生懸命だったら、かっこいいんです。

何かに一生懸命になれるのは、そこに「愛と情熱」があるからです。

情報を編集するという技術 〜第1孝〜

ブログなどのCGMで誰でも簡単に情報を配信できるようになった事によって、確かにそれまでのメディアとは明らかに変わってきました。 それは、限られた人だけが、情報を配信できるという点においてです。

しかし、インターネットが世に出たときには既に、誰でも情報を配信できる事は、既にわかっていたはずなのです。 私が、 インターネットで情報を配信し始めたのは、ちょうど、大学2年生だった2000年頃からでした。その頃は、 ネットバブルが始まりそうな雰囲気でインターネットが一般の人たちにも普及し始めた頃です。その当時は、今ほど回線速度が早くなく、 文字情報が基本でした。ISDNの64Kで最速と言う時代ですので、 動画コンテンツなどは重くてコンテンツとして機能しているのはアダルトサイトぐらいのものです。しかもそれは、 テレビの品質を遥かに下回るクオリティーだったわけです。 そんな時代ですから、基本はすべて文字情報でした。もちろん、 画像も重くなるという理由でなるべく小さく、軽いものをちょっとだけ載せてる事が主流だったのです。

現在ほど、製作用アプリケーションも使いやすくなく、正直HTMLは手打ちでコーディングした方が絶対に早かったです。 そもそも、 インターネットという技術自体、アメリカの大学での研究をより効率的に行うために情報を共有していくための技術として広まったものですし、 (発端は軍事目的ですが)検索エンジンは、アメリカの大学院生が考えた技術です。

ですから、インターネットはアメリカとかなり密接な関係が今でもあります。これは、 ネットワークの技術的な話と深く関係してくるのですが、ルートサーバというものが世界中に13個存在していますが、 そのほとんどはアメリカ合衆国の団体が管理しています。

また、アメリカの大学で生まれたインターネットは、大学という枠組みの中での進化もあります。 インターネットの世界標準を進めるW3Cのひとつは慶応大学にあります。 (もともとは、MITCERNが中心となっていた)

アメリカの大学とインターネットの関連性はそれだけではありません。 関連性が最も顕著に現れているのは、SEOに現れています。 SEOの高いサイトというのは、基本的に論文形式に書かれているものです。大学で論文を書いた経験がある人や、 レポートや論文を書く事に長けている人は、どうやらSEOが好きな傾向にあるようです。なぜなら、1次元的な文字情報が主体だからです。 画像を多用した2次元的な画像情報は、感覚的に情報を得る事ができますが、SEOが好きな1次元的人たちは、 次元が違うのでそうした情報をあまり好みません。

また、画像に動きが生まれ平面的な情報からより3次元的な立体情報へとシフトしている現在に置いては、まだその可能性は未知数です。 ここで、何の説明もなしにいきなりよくわからない用語が出てきました。実は、あえてその言い回しを使いました。理由は、 そういう言い方をした方が、これから話す内容がわかりやすいかと思ったのです。

先に、次元的情報区分について説明します。 1次元的情報とは、基本的にすべて文字で構成された情報です。 書籍や小説と言った情報などは、それに最も近い情報もしくは、そのものと言ってもよいでしょう。また、私のブログなどは、 ほぼ内容は文字しかありませんから、1次元的情報ブログ問い得るでしょう。ただ、文字だけの情報だと万人受けしませんが・・・。

というのも、情報は感覚的であればあるほど、受けとりやすいのです。 頭で理解するよりも体の感覚を使えるだけ使った方が情報は処理しやすいように人間はできています。そもそも、 人間は5もの感覚がある訳ですから。 平面的な画像というのは、それだけで情報として成立します。例えば、写真や絵などは、 まさに2次元的情報と言えます。

ブログも、私のように文字だけのものよりも写真が入っている方が、見やすくてわかりやすいというのは、言わずもがなです。 「百聞は一見にしかず」と言います。1次元的情報よりも2次元的情報の方が、より理解度ははやいことを表しています。ただ、 「百聞は一見にしかず」ということわざには、ただ、見るだけではなく体験する事も含まれています。 実は、見るよりも、 体験する方が情報としては処理しやすかったりします。

優等生と劣等生

  • Posted by: マルコ式
  • 2007年8月 6日 20:44
  • 詭弁論考

前回ご紹介した「朝30分の掃除から儲かる会社に変わる」 の著者、小山昇氏の会社株式会社武蔵野のミッションを見て、また、 考えさせられました。

㈱武蔵野を「経営の動くショールーム」として現場と仕組みを公開し、全国の中小企業の皆様の業績向上・ お客様満足度向上に貢献する。

凄まじい時代(市場)の変化を前にして、一人で(我流で)悩まずに[原理原則]に沿った形でお互いに学び(真似)あいましょう!

ただ、ダスキンの代理店という会社では、こうした理念は生まれません。これは、経営コンサルティング会社の発想だと思います。

事業内容には、①地域密着事業(ダスキン事業)と②経営サポート事業とありますが、ダスキンはエリアが決まっており、 急成長というものは、見込めませんが、地盤としてはゆるぎないしっかりしたビジネスだと思います。そして、 そこから派生した経営サポート事業こそが、今や本業になっていることは、ミッション(会社の使命)を見ても明らかです。

朝30分の掃除から儲かる会社に変わる」 の冒頭に書いてあるのですが、幹部のほとんどは、 学校では落ちこぼれの部類だったとありました。 もちろん、 小山社長も自分は落ちこぼれの部類だったと書いています。

しかし、実際はどうでしょうか?

学校で劣等生だとしても、社会で成功を納められれば、それで充分だと思います。

学生生活は、小学校から大学まで順当に卒業していっても12年程度です。社会人生活は、定年を60歳すれば、40年近くあります。 (相対的な感覚では一緒かもしれませんが)

別に評価がどうこうということが、今回の本筋ではありません。

優等生と劣等生の違い(原理原則)に気づいたところが、ポイントです。

武蔵野のミッションには、「一人で(我流で)悩まずに[原理原則]に沿った形でお互いに学び(真似) あいましょう!」とあります。

「学ぶ」の語源は「真似る」から来ているという説があります。

たとえば、1000年も昔の話ですが、日本に感じというものが入ってきた時、日本人はその漢字をどうやって覚えたのでしょうか?

答えは、写経でした。

もともと、漢字はお経を読むために必要なものだったのです。そして字を覚えるために一番手っ取り早いとされたのが、写経です。 同じことを何度となく繰り返し行うことで、より理解が深まり、ついでに字の練習になります。

また、職人の世界では、「目で盗め」とされ、それが勉強だといわれていますが、 師匠のやっていることを真似することが勉強だというわけです。

実は、学校の勉強も全く同じことがいえたりします。

学校の勉強が得意ないわゆる優等生には、こんな特徴があります。

「言われたことは素直に聞いて、その通り素直に行う」

学校の先生が、「ここはテストに出すぞ~」などと言っていた記憶があると思いますが、それ素直に聞いて、 要点をしっかり押さえておくだけで、学校のテストはいい点が取れます。

だって、「テストに出す」と明言しているのですから。

ただ、そんなことを言うのはとても優しい先生です。

しかし、学校の勉強では指導要領というものがあり、それに即した形で教えなければならないということが小、中、高校にはあります。 それから大きくずれたものは、学校では教えてはいけないのです。

ですから、普通の学校では掃除の勉強や経営の勉強などの授業はありません。

なので、先生が教えていることを、素直に聞いてその通り行っていれば、たとえテストの点数が悪くても、 先生の評価は高いのです。

こういう言い方だと、斜に構えた感じがしてしまいますが、これがいわゆる「学ぶ姿勢の原理原則」 です。

誰に対しても素直に、話を聞ける人は、人からも好かれますし、いろんなことを教われるので徳ですが、 誰の話も聞かなくて自分の話しかしない人は、案外嫌われます。

昔、人材の仕事をしていた時、優秀といわれる学生と、そうではない学生との違いを分析したことがありました。 優秀といわれる学生を端的に表せば、「まじめ、素直、元気」。そうでない学生は、これらのどれか一つがかけていました。

これは企業側が持っている一般的な優秀な学生のイメージ像です。

ただ、この3拍子がそろっていれば、たいていどこでも欲しがります。(当たり前ですが)

であれば、逆に面接のときにその3拍子をうまく表現できれば、いいのではないだろうか?という答えが出るわけです。 (その3拍子のうまい表現の仕方は、また機会があれば…)

人によく見られるアピール方法にも、原理原則がありますが、これも、「朝30分の掃除から儲かる会社に変わる」 の中にありました。

人に対する感受性

  • Posted by: マルコ式
  • 2007年7月22日 18:59
  • 詭弁論考

デザイン・センスやファッション・センス等のように、仕事にもセンスがあると思います。それを強く感じたのは、昔、 東京で仕事をしていた時に入ってきた新入社員でした。
新卒で、入社してきたにもかかわらず、普通に仕事を何でもこなしました。

逆に、だいぶ年上で仕事ができないと言われる人もいます。
この違いは一体どこにあるのでしょうか?

いま思うに、そのセンスの違いは、「人に対する感受性の違い」なのだと思います。

人に対する感受性」とは、他人との接し方やコミュニケーションも含みますが、 もっと大きな意味での感受性です。「場の空気がよめる」とか、 「心中を察する」といったものも感受性です。

表面的なかかわりだけを気にするあまりに、こうした感受性がなおざりになってしまうと、 「場の空気が読めない」とか、「あいつは配慮が足りない」 などと思われてしまいます。

こうしたことは、仕事を通じてのほうがわかりやすいですが、学生生活などでもこの感受性が低いと、 人として嫌われれる傾向があることは、わかっています。そして、それがいじめの対象になってしまうこともあります。

そうすると、人に対する感受性は、生まれつき持っているものなのかもしれないと考えてしまいます。

感受性の強さは人によって違いはあるとは思いますが、最も影響しているのは性格のような気もします。

性格が行動や言動に対しての影響力は、大変高く、心理学の面でそれは昔から言われていることです。その性格は、 3歳でほぼ基本が形作られるといいますが、それ以外の部分は環境がすべて決定するとも言われています。

心理学の分野において、生まれつきの部分を「気質」といいます。そのうえに環境によって「狭い意味での性格」ができあがります。 その上に、さらにその社会によって作られた「社会的性格」があり、もっと上に、現在の役割に応じた「役割性格」があります。

仕事ができる人とできない人の家庭環境について、ちょっと調べたことがあったのですが、どうやら仕事ができるといわれる人は、 家が事業主であったり店舗であったりと、常に人が出入りする環境でした。それに対し、仕事ができないといわれれる人の家庭は、 公務員や教師というのが多かったです。

必ずしも、それがすべてではありませんが、そういう傾向が非常に強いということはいえます。

ただし、それは、ビジネスにおいてという限定条件が付きます。

公務員を親に持つ子は、実はかなり公務員に向いているかもしれませんし、商売人の子が先生になると、大変かもしれません。

蛙の子は蛙。

そんな諺がありますが、ちょっとそれとは違います。

子供は少なからず親の影響を受けて育ちます。それは、そういう環境なのだから仕方がありません。

また、祖父母と同居している子は、親の仕事に関わりなく、感受性が高いという話もあります。理由は、 やはり物心つくまでの間にどれくらいの人に会っているかなのだと思います。

最近、人に対する感受性が低くなった子供や若者が多くなったような気がしますが、それは、 核家族化の影響は必ずあると考えています。

FFS test 2

この前のFFSテストプログラムについて若干変更があります。

というのも、結果がメールで贈られる設定にしてあるのですが、エンコードの問題で、文字化けが発生してしまうというエラーのためです。

プログラムのエンコードは、Shift_JIS使用ですが、ブログがutf-8の設定になっているので、 ちょっとしたところでエラーになってしまうようわけです。

エラーが起こらないように、作りかえるのが面倒なので、もともとのページをアップすることにしました。

組織内特性テスト Ver.1.2

その時のストレス状態によって、結果が違うので、ちょっとストレス感じてるなぁ~と思った時にこそ、 あなたのストレスを調べてみてください。

FFS test

かなり昔に、FFSテストというものをベースにストレスによる組織内特性テストを作ったことがありました。

すっかり忘れていましたが、結構面白いので、やってみてください。


組織内特性テスト


全ての項目にチェックを入れ、 送信ボタンを押してください。
あなたのストレス度と組織内特性が分かります。

お名前とメールアドレスを入力してください(必須)
お名前
メールアドレス

 

NO.
質問
ハイ
どちらかと
いえば
ハイ
どちらかと
いえば
イイエ
イイエ
1
スッキリとした気分で目覚めることが少ない
2
嫌いなことがあると、押し黙ってしまうことが多い
3
ちょっとしたことで下痢や便秘をしやすい
4
友達でも問題があれば、厳しく批判・非難することがある
5
他人の長所・美点を見つけるのが得意である
6
物事の客観的事実と自分の解釈は、はっきり分離している
7
少数派になるより、多数派でいることの方が安心感がある
8
裏切りは、誰であろうとも絶対に許さない
9
花粉症・皮膚炎・風邪などの流行病にかかりやすい
10
人前で話すときは、よく考えてから話すし、気も遣う
11
科学的な事柄の方が文学的な事柄より容易に理解出来る
12
時間の約束には、かなり厳しい
13
疲れやすい体質だ、と感じている
14
思ったことは、すぐ口に出てしまう
15
"相手の言葉を抑えて、自分がしゃべることがよくある"
16
"はっきりした答の出ないことや曖昧なことはとにかく苦手だ"
17
義務や世の中の決まり事は、法律ではなくとも遵守すべきだ
18
相手の話や行動との矛盾や不合理には、すぐ気が付く
19
相手がウソをついているとわかっても、 小さな事なら許してしまう
20
調子に乗るとついハメをはずしてしまうことがある
21
何事にも臨機応変に対処している
22
好き嫌いがはっきりしていて、態度にもすぐ出る
23
じっとしていることは、とにかく苦手だ
24
自分の意見を通すためだけの争い事は、できるだけ避ける
25
自分は心配性だと思うし、人から言われることもある
26
他人と同じ事をする、同じ物を持つのは不愉快で嫌だ
27
頼まれ事は、都合が悪いときでも、なかなか断り切れない
28
何かあると、食欲の有無にすぐ影響する
29
感覚的な話より論理的な話の方が、聞いていて疲れない
30
「おせっかい焼き」といわれることがよくある

      

 

本の買い方

  • Posted by: マルコ式
  • 2007年6月 3日 22:39
  • 詭弁論考

コンピュータのみならず、インターネットに関する様々なHowTo本が出版されている昨今ですが、 それほど迄に需要があるのでしょうか?

ただ、毎月のように新刊が発売されているようなので、需要はかなりあるのでしょう。

そんな、HowTo本ですが、中には全くためにならない本もかなりあります。素人向けの本などは特にそうです。

言葉の説明で終始してしまっていたり、今更…と思うような内容を熱く語ってしまっていたり・・・かなり痛いです。

私の書籍の買い方は、Webで調べて載っていないものや、より詳しく調べたいこと、深く勉強したいものなどを中心に買います。

別に、こうした買い方がいいと言っているわけではありません。ただ、大学時代からずっとそうした買い方をしているので、 それが癖になってしまっています。特に学生時代なんてのは、あれもほしい、これもほしい、でもそこまでお金がない…という状況でした。 しかも、本も買いたい…。

そのころからインターネットを使っていたので、検索で調べられるところまでは調べて、それ以上必要な場合は、 本を買うということを考えるようになったのです。

でも、たいていはインターネットでことが済むケースが多かったような気がします。

社会人になってからは、本を読んだほうがいいという勧めもあって、月に2,3冊は読むように心がけています。 ビジネス書やHowTo本、プラスもう一冊(小説など)というようにバランスよく読めればいいのですが、知識の取り方が偏食気質なので、 ビジネス書だったら、3か月つづけて10冊読んだり、小説だったらそればかりを読んだりしていたわけです。(今もそうですが)

HowTo本を買う時も同じですが、読んでからガッカリするケースも結構あります。

特に、インターネットの分野においてそれが顕著です。

たまに、目から鱗が落ちるようなものもありますが、意外とそうではありません。

1冊から全く何も情報を得ることができなかったこともありました。

それは、どういうことかというと、書いてある内容すべてを、すでに知っていたからです。そんなことってあるの? と思われるかもしれませんが、よくあります。

マンガの新作がでてるとおもって買って帰ったら、実はすでに買っていて、同じ本が2冊になってしまった…。 というような状況に近いでしょうか。

そんな時は、かなりガッカリします。

昔はそんなことがあまりなかったと思うのですが・・・。よっぽど頭が良くなったんでしょうか。いやいや、そんなことはありません。 たぶん、立ち読みをあまりしなくなったからかもしれません。

昔は、立ち読みをして、続きを読みたいと思った本だけをピックアップして買っていました。だから、本屋に行くと、長いんです。

…でも、最近本屋に行ってないことに気がつきました。だから、中身をよく見ずに買ってしまうのかもしれません。そもそも、 本屋で本を買うよりも、アマゾンで本を買うことのほうがかなり多いです。というか、ほとんどアマゾンで本は買います。

簡単・便利というのもあるのですが、何より、本屋に行く手間が省けるから・・・・あれ?

本屋に行かなくなったから、いい本に出会えなくなってしまったという話をしていましたが・・・。

…買い方、それぞの良し悪しをしっかり把握して、本は選びたいものですね。

社会を知っている人、知らない人

  • Posted by: マルコ式
  • 2007年6月 3日 18:52
  • 詭弁論考

詭弁論考を始めたころは、まだ学生だったので、社会のことは色つきメガネで見ているような感じでした。

特に大学生の頃って、厳しさや大変さなんてあんまり実感がないので、とても偉くなったような気分があります。その癖何もできやしない。 言うことは立派でも、何もできない。

でもそんな感じでも、学生だから…と許してくれるわけです。

そう考えいると、すごく、ずるい存在ですね。

しかも、僕などは、かなり小賢しい学生だったので…。

社会人になってから、思ったことは、イメージと全然違う!ということでした。

学生のころは、1億円なんて簡単に働かなくても稼げるものだと、何の根拠もなく思っていたのです。でも、 いざサラリーマンとして働き始めると、1億円どころか、10万円稼ぐのも容易ではない。。。

かなりがく然としました。

そして、社会を知らなかった自分自身が恥ずかしくなりました。

それと、自分は何でもできると感じていたことも幻想だったとこにも気が付きました。自分より出来る人なんて、よっぽどいます。 そんな人たちと出会い、話をすると自分自身がとても恥ずかしくなってしまうのです。

何よりも自分の力のなさを痛感したのは、仕事を始めてからすぐでした。

現実を知ってしまうと、なんとなく大きいことがいえなくなってしまったりします。萎縮しちゃうんでしょうか。

そこが、気持の弱さなのかもしれませんが、社会を知らなければ、いくらでも大きなことやいろんなことを言えるんでしょうね。ただ、 現実を知ってもなお、言い続けられる人は、成功する人なのかもしれません。

詭弁論考再復活!?

  • Posted by: マルコ式
  • 2007年6月 2日 18:31
  • 詭弁論考

詭弁論考というエッセイを学生時代書いていいました。

今でもそれは、 ++ t-empire.com ++内で閲覧可能ですが、今にして思うとかなり恥ずかしい内容も結構あります。

そもそも、詭弁論考というものを始めるに至った経緯ですが、何も初めからテーマを決めて書き始めたわけではありませんでした。 ほぼ思いつきで始めたのが、いつの間にかそんなタイトルを持って身内では少し見てくれる人なども居て、書き続けてきたものでした。

はじめは、ホームページを作る上で、何かコンテンツのようなものがないと面白くないだろう。。。 と思い日記を書くつもりで書き始めたものです。その当時は、今と違いISDNの64Kが最速という時代でしたから、 文字情報を掲載すること=コンテンツだったわけです。ちょうど、楽天やライブドア、GMOなどがサービスオンした時期と同じでしょうか。 徐々にインターネットに関心が高まってきた時代だったわけです。

ただ、日記だとなかなか続かない…。これは、ブログになった今でも同じです。

なぜ続かないか?

日記を書くのがとてもへたくそだということと、自分の日記は絶対に自分で後から読みたくないからです。しかし、最たる要因は、 そもそも僕がめんどくさがり屋だということでした。

だったら、学校で勉強していることをエッセイ調にまとめておくと、勉強にもなるし、知らないことは調べて書けるし、 レポートで使えるようだったら、そのまま提出できるし…と思い、小難しいことをこねくり回して結局結論を得ないまま、 ただなんとなく書いていました。

それは、まさにマスターベーション。

でも、若いころはいっぱいマスターベーションしたほうがいいともいます。

マスターベーションもできないと、いい大人にはなれないと思います(笑

マルコ式ネット白書内で展開するのはどうかと思ったのですが、改めて別サイトにするとめんどくさいし、詭弁論考は、 思いったったが吉日的に書きたいので、一緒にすることにしました。それに、最近かなり勉強不足なので。これを機に、 またしっかりと勉強していこうかと思います。

最後に、詭弁論考の意味ですが、学問領域において、「学」とは学ぶべきに値するもの、「論」とは、語るに値するもの、「考」 とは考えるに値するものだという位置づけがあります。

論考というわけですから、自分で考え、まとめたものを語ることとなります。

しかし、僕は、偉い学者でもありませんし、学歴も学士どまり。(学生時代はそれすらありませんでしたが)偉い人から見れば、 そんなものは「詭弁」だと言われるかもしれません。だったら、初めから、「これは詭弁ですよ!」と言っておこうかと思いまして、 こんなテーマになってしまったわけです。

斜に構えていることがカッコいいなどと思っていた時期のタイトルですが、響きが気に入っているので、再度使ってみようと思いました。

宇宙は一定ではない。

  • Posted by: マルコ式
  • 2006年5月20日 21:04
  • 詭弁論考
アインシュタインは、はじめ宇宙は一定であると言いました。しかし、ハッブルは、宇宙観測を踏まえたうえで、宇宙は増長しているといいました。 アインシュタインは、うっそだ~。と思いました。ハッブルは、そんなことを言うなら一度遊びに来てみなよ。といいました。そこで、アインシュタインはハッブルのところに遊びに行きました。 確かに宇宙が増加していることを目の当たりにして、こういいました。 「間違ってた。ごめんなさい。」 アインシュタインは、相対性理論でもともと有名でしたが、そのアインシュタインを黙らせたことで、ハッブルも有名になりました。 現在も、地球の衛星軌道上に浮かぶハッブル宇宙望遠鏡に名前をとどめています。 ちなみに、この望遠鏡は衛星軌道上にあるため、地球で最も高い位置にあり空気のよどみなどを気にすることも無いので、かなり鮮明な宇宙の様子が観測することができます。

いつまで謝ればいいの?

  • Posted by: マルコ式
  • 2005年7月22日 22:29
  • 詭弁論考

先日の日曜日、朝からやっている討論番組を見ていたところ、ちょうど、日中の歴史教科書の問題を取り上げていました。

「正しい、歴史を教えなければならない」
「中国や韓国にもっと配慮をしろ!」
「日本がやったことは許せない!」
「いったいいつまで謝り続ければいいのか?」

大体こんな議論を繰り広げていたかと思います。

確かに中国人や韓国人の中には、日本に対して不快感を持っている方もいるかもしれません。ただ、 すべての方が日本に対して負の感情を抱いているわけではありません。(日本人にも、中国・ 韓国人に対してよく思っていない人もいるのでお互い様だと思いますが)

最近、仕事・プライベートを通じて中国の方とよくお話しする機会がありますが、 テレビでいわれるような印象を持つことはほとんどありません。たまたま、そういう人たちに恵まれているのかもしれませんが、 少なくとも私の知っている方々は非常に紳士的で人なつっこい性格をしているとおもいます。テレビなどのメディアでは非常に、 感情的な部分しか映し出しませんので、中国・韓国人は日本のことを嫌っているのでは?
と錯覚させられてしまいますが、実際は一部のようです。
(この話は、中国人から直接聞きました)

その一部の運動として記憶に新しいのは、学生の半日運動がありました。
突然、あのようなことをメディアで放映さえるとセンセーショナルな話題になってしまいがちですが、 実は日本でも同じような学生運動はありました。ちょうど、高度経済成長期の真っ只中で今の中国の状況とよく似ていると思います。 今回の今回の件もある程経済的にも余裕が出始め
てきたときに起こる一種の麻疹のようなものなのかもしれません。
(それだけ中国も成長してきたともいえます)

ただ、この運動の根底にあるものは、戦争責任の問題です。
いつも、事あるごとに問題になってきていますし、いつまで経っても、前進しないのではないか?と、よく思います。
日本は、戦争責任をどう考えているのか?と問われれば、これまでも何度も謝ってきたじゃないかと有識者は反論します。

ただ、この「何度も謝ってきた」や「いつまで謝り続けるのか?」
という言葉は、はっきり言って反省していないようにとられても仕方がないと思います。

誰か大切な人に謝るとき、「もう謝ったから、謝ることはない。」と思うでしょうか。
もしくは、「自分が何かされたとき、何度謝ればいいんだ!?」といわれて素直に許せるでしょうか。

友達でも、恋人でも、親でも、兄弟でも、旦那さんでも、奥さんでも自分が悪かったと思ったら、 許してくれるまで謝るのが普通だと思います。
そこで、「もう謝ったからいいだろう。」とか、「何度謝れば気が済むんだ。」といわれてうまくいくとは到底思えません。

国と国といっても、結局は人と人なのですから、気持ちは同じでなくてはならないと思います。文化が違うからとか、 価値観や考え方が違うからという前に、中国人も韓国人も日本人も一人の人間です。

中国も韓国も日本よりも歴史は長いのです。口先だけでの謝罪は、簡単に見透かされます。
「何回謝らせるんだ?」というのは、逆ギレというもの。
「何度言わせるんだ?」と向こうは思っているはずです。

ちゃんと誠意を持って謝ればいいじゃないですか。
許してもらえるまで何度でも謝ればいいじゃないですか。
毎年、首相が謝罪に行けばいいじゃないですか。
国家元首の前に一人の日本人であり、人間なのですから。

そんなことを思ってテレビを久しぶりに見ていました。

3年たって見えてきたこと

  • Posted by: マルコ式
  • 2005年4月21日 22:22
  • 詭弁論考

いつ間にか入社して3年経ってしまいました。
何かとてもあっという間に過ぎたような気がします。

今だから告白しますが、実は一度だけ辞めようと思ったことがあります。
入社して直ぐの夏だったと思いますが、社長にその旨を相談しました。
そのとき、言われたことは
「今、辞めても何にもならない。最低でも3年は勤めなければならない。」
ということでした。
そのときは自分にとってはとてもしんどい状況で、仕事をすることが辛くてたまりませんでした。ただの逃げとして辞めようと考えていたのです。 しかし、社長に説得され、とりあえず辞めずにいることにしました。
自分にとってそれが最良の選択だったのかそのときは悩みましたが、今はそれが最良の選択だったと思えます。

初めは誰もが新入社員で、上司と部下(自分)の関係だけで、それまでの学校の先生と生徒(自分)の関係と、 上下関係で自分が下という意味では、ほとんど変わりがないのです。そうした関係においては上にだけ気をつかっていれば良いので、 割とうまくできる人もいるかもしれません。ただ、自分が上の立場(先輩や上司)になったとき、初めて壁にぶつかると思います。 他の人はうまくやっているのかも知れませんが、少なくとも僕はぶつかっています。そして、 こうしたことが一番の勉強になるのだと感じています。よく、マネジメントの本やいい上司とは?というような本が多数出ていることを考えると、 たいていの人がここで壁にぶつかるということなのかも知れません。

初年度から、上司ということもあるかもしれませんが、どんな会社でも 普通に入社すれば、同じようなステップになると思います。 最低3年は・・・ということの裏には、こうしたことも経験できるからということもあったのだと思いました。
1年や、2年目ぐらいで辞めていれば、こうした経験はできませんし、 転職を繰り返していれば、同じところをぐるぐる回っているだけです。
派遣もそういった意味では、人の成長を阻害する良くないことなのかも しれません。 職業選択の自由などと自分の権利ばかり主張しても何もなりません。

また、今の会社も若手を育てることをしないところが多いようにも思います。大抵理由を聞くと、「今の若い人は直ぐ辞めるから・・・」 確かに、そういった一面もあるとは思いますが、 そういってすぐに辞めるからといってそれを許してしまっている会社にも問題はあるのではないかと思います。 うちの社長のように引きとめたのでしょうか。
引き止めてくれる人がいれば、留まることも少しは考えるはずです。

またもうひとつ、3年経って見えてきたことがあります。
それは自分の志向性というところです。
もともとなんでもやりたいという気持ちで入社しましたが、裏を返せば、 自分は何が出来るのか?何に向いているのか? が分からなかったのです。
ただ、この3年間いろいろな仕事をさせてもらい、自分の志向性がなんとなく見えてきたと思います。自分の得な分野、不得意な分野、 興味のある分野、あまり興味の無い分野などが見えてきました。許されるならば後数年は、得意分野を伸ばして行きたいです。もちろん、 それが会社にとって有益なものであることが前提ではありますが。

会社では、パソコンのスキル的なことも身につくかもしれませんし、 いろいろ知らないことや経済のことなども勉強になるかもしれませんが、一番勉強になるのは、人間関係です。
人との関わりの中でしか、人間としての成長はないと思います。多様な関係を生み出すのが会社であり、 その関係が経済や社会を形作っているのだということです。仕事をするということは、 与えられた業務だけを遂行するということだけに限定されるわけではなく、人との関わりの中で、 自分を成長させより大きな仕事に携わっていくということなのかもしれません。たいそうな事を言いますが、正直、 まだまだ自分は良く分かっていないと思います。

これからも益々、自己研鑽の日々です。

処方箋

  • Posted by: マルコ式
  • 2005年3月31日 22:20
  • 詭弁論考

「何で生きているのだろう?」
そんなとりとめもないことを考えていた時期がありました。
もしかすると、そんなことを考えている人は世の中結構多いのではないか?
と最近思いました。

日本映画や文学小説などでも若者の苦悩について描かれているものは意外と多いです。それに共感する人もまた然り。

自分自身を振り返ってみると、中学3年ごろからそんなことを考えていたような気がします。発端は、「何で受験なんてあるんだよ?」 というところだったと思います。(もともとそんなに勉強は好きではなかったので・・・)そこから、人生って何?というような疑問や、 何で生きているんだろう?、この先どうなるんだろう?という不安で苦しんでいきました。

高校に入ると、倫理という授業があり、そこでいろいろな哲学者の話が出てきました。今でも記憶に残っている言葉は、ソクラテスの 「よく生きる」という言葉です。よく生きるというのはシンプルな言葉だけに、人によって捉え方はそれぞれだと思いますが、 誰かの解釈ではなく、自分自身の解釈が必要な言葉でもあると思います。

今でもこうした哲学や、人の考え方を知ることは楽しいですし、好きですが、以前ほどそれに没頭することはなくなりました。 いろいろと病んでいたのかもしれません。

たまに、こうした話をすると自分もそういう時期があったという人が周りにはいました。ただ、時間がたつにつれ年齢を重ねるにつれ、 こうした悩みもなくなっていくのも確かです。
遅いか早いかは、人それぞれだとは思いますが、僕の場合、中3から大学卒業までそんなことばかり考えていました。
ただ、仕事をし始めてからはそうしたことを考える時間がなくなり、次第に考え方も変わって、こうしたことでは悩まなくなりました。 そうした疑問を考えられるのは無駄に時間があったからなのだと、今は思います。もともと、学校(School) はギリシャ語のスコラーから始まったといわれますが、その意味は暇な人です。学問は暇な人が行うのです。 今でもそれはあまり変わらないかもしれません。
昔も今も、暇な人が集まってとりとめもない話をしているわけです。

最近はニートという言葉が流行り始めましたが、その考え方の根本には、こうした悩みがあるのではないかと思います。ちょっと前は、 自分探しと称して突然どっかへいってしまう人もいましたが、自分自身は常にそこにいるので、わざわざ探しに行く必要はありません。と、 思うのはそうしたことで悩まない人です。

ただ、悩んでいる人にとってはそれは大問題なのです。人間は、自分の考えを言葉にし、それを行動に移すことで生きています。 いわゆる成功哲学と呼ばれる本には、成功した自分をイメージしそれを紙に書いて言葉にすることが必要だとあります。
逆に言えば、考えがまとまっていないうちは言葉にもできず、行動にも移せないということでもあります。
自分が何を目指しているのか?何をやりたいのか?それがわからないうちは思い悩むわけです。そして行動に移せない。まるで、 初恋で悩んでいる少女のように。ただ、その少女はこのままではいけないと気がつくのです。
そして思いを告げる。
大抵はじめてはうまくいきません。
僕の母親は、「初恋は実らない」と断言していました。
(何か昔あったのでしょうか?それ以上は聞けませんでしたが)

ただ、そうして傷つきながら少しずつ学んでいくのだと思います。成長するには痛みが伴うものです。 身長が急激に伸びる成長期などは関節痛で夜も眠れない人もいたりします。体の成長でも痛みが伴うのですから、 心の成長にももちろん痛みは伴います。ただ、その痛みを我慢して耐えることができるかどうかが肝心なのだ思います。 成長するには耐えるしかないですが。

本当の自分と向き合うには、こうしたことから逃げてはいけないと思います。つらいこと、 しんどいことから目をそむけるといつまでたっても成長はできません。同じ輪の中で回っているハムスターと一緒です。先に進もうと思ったら、 その輪から出なければ先には進めないのです。

環境を変えることもひとつの手段だとは思いますが、自分自身が変わらなければ、 いくら環境が変わったところでまた同じことが繰り返されるだけです。逆に、自分自身が変われば、おのずと環境は変わっていきます。 自分自身が変わるということは、「自分の考え方を変える」ということです。先にも述べましたが、考え方が変われば、言動が変わり、 行動が変わります。行動が変われば、おのずと環境は変わっていくのです。

ただし、いくら考えても答えの出ない問題もあります。
こうした問題は、時間が解決してくれるか、もしくは別の解決手段をとらなければなりません。
別の手段とは、考え方を変えるために行動するのです。
とりあえず、やってみる。
やっているうちに答えが見えてくる場合も多いです。

これまで、何人もインターン生を紹介してきましたが、はじめは考えがまとまらない人だったとしても、 やっているうちに自分自身の考えがまとまり、自分のやりたいことが明確になったという人がたくさんいました。そして、 生き生きして輝いている人になっていくのを傍らで見ていました。

ただ、何か始めるということは非常にパワーを使いますし、簡単なことではありません。中には一人で始める人もいますが、 そういう人は会社を作ります。そうしたバイタリティがすべての人に備わっていればよいのですが、現実はそうではないのです。
進もうと思っているが、一歩が踏み出せないでいる人。
進もうと思い始めた人。
思い悩んでいる人。
こういった人のほうが多いと思います。

よく学者は外来語を使いたがります。
「フリーター」、「ニート」、「リストラ」、「モラトリアム」など。
大学という概念は外から入ってきたものなので仕方がないのかもしれませんが、それでは問題を直視できていないようにも思えるのです。
日本人は日本語のほうが理解しやすいのは明白です。
わざわざ外来語を使う必要はありません。そんなかっこいいものではないのですから。

近年、どんどん自分自身の選択肢が増える一方でますます混乱に向かっているのも事実です。ただ、 そのまま何もせずに見ているだけではそこから抜け出せません。そこから抜け出したいと本当に思うのなら一歩を踏み出す勇気さえもてれば、 すべてがよい方向に向かっていくはずです。

困ったことは起こらない

  • Posted by: マルコ式
  • 2005年2月10日 22:16
  • 詭弁論考

最近、銀座まるかんの創業者である、斉藤一人氏の本にはまっています。「変な人が書いた成功法則」、「人生全部がうまくいく話」、 「変な人が書いた驚くほどツイてる話」などを執筆しております。
また、全国高額納税者番付に11年連続で入っています。

もともと、うちの社長から「人生全部がうまくいく話」を薦められましたが、 一冊読んでみて非常に面白かったのでほかの著書にも手を伸ばした次第です。

その中で、非常に気に入っているところがあります。
「困ったことは起こらない」と考えること。
詳しい内容は本書を読んでほしいのですが、困ったことは基本的に起こらないというのです。 困ったことにしているのは自分自身がそう思うからだと。
確かにいわれてみれば、困ったことというのは自分自身の問題で他人にはあまり関係ないことだったりします。しかし、 そうした自分自身の問題なのに、「あいつは困った奴だ」とか、「あいつのせいで困ったことになった」などというのです。 自分自身にも当てはまることだったので、正直ドキッとしました。僕も常に困ったと思うときは、何かのせいにしていました。

ただ、そうした思考回路では何も生み出さないのです。
結局、堂々巡りで自分一人で悩むことになるのです。
それに気が付かされました。

困ったこととは思わずに、自分自身の問題として捉えることができるようになれば、 その問題を解決するためにいろいろとアイディアを出さなければなりません。
そうしたアイディアが、問題を解決してくれるのです。
斉藤氏は「知恵」と呼んでいました。そもそも何もないところからは何も出ないといいます。温泉が出たのはそこに源泉があったからであって、 何もないところからは温泉はでません。「知恵」も同じでもともと自分自身が持っているものですが、それに気が付いていないだけなのです。

僕は、昨年仕事上でいろいろと凹むことが結構ありました。
そんな時の思考回路はネガティブ(否定的)になりやすいものです。
ただ、否定的な思考回路でいるとまた違った問題が自分に降りかかってきてどんどん駄目な方向へと流されてしまいます。 困ったことを困ったことと認識しているうちは、それが立て続けにやってきます。面白いもので、そうしたものを何かのせいにしているうちは、 また同じようなことが起こるのです。昨年はそんなことがあまりにも多かったので、笑ってしまいました。
「これだけ、立て続けに起こるってことは逆にツイてる」と思えるようになったのです。それからは、 ほとんどそういったことは起こらなくなりました。もしかすると、起こっているのかもしれませんが、 僕が困ったこととしては捉えなくなったのかもしれません。

ただし、完全にそう思えるようになったか?というとまだまだそうではありません。たまにまた古い考え方になってしまうときがあります。 そんな時は、似たような問題にぶち当たるのです。

人の考え方は千差万別かもしれませんが、楽しく生きていくためには、楽しく考えることが必要なのだと思います。 シンプルにそしてポジティブに。今日は、天気がいいな。それだけで楽しくなれるように。今日は、雨が降っているな。それでも楽しめるように。

仕事は本当にいろいろなことを教えてくれます。
学校へ行って勉強するとお金がかかりますが、仕事はお金を頂きながら勉強ができるのです。教科書や本、 インターネットには載っていないこともたくさん教えてくれます。僕は、基本的に仕事が好きなのだと思います。親、 兄弟からは働きすぎなんじゃないか?とよく言われますが、僕より働いている人なんてもっともっと多いはずです。 その人も仕事が好きでやっているのだと思います。好きなことができるのは、幸せです。世の中には働きたくても働けない人だっているのです。 そうした人の分まで働けるというのは本当に幸せです。

反省と改善

  • Posted by: マルコ式
  • 2005年1月27日 22:13
  • 詭弁論考

ジョイブに入って早3年になりますが、自分自身まだまだだと昨年のことを反省しつつ、想っています。

1年目、2年目は仕事はそつなくこなしていたと勝手に思い込んでいました。人数も少なく、 自分の枠内だけで仕事をしていたのだと思います。しかし、昨年は人数も増え仕事の量もかなり増えました。
実際、自分ひとりでは回しきれないほどの仕事をしていました。

それは自分の仕事力のなさがはっきりと露呈した瞬間でもあったと思います。それまで、自分は出来ると思い込んでいましたが、 ある一定の容量を超えると仕事が出来ない自分に気が付きました。
ミスは多く、周りの人にも迷惑をかけ、それで落ち込んでその様を見てまた周りの人が気を使い。。。
そんなマイナスな状況ではっきりと分かったことは、出来ないことをやろうとすると、いろんな人に迷惑をかけるということです。
それは、自分の力量のなさなのかもしれません。または、時間的余裕の無さなのかもしれません。
自分の力量のなさであれば、一層努力し仕事力を上げれば事足りると思いますが、時間的余裕の無さはどうすることも出来ませんでした。

能力は努力した分だけ公平に与えられますが、時間だけはどんな人にも平等に与えられた唯一のものだと思います。

能力差があるのは、先天的な理由もあるとは思いますが、努力しなければそこから伸びません。だから、 努力した分だけ公平に与えられるものだと思います。
一方で時間はどんな人に対しても地球上にいる全ての人に対して平等です。1日24時間は誰もが同じだけ持っています。
時間を縮めることも伸ばすことも出来ません。

そう思っていました。。。

ただし、時間の使い方は人によってまちまちです。
上手に時間を使う人、無駄な時間を過ごすことが多い人。

時間的余裕のなさは、時間が足りないのではなく自分の時間の使い方が甘いから足りなくなるのだと思うようになりました。
時間がないというのは、その人の言い訳でしかなく他の人にとっては関係の無いことです。
例えば、学校であれば先生にとって生徒は大勢の中の1人なのかもしれませんが、生徒にとっては、先生は1人なのです。
学校の先生は、生徒の為に夜遅くまで仕事をしていたり、休日返上で部活の顧問をしていたりと非常に忙しくしていますが、 そんな状況でも学生に対して忙しいからという言い訳はしませんでした。
少なくとも僕が尊敬する先生はそういう人でした。

自分を正当化することを覚えてしまってからは、何かに理由をつけて、逃げみちをうまく作っていたのだと思います。

僕は弱い人間です。
弱い人間だからこそ、傷つきたくないから自己正当化をすることで、自分を守っているのです。
ただ、このことはなかなか1人では気付きませんでした。
いつの間にか、そういうことを覚えてやっていたのだと思います。
今思い返すと、「丸子さんは最近怒られないでしょう」といわれた言葉の裏にはこうしたことが含まれていたのかもしれません。
その時は、「確かに怒られませんね。」と返して心の中では、「今更怒られることもないだろう」と思っていました。
でも実は、そういうことを言っていたのではなく、自己正当化し、自分自身を守ることを知ってしまっているので、 何を言っても無駄だと思われていたのかもしれません。だから、怒られることも怒ってくれる人もいないでしょう。 という意味だったのだと思います。

自分のコップには既に水が一杯に入っています。
昨年は、その水を無くさなければならないことに気が付きました。
今年はコップを空っぽにして、新しい水を入れなおさなければならなりません。コップに水はそのまま貯めておくと濁るように、 人の心も同じだと思います。濁った水を捨てなければ、新しい水は入れることが出来ません。
そして、新しい水を入れることが成長なのだと思います。

かっこいい男の条件

良い男、かっこいい男、男が惚れる男の、条件ってなんだろう?
顔が良い?スタイルが良い?お金持ち?頭が良い?運動神経が良い?優しい?力強い?そんなものじゃないと思う。

それは、女が決める打算的なかっこいい男のことだ。
そんなものは、本当のかっこよさじゃない!

本当にかっこいい男は、渋くて、二枚目じゃなく、男くささが、体全体からかもし出しているけど、別にそれを嫌とは感じさせないものをもっている人が、本当のかっこいい男だと思う。
そんな奴はたぶんいないだろう。

でもそれに限りなく近いのが、ルパン3世じゃないかと思う。

それが、ルパンを時代遅れのダサいオヤジアニメにしない理由だと思う。
え?時代遅れで結構ダサいのじゃないの?と思う人もいるかもしれないが、そこもまた、かっこよさの中に組み込まれている。「ダサかっこいい」という言葉を ご存知だろうか?ダサいけどかっこいい!はっきり言って意味がわからない。

変な日本語であることは確かだ。けれど、その表現が語っているものは、それがどういうものなのかワカル人には、通じる言葉である。言葉は、「そのものが持っているニュアンスを伝えるための道具なのである」ニュアンスを伝えるために、いろいろな言葉がある。
いまや死語になった、アンニュイなんかも、元はフランス語である。
ケセラセラもスペイン語だし、クールな~とか言う使い方も、英語からだ。(e.g.クールなサウンド)
言葉は伝われば問題ないのである。渋谷に出没する最近はあまり黒くない派手なティーンエイジャーが使う言葉は、はっきりいて何を言っている解からない。

そ れでは言葉の意味をなさないのである。何を言っているのかわからなければ、解かろうとする努力をするが、ボディーランゲージや、リアクションを見ても何を 言いたいのか伝わってこない。(外国人は大体理解してくれるし、こちらもなんとなくわかる。)
たまにテレビ番組で、解説しているのを見たりするが、新しい言葉は、どんどん出てくる。
新しい物が出れば出るほど、結局人の脳裏には焼きつかないものなのだと思う。
「ダサかっこいい」も、知らない人には通じない言葉なので、なんとも言えない。
「益荒男ぶり」というものにかっこいい男の全てが入っているといっても、多くの人は、何を言っているのか分らないだろう。

分りやすく表現するというのは、実は至難の業なのだ。
本当にかっこいい男は、言わなくてもそれと判るものなのだと思う。

な~んて、まとまってないか・・・?

 

「かっこいい」で検索に出たもの(提供:アマゾン)

クラシックの名曲


そういえば、結構前に予告しっぱなしの
物があったので、今日は
ずっと延期になっていた
T.E.が独断と偏見で選ぶ<クラシックの名曲>
についてやりたいと思います。
たぶん、このページを見ている人は、あんまり
聞かないと思うけど、聞いてみるとすごく良かったりするのだよね。
じゃ、まずは導入編ということで、メジャーな奴から紹介していこうかな?
誰でも知っているものでいくと、やっぱ教授こと坂本龍一は外せないでしょ。エナジー・フロウとかセン・メリ(戦場のメリークリスマス)は、いつ聞いてもいいものね。
個人的には、Y.M.O時代の"トンプー(東風)"なんか好きですけどね。知っている人は知っているのだけど・・・。
でもこれらは、結構最近のものだから親しみ深いよね?
最近つながりなんかで行くと、姫神アディエマス東儀秀樹ヨーヨー・マなんかもそれぞれ味があっていいよ。
ホントのクラシカルな音楽で言うと、
ベートーベンの「交響曲第9番 第四楽章」なんか年末に聞くと、
「あぁ、今年も終わるのだなぁ~」
なんて思っちゃう。
オルフの「カルミナ・ブラーナ」ははじめて聞いたときの感動が、今でも残っている。あれにはホントに衝撃を受けた。
一時期、ハマッタのが、エリック・サティだった。
ジムノペディ」とか、「グノシエンヌ」、「おまえが欲しい」などは、名曲中の名曲だと思っているし、
エリック・サティ関連のCDは4,5枚持っているぐらいだからね。
そういえば、この前アディエマスのⅣって言うCD買ったけど
まぁまぁだったな。
NHKスペシャルで使われていた「世紀を越えて」(Beyond the Century)は最高に良かった。
あれは、これからも聞かれつづける一品だろう!
J.シュトラウスの「美しく青きドナウ」と、R.シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」は2001年宇宙の旅
スタンリー・キューブリック)をどうしても思い出しちゃうのだよな。あの映画も結構面白かったけど、
2001年って来年だし・・・。
結局、20年前とあんま変わってないような気がするのは、
僕だけでしょうか?だって、みんな銀色の服着てないじゃん!スペース・シップが、一家に一台ないじゃん。
そうそう、マイケルナイマンの「悲しみを希う心」(映画:ピアノレッスン)も友達に結構好きな奴がいて前、家に遊びにきた時ずっとリピートしていたな。
シンドラーのリストのテーマ(ジョン・ウィリアムス)は大好き!あぁ、もう一回シンドラーのリスト見たいな・・・。
こう考えると、面白い映画ってサントラにもこだわっていることがわかるね。
なんか、途中から脱線してしまったけど、
このまま書きつづけたら、終わんないような気がするから、今日はこれでお開き!
ジャン、ジャン!

ホームスタジオについて

<ホームスタジオが欲しい今日この頃>
という、題ではじまった今日の企画。
はっきり言って、どうしようもない感じなのですが、
それでも話を続けていきたい。
最近は、有名なアーティストも、自宅で録音している時代である.
有名どころで言うと、ドラ〇ン・アッ〇とか、ブンブン・サテライツ、オリコンの上位にいる某グループなどである。
ドラ〇ン・アッ〇や、某グループなんかは、ある程度作った後、最終的にはスタジオで録音するのですが、
ブンブン・サテライツは、イギリスのロンドン、ブリックレーン通り沿いにあるトルーマン・ブレヴェリービルにプライベート・スタジオをもつ。(カッチョいい!!)
海外での活動(主にヨーロッパ)が多い彼らにはちょうどいいのかもしれない.
でも、プライベート・スタジオをもてると言うことは、かなり稼いでいると言うことでもある。
まぁ、なんでもそうだが、ただで出来るものは何もない。何かしら、金はかかるものなのだ.
スタジオを作る際に当たって、必ず最初にしなければ、ならないことは、箱作りである.
内装を作り変えるだけではなく、防音効果を設置しなければならない.
その費用は、大きさによって異なるが、最低二百万はかかる。それに加え、スピーカーから、アンプ、内装をはじめ、
スタジオで使用する機材などを加えると、家が一軒立ってしまうほどかかるのだ.
まぁ、でもこれは、普通に考えてえられる答えである.
音楽機材はいくらでもコスト削減の対象になる。
防音効果も、あるていど最初からあるマンションを選べば、それほど問題にならない.(しかしそれが問題とも言える)
スピーカーやアンプは、こだわり始めるときりがないので、最低でも20万ぐらいは予算に入れておきたい.
それなら、新車(大体クレスタぐらいかな)が買える程度で抑えられるはずである.
実際にやってみないとわからないと言うところもあるが、
今は、新車を買うのだったら、プライベート・スタジオが欲しいかな
なんて夢見たいな話でした。

テルミン


テルミンについて、問い合わせが殺到(?)したので、
今日は、うわさのテルミン(??)について、
まどろむ記憶を頼りながら、皆さんにお送りしたいと思います。 私の記憶だ確かならば、(料理の鉄人風)Dr.テルミンという人が、作った世界最初のシンセサイザーだと、お思います。 形は、箱から棒が2本出ているという特殊な形態をしています。
そして、その2本の棒から電波を出して、その間を手で弄くる(なんか変な表現だが)音色がかわるという(一応)楽器です。 何で、その間を行ったり着たりすると、音質が変わるのかというと、わかりにくい例ですいませんが、昔、ラブテスターというインチキマシーンがありました。
それは、愛し合っている男女が、手をつないでラブテスターから出ている、棒を互いに持つとラブテスターのメーターが上がるという全く子供だましの玩具が あったのです。 僕は、世代が違うので、やった事は有りませんが、(じゃぁ、なんで知っているかは聞かないでください)それと同じ原理なのです。 テルミンも2本の棒から、電気を流して、その間で電気の流れを変えてやることで、音が伸びたり縮んだり、唸ったりするわけです。
 
現在のシンセサイザーは、原理的には同じなのですが、そのうねりを出すことを機会が、やってくれているのでツマミをひねると、音質が変わり(アナログシンセサイザーの場合)ボタン一つで切り替えが出来るわけ訳です。 確か、本当の形のテルミン持っているのは世界で数人しかいないと聞いたことがあります。
その一人が、コーネリアスの小山田圭吾だとか違うとか、
でも、原理さえしっかりわかっていれば、今なら作れない代物では、ないと思います。(かといっても、僕は作りません)
なんか、話がかなり長くなってしまいましたが、
明日もこんな感じになるかも・・・。

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