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マルコ式社会学 Archive
風が吹いたら桶屋が儲かる
- 2009年2月 1日 10:27
今の経済状況を見てく上で、風が吹けば桶屋が儲かるという発想を持つことが重要だと考えています。
そのお話を知らない人も居ると思いますので、Wikipediaからの抜粋を読んでみてください。
江戸時代の浮世草子『世間学者気質(かたぎ)』巻三(無跡散人著、明和5年、1768年)が初出である。ただしここでは、「桶」のかわりに「箱」であり、「風が吹けば箱屋が儲かる」などの成句の形では書かれていない。また、『東海道中膝栗毛』二編下(享和3年、1803年)に現れるのも有名で、ここでも「箱」になっている。
今日の大風で土ほこりが立ちて人の目の中へ入れば、世間にめくらが大ぶん出来る。そこで三味線がよふうれる。そうすると猫の皮がたんといるによって世界中の猫が大分へる。そふなれば鼠があばれ出すによって、おのづから箱の類をかぢりおる。爰(ここ)で箱屋をしたらば大分よかりそふなものじゃと思案は仕だしても、是(これ)も元手がなふては埒(らち)明(あか)ず
– 無跡散人『世間学者気質』より, 慣用句辞典より転記。[1]
つまり、
1. 大風で土ぼこりが立つ
2. 土ぼこりが目に入って、盲人が増える
3. 盲人は三味線を買う(当時、三味線は盲人が弾いた)
4. 三味線に使う猫皮が必要になり、ネコが殺される
5. ネコが減ればネズミが増える
6. ネズミは箱を囓る
7. 箱の需要が増え箱屋が儲かる
ここでは、箱屋になっていますが、桶も箱も一緒です。要するにネズミがかじるから必要だろうということなので。
正直、この話には根拠はありません。しかも、そんな話をしたって信じる人は居ないでしょうし、ましてや桶屋を始めようと思う人も居ないはずです。しかし、「風が吹けば桶屋が儲かる」のは0.8%!? 身近なケースで学ぶ確率・統計 PHP新書という書籍も出ているので、一概には言えません。
今世界で起こっている、100年に一度とも言われる不況は、まさにこうした流れが現実になった結果とも言えます。アメリカのサブプライムローンに端を発したところまでは、ニュースでも取り上げられているためわかるかもしれませんが、そのおかげで実は中東のある国は儲かりました。
アメリカが風邪をひいたらドバイが儲かった。
- サブプライムローン問題で、投資家はお金をアメリカから引き上げた
- しかし、投資家はお金を手元に置いておくだけでは稼げない
- 次なる投資先を探していた
- どうやら、原油先物市場でドバイが儲かっているようだ
- それを知った投資家たちはこぞってドバイにお金を流し込んだ
- その結果、ドバイでバブルが起こった
簡単に説明するとだいたいこんなものです。では、もう一つ。
アメリカが風邪を引いたら日本は肺炎になった。
- アメリカがサブプライムローン問題のため不況になった
- 日本はもともと10年以上不況だったが、アメリカにモノを売ってなんとかやりくりしていた
- バブル崩壊後を思い出した
- そのとき大企業が一番困ったのは資金繰り(リストラという言葉もこのとき生まれてる)
- 同じツテを踏まないように自己資金を蓄えておかなければならない
- 海外に投資などの形で置いてあった資金を日本に戻す
- 日本にお金が流れるから円が上がる
- 円が上がると、輸出産業の利益は吹っ飛ぶ
- モノが売れなくなったばかりか、今度は売った分だけ赤字
- 日本の輸出製造業のほとんどは赤字決算
これも、ちょっと極端すぎますが、だいたいこんなもんです。
特に現在のようにグローバルなマクロ経済では、風が吹くと桶屋が儲かるというようなことが現実に起こってしまっているのです。
先行きが見えないとよく言われますが、実際に嘘みたいな話が現実に起こっているわけですから、見えなくて当然です。次何が起こるのか日本の総理大臣にすら予測できていません。
先が見えない不安は、閉塞感につながります。今はそうした中でなんとか先を見ようとあがいている状況です。
日本が今、すべきことは、内需拡大なのです。これまで輸出産業に頼ってきていましたが、それが出来なくなってしまいました。そして円高。輸入を増やして内需を拡大していけば、今度は日本に大きな風が吹いてくると思います。
実は今の日本にはかなりの額のお金があります。それを使わずに居るだけなのです。というか、先が見えてこないから使えないのです。先が見えるのであれば、先行投資もできますが、先が見えない状況ではそれは出来ません。日本の優秀な経営者の多くはそうした状況にあるのです。
そうしたことをふまえて考えていくと、先頃決まった定額給付金はその閉塞感を打破するための風とも考えられます。(もちろん賛否ありますし、消費税引き上げとセットだったり、詐欺の発生も考慮されるため問題は山積みですが)これによって、内需拡大の足がかりになれば、少しは先行きも見えてくるはずです。
内需が拡大し、日本にお金やモノがどんどん流れ込んでくると、今度は国内でバブルが起こります。お金は、儲かっていそうなところを好む習性があるため、世界中から流れ込んでくるでしょう。しかし、その時はいいかもしれませんが、そのバブルがはじけ飛んだとき、日本はより悲惨な状況になります。もしかすると、国そのものがなくなってしまうかもしれません。それぐらいの危機的状況も考えられます。
ただ、今は転換期であるため、どちらに転ぶのかははっきりしていません。
そんなことを考えていくと、「国政とは、国にいかに良い風を吹かせるか」なのかもしれません。
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don’t be evil
- 2009年1月 5日 14:28
Googleのモットーに”don’t be evil”というものがあります。
Web2.0などと騒がれてた2006年頃に話題になったわけですが、今思えば、その真意というのは、Googleが行っていることそのものに対してではなく、組織のあり方ということに対して説いたものだったのではないかと感じます。
性善説と性悪説という人間の根本的問いに対しての一つの答えが、この言葉に隠されているのではないでしょうか?
人間は生まれながらに悪であるという性悪説、それに対して人間は生まれたときは善であるという性善説。
この哲学的問いは、人間と組織を考える上で最も重要なファクターだと考えています。
個々人を見れば悪い人は一人もいないとしても、組織全体では悪であるという出来事が昨年は特に露呈しました。食品偽装や品質管理問題などは、人間個人が行った悪ではありません。しかし、そこで働いていた人たちも悪とされてしまうのが現実です。
組織は、常に悪への方向性と戦い続けなければなりません。それが、組織を永続させていく上で最も重要なことなのです。たった一人が行ったことは、組織内においてはさほど大きな問題にはなりませんが、組織として悪を行った場合、社会に背反する行為としてとられます。
Googleはそうした、組織の持っている内在的悪を否定しているのだと思うのです。
社会に背反した組織だとしても個々人は、善でありまた、悪の意識はないのです。
赤信号もみんなで渡れば怖くないというのが、組織内の心理です。そして、それを一度見逃すと、次第に慣れていき慣習的になり、日常的になっていくのです。
社会学では、犯罪は他者から犯罪者との指摘がなければ犯罪としては認められず、逆に他者から犯罪者と指摘があれば、いかなる場合でもそれは犯罪だといいます。
人間は生まれたときは完全なる善であると、私は考えます。そして、家族、社会、会社、国家といった組織とかかわり合うことによって次第に悪になっていくのだとも思うのです。
真なる善を貫き通す覚悟があれば、まずは、俗世と関わりを捨てることが望ましいでしょう。また、そうしている人はたくさんいます。
人間は生まれながらに罪を背負ってきたのではなく、他者とのかかわり合いの中から罪を学んでいくのです。
昔インドで発見されたオオカミに育てられた少女は、全く罪を持っていませんでした。なぜなら、人間が罪と思うことは彼女にとってみれば、罪ではなかったのです。衣服を着ずに徘徊したとしても、彼女にとってみれば、罪ではないのです。
アダムとイブも禁断の果実を口にしたから、追放されたのではなく、禁断の果実こそが罪の意識だったと神学者は説きます。
こうしたことから、Google自体は、組織として活動する以上、何らかの罪を背をっていることを自覚しているのではないでしょうか。ただし、その罪に溺れ悪になることだけは否定しているだと思うのです。
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人との関わり
コミュニケーションにおいて、重要なのは、質問する力「質問力」だといわれています。
単に「質問」といっても、人によっては千差万別。何が聞きたいかによっても、変わってきます。
相手を知ることはコミュニケーションの第一歩。相手を知り、己を知る。これがコミュニケーションの極意だとも言われます。
質問の仕方には、相手にとって不愉快になるものと、快く話を進められるものがあります。前者は相手にとってネガティブな質問であり、後者は相手にとってポジティブな質問です。
言い方というものがあるわけですが、質問の仕方というものもあるのです。なるべく相手に快く回答してもらうことが、特にビジネスにおいては重要になります。
新聞やテレビなどのマスメディアの記者は、真実を伝えることが使命ですから、必要とあれば、相手が不快に思うような質問でもしなければなりませんし、むしろ単刀直入に、根掘り葉掘り聞きださなければ、短い時間でいろいろと知ることはできません。ニュースがスピードが命ですから、悠長に話を聞いている余裕などはないのです。
でも、そういうことを日常生活で行うとどうでしょうか?高圧的な態度になり必ず相手は不快な思いをするはずです。
質問に関する本は結構出ていますが、相手を引き出す質問の仕方はまさに魔法といえると思います。
同じ記者でも、インタビューをしている人は、こうした相手を引き出す質問のやり方をとります。そこにはニュース性などは必要なく、その人の人間性を伝えなければならないわけですから、いまだ語られていなかったことなどもうまくすれば引き出せるかもしれません。
相手を引き出すという意味合いは、あいまいですがニュアンスは伝わると思います。そのニュアンスがコミュニケーションにおいて微妙なさじ加減になっているのです。
ただ、ここでも注意したいことがあります。それは、引き出し方を間違えると相手を怒らせかねないということです。
いわゆる、地雷を踏んだという状況です。
何気なく聞いたことが、実は相手が一番聞かれたくなかったことだったりする場合と、相手が油断したすきに切りかかるような質問の場合は、相手は自己防衛のために全力で抵抗します。
言の葉だけでは人を殺すことはできませんが、それがめぐりめぐって相手を死に追いやることはあります。アフリカの一部の地域では、今でも呪術信仰が残っており、呪文や呪いの言葉などが存在しています。(コンゴ、サッカー場で11人死亡 呪文めぐり乱闘)
ちなみに、日本でも言霊というものがあり、江本勝の著作の「水からの伝言」は、まさに現代の言霊を表しています。この本は賛否両論ありますが、免疫学でも愚痴や不平不満、人の悪口などを袋に詰めて調べると人が簡単に死んでしまうほどの毒素をもっていると言います。
いつも両親が喧嘩している家の子は、病気にかかりやすいそうですが、両親の邪気を子供が浄化しようとして体を壊すのだそうです。
少し話がそれてしまいましたが、こうしたことも踏まえてもう一度考えてみてください。
相手に好意を持つと、相手も自分に好意をもってくれるわけですが、そこから好意を信頼にしていくことで、より人間関係は深まります。
人の心は見えませんが、人の気持ちは感じることができます。それは、自分と相手を照らし合わせたときに初めてできることです。自分だったどう感じるか?という視点から、相手はどう感じているか?という視点が見えてくるのです。
すると自然に相手にとって悪いことは言わなくなりますし、いやな質問もしなくなります。日常生活でも、ビジネスでも人と関わり合うときはいつでもこのことを気にかけたいものです。
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きらりよしじまネットワーク
今朝、あるコミュニティビジネスについてのセミナーで、山形県川西町 きらりよしじまネットワークの事例を聞きました。
NPO法人として町づくりを行っている団体ですが、活動内容は全国的にも例を見ません。
実際の行っている活動は、社会教育から始まり老人福祉、自主防災、スポーツ振興など多岐にわたります。こうした活動は、ここの団体がそれぞれ行っているというのが本来だと思いますが、ここでは、それらを一つのNPO法人が行っているのです。
また、特質すべきは、このきらりよしじまネットワークには、地区住民2,900名全員が加入しているという点です。もちろん子供からお年寄りまですべての地区住民です。
もともとは、さまざまな会合が乱立し、その役員も重複しているという現状がありました。そして、各会への会費負担もありその会費も余剰金が出てくるという無駄があったそうです。
そうした無駄を是正することから始めたのが、このきらりよしじまネットワークなのです。
この川西町の吉島地区には、30年以上も前から社会教育振興を中心としたボランティア活動がありました。それが、会員制になり、組織的になっていき、他の組織も巻き込む形でこのネットワークが誕生したそうです。
こうした活動は、山形県からも評価され、「2007年 やまがた公益大賞」を受賞しています。
ただし、ここまでの道のりは、決して楽なものではなかったと思います。住民全戸参加という異例のNPOを作るまでには、地域住民からの反対もあったでしょうし、その意義を明確に伝えることも必要だったでしょう。それには、地道に話し合っていくしか方法はないのですから。
しかし、そうしてしっかりと説明してこれたからこそ、自発的な地域という土壌ができたのだと思います。
自律参加型の町づくりにおいて、行政や国が何ができるのか?という地域住民のためという発想ではなく、住民と一緒に何ができるのか?という参加意識の向上があってこそ、初めて実現できることなのだと思います。
また、2,3年前からは、それまでの会費運営だけではなく、収益を上がられるような事業いわゆるビジネスにも積極的に取り組んでいます。そこで上がった収益金は、住民に還元されるという、まさにコミュニティビジネスそのものが行われているのです。
まさにこれこそ、「共有の経済学」のケーススタディとしては、最良のものです。
しかし、こうしたモデルケースは、さまざまな条件がそろわなければ、実現するのは難しいと思います。やっている内容は、すごいけど、じゃ自分のところだったどうするの?
ここで、ポイントを3つにまとめてみました。
- 強い想いをもった人材
一番重要なのは、こうした活動を行える人材です。ただし、どんな人でもいいわけではありません。強い想いをもった人が必要です。これは、町づくりに限らず、起業においても同じですし、何か新しいことを始めようとする時、こうした強い想いがなければ、立ち上げることすらままなりません。しかも、そうした人が3人ほど集まれば、自然と形になっていくでしょう。 - 住民全体の危機意識
実は、川西町の財政危機という話が平成17年ごろありました。このことによって、地域住民たちは、行政破綻という危機意識をもったのです。そして、行政に頼ったそれまでの考え方を転換させざるを得ない状況になったわけです。 - 小学校区という単位
地域の単位において小学校区というのは、意味があります。小学生が徒歩で登校できる範囲に決められているため、都市、農村を問わず徒歩圏域なのです。徒歩で行き来できるということは、いつでもすぐに顔があわせられるという範囲でもあるのです。
すべての地方自治にとって最良の方法かといわれると、賛否はあるかと思います。
しかし、こうした形の自律的な町づくりは、地方財政にとっても大きな手助けになることはもちろん、現在すでに破たんしかかっている自治体では、ひとつの選択肢として考えることも必要なのではないでしょうか。
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共有の経済学
経済学では、経済人が活動することが前提になっていますが、そもそもこの経済人と呼ばれる人は、血も涙もなく人の心をどこかに置き忘れてきた人を指します。
そこまで言わなくても。。。と思われるかもしれませんが、実際そうなのです。そもそもの原因は、経済学の父と呼ばれるアダム・スミスです。
経済人(けいざいじん)またはホモ・エコノミクス (homo economicus) とは、アダム・スミスが考え出した人間のモデルで、経済活動において自己利益のみに従って行動する完全に合理的で冷徹無比な存在。実際の人間の行動を近似したモデル。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
つい最近までは、経済学といえばアダム・スミスより脈々と受け継がれてきたこの経済人が前提での話でした。しかし、2002年に行動経済学の立役者であるダニエル・カーネマンが、ノーベル経済学賞を受賞したことをきっかけに、人の心(心理学)も取り入れた経済学も注目されるようになってきています。(本当に経済人として生きる覚悟ができれば経済的成功はあり得るのでしょうか)
学者の人は、当たり前のことをこねくり回して論文を書くのが仕事などと言っていた人がいますが、まさに言い得て妙です。
Sharism(共有主義)という概念を軸とした、新しい経済の枠組みを説明するには、古い経済学では無理でしょう。しかし、行動経済学ならば説明ができるはずです。
最近よく耳にする言葉に、コミュニティビジネスというものがあります。
その概念は、
地域の市民が主体となり、地域の資源を活用して、地域の抱える課題をビジネス的手法で解決し、コミュニティの再生を通じて、その活動で得た利益を地域に還元すること。
ということですが、これは、官公庁がこれまでと同じように財政支援ができなくなってきたため、オブラートに包んだ言い回しだと私は理解しています。タテマエビジネスというといいすぎかもしれませんが、そんな印象を受けています。
ただ、その根底にある考え方は決して悪いものではありません。また、その根底には、やはり共有主義があると思います。
一方、企業側でもCSR(企業の社会的責任 - Wikipedia)やフィランソロピーという活動が行われています。アプローチの方法は違えど、実はコミュニティビジネスと同じところを目標としています。
もちろん、これだけで体系だてた説明はができるわけでもなく、あくまでも事例の一つですが、こうした現象を共有の経済という視点で探していくと、いろいろと見えてくる部分も多いはずです。特に、人間社会において共有するという概念は、文明とはかかわらずさまざまな社会構造の中で見出すことができるはずです。
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Sharism(共有主義)
ワークシェアリング、カーシェアリング、ルームシェア、共同購入など、共有するという概念が最近いたるところに派生しています。
英語のShareは、分担とか分け前、共有、分配という意味合いですが、インターネットの世界では、共有という意味合いで用いる場合が多いと思います。
そもそも、最近こうした概念が派生したバックボーンにはインターネットの存在が大きいのではないでしょうか。知識の共有、動画、音楽といったコンテンツについて共有することを目的としたサイトが多く存在しますし、そもそも、インターネット自体も、知識の共有を目的とした技術だと思うのです。
物質に価値を見出した時代では、共有という発想は持ちにくく、占有が基本でした。あの人が持っているものが欲しいという人間的欲求にこたえるべく、多くのものが生み出されそして消費されていきました。
しかし、昨今の世界経済情勢、長期にわたる日本経済の低迷が、新しい価値観を生み出していたということに、最近、あらためて気付かされたのです。
ブログで、こうして書いていることも結局は知識の共有につながっているわけですが。
この新しい価値観は、より多くの場面で用いられることが、予測されますし、そうしていかなければならないのではないかとも思います。
知識や、知的生産物はもちろん、実質的な物についてもです。
社会主義という思想もありましたが、それとはまた別の概念のような気がします。人間の進化は螺旋の上に成り立っているとすれば、社会主義からもう一歩進んだ概念なのかもしれません。
それを可能にしたのは、間違いなくインターネットですが、その考え方は、ネットのあちら側だけにとらわれることはないのです。むしろ、現実社会、実質経済においてより活用されるべきなのだと思います。
そのためには、他人を受け入れるという発想が不可欠です。個人のものではなく両者のものとして存在するわけですから、相手を受け入れられなければ、そもそもこの概念は成り立ちません。家族という枠組みにおいてはそれが実践されていますが、それは相手を受け入れているから可能なのです。
実は、日本の古き良き時代においては、それが実践されていました。とくに農村部において。特に稲作は、今ほど機械化も進んでおらず、田植え・稲刈りの時期には家族はもちろん、親戚縁者、近所の人までを巻き込んで行っていたほどです。また、葬式も近所の人が手伝いに来るというのが当たり前で、今のようにセレモニーホールを使っていたわけではありません。
これは、モノをシェアするとは若干違いますが、時間をシェアしています。人生において時間ほど価値のあるものはないわけですが、まさにものよりも大切なものを共有していたわけです。
小さい枠組みにとらわれず、インターネットを使ったより大きな枠組みへの取り組みも実はすでに行われています。
シェアモ(ShareMo):ソーシャル・シェアリング・サービス
このサイトは、日本中の人とモノをシェアし、何でも使ったり、使わせてもらったりするサービスとして、今注目を浴びています。
もったいないと困ったときはお互い様という2つの言葉の上に成り立っているといえば、日本人にとっては分かりやすいかもしれません。
今まさに、こうした動きが日本で起こっているわけですが、これを世界に広めることができれば、新しい世界観が見えてくるのではないでしょうか。
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専業主婦とフリーターとニート
この違いがよくわかりません。
私には、すべて同じに見えてしまうのです。
嫁に行った妹が、友人の結婚式ということでかえってきていますが、結婚式も終わって用事も済んだはずなのに、明日まで家にいるといいます。
別にそれが悪い訳ではないのですが、先日、仕事を辞めて専業主婦として家に1日中いるらしいのですが、それって、ニートとかとあんまりかわらないんじゃないの?と思いました。
それを確信させたのは、夜11時過ぎに帰宅したときに彼女は2chを見ていたのです。
2chを見ていることが決して悪いとはいいませんが、なんかやっていることがあんまりニートとかとかわらんのではないかと。
旦那の稼ぎで生活していることと、親の稼ぎで生活していることとの違いとは何だろうかと考えさせられました。
もっと大変な専業主婦もいるのでしょうが、妹のような専業主婦をはたから見ていると、専業主婦とは何なんだろう?と思ってしまう訳です。
これで、子供がいれば、子育てをするからということも理解できますが、子供もおらず、日中得にすることがなくネットばかりを見ている専業主婦っていったいなんなんでしょう?
彼女曰く、「そのうちパートでもするから。。。」
パートっていうと、いわゆるアルバイトですね。
そもそも、パートとアルバイトの違いもよくわからない。一緒じゃない!?
どうも、専業主婦の中でもパートをしている専業主婦は、ちょっとランクが違うみたい。
でも、フリーターと何が違うんだろう?とも思う訳です。
フリーターだってアルバイトはしますけど、それとこれとは何が違うのか?
一番の大きな違いは、結婚していることです。
立場的には、以下のような感じ?
- 専業主婦(神)
- フリーター(カス)
- ニート(クズ)
ここで、専業主婦としての意見。
「上げ膳、据え膳で、旦那が気持ちよく働いてもらうために一生懸命尽くしている訳だから、根本的にそういう考え方自体がおかしい。」と。
おかしいこと自体は否定しませんが、それでもそれに疑問を持つ人だっているはず。
フェニミズム的な話ではなく、もっとマクロな話。
子供のいない専業主婦って、ニートとかと全く一緒だと思う訳ですが。。。
でも、おばさんが専業主婦なのですが、なんかいっつも働いているっていうか、動いているというか、普通に仕事している方が楽なんじゃない?って思うぐらいいつも何かしています。これが、専業主婦のイメージにあるから、適当にやっている妹が、専業主婦ということに納得いかなかったのかもしれません。
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空気の読める人読めない人
KYなどという言葉が出てくるということは、和を乱す人が現代人の中に多くいるということなのでしょう。
日本人は古来より、和を重んじてきた種族ですが、偏った欧米化と無知によってパーソナリティーを履き違えた結果、そんな空気の読めない人が生まれてきたのでしょう。
しかし、そういう人が日本に多くいてもらうとこわるわけで、KYということでそれに気付かせてくれるようになったと、私は捉えています。
かなり前向きにですが。
ところで、自分はどれくらい空気が読める人か、知りたくないですか?
こんなのあったので、ぜひやってみてください。
ちなみに、自分は、こんな結果でした。
空気読み力: 70(Aクラス/一般人)
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神話の法則
『トゥーランドット』(Turandot)を知っている人は、よほど教養の高い人だと思いますが、話を進めていく上で、どうしても内容に触れておかなければならないので、どうかご容赦ください。
「トゥーランドット」は、アラビアからペルシャにかけて見られる「謎かけ姫物語」と呼ばれる物語の一類型であり、同系の話は古くはニザーミーの叙事詩『ハフト・ペイカル(七王妃物語)』(1197年)にまでさかのぼる。この系統の物語をヨーロッパに紹介したのがペティの千一日物語であり、原典は失われてしまったが同じような筋書きのペルシャ語写本が残されている。 ただし、残されているペルシャ語写本にはトゥーラン国の名はあるもののトゥーランドットの名はなく、フランス人の研究者オバニアクは、この「トゥーランドット」という名はペティが出版する際に名づけたのかもしれないとしている。 このペティの手になる「カラフ王子と中国の王女の物語」を換骨奪胎して生まれたのがゴッツィ版「トゥーランドット」であり、この作品はさらにシラーによってドイツ語に翻案されている(1801年)。なお、プッチーニのオペラはゴッツィ版が元であり、ウェーバーのオペラはシラー版を元にしているとされている。 ペティの「カラフ王子と中国の王女の物語」のあらすじに関しては#外部リンク先を参照のこと。
このトゥーランドット物語は、オペラだけでも少なくとも12人の作曲家の作品が存在することが確認されているが、今日では以下のものが有名である。
- カール・マリア・フォン・ウェーバーが作曲、1809年にドイツ・シュトゥットガルトで初演された劇。中国らしさを出すためにジャン=ジャック・ルソーの『音楽辞典』の巻末譜例から『中国の歌』を引用している。後にこの『中国の歌』の部分がパウル・ヒンデミットにより『ウェーバーの主題による交響的変容』第2楽章の主題として用いられる。
- アントニオ・バッジーニが作曲、1867年にイタリア・ミラノで初演されたオペラ『トゥーランダ』Turanda。
- フェルッチョ・ブゾーニの作曲になる、1905年に初演された劇音楽、またそこから発展し1917年にスイス・チューリッヒで初演された2幕のオペラ。
- ジャコモ・プッチーニが作曲、彼の1924年の没後遺された未完部分にフランコ・アルファーノの補作を経て、1926年にイタリア・ミラノで初演された3幕物のオペラ。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この話は「竹取物語」にも似たようなくだりが出てきます。結果は違いますが、謎かけ姫という視点で考えれば、共通性はあります。
もっと身近な例をとってみると、日本古来の昔話などはいたるところに共通性を持っています。
たとえば、鶴の恩返し、笠かけ地蔵、雀の恩返しという3つのお話には
- お爺さんとお婆さんが出てくる
- お爺さんが助ける
- お返しに宝物をもらう
という共通点が見えています。
日本の昔話はなぜか、お爺さんとお婆さんが出てくるという話が多いのですが、これには何か意味があるのかもしれません。
そもそも、昔話や童話は、子供たちに教訓をわかりやすく教える役割があります。お爺さんとお婆さんとしているのは、感受性の豊かな子供たちが、客観的に話を聞けるようにするためにの配慮なのかもしれません。
こうした物語や神話を体系的にまとめる学問を神話学といいます。特に、比較神話研究からは、異なる神話(体系)に共通する神話類型やモチーフが明らかにされています。
さまざまな神話を比較分析していくと、面白いことにいくつか共通する点が見つかったりします。時代背景や場所などはまったく異なるのですが、不思議なことにそうしたことが起こるのです。
しかし、神話をはじめ多くの物語には、一定のルールが存在していると仮定して考えてみると、さほど不思議ではなくなります。
物事には、始まりと終わりは必ずあるわけで、森羅万象すべてに通じる理ですが、その始まりと終わりを結びつける流れというものは必ず存在します。そして、その流れこそが、物語として語られる部分なのです。
物語の流れを大きく見ると以下のようになります。
- 旅立ち
- 試練
- 終焉
「旅立ち」としていますが、必ずしもどこかに旅に出るというわけではなく、物語の始まりというニュアンスのほうが的確です。また、「試練」の前に集結という流れが組まれる場合もあります。これは、仲間が出てくる物語には共通しています。
最後の「終焉」は、たいていハッピーエンドで終わる場合が多いです。それは、「試練」を乗り越えたことの証でもあります。
最近の映画はやたらと続編が多いですが、続編のつなぎ方は、大きく分けると2パターンあります。ひとつは、「終焉」を迎えずに「試練」のまま終わり、またその続きから始まるパターンと、一度「終焉」を迎えるも、また新たな「試練」が立ちはだかるパターンです。
逆に、こうした共通するモチーフを使って物語を作ると、わりと素人でも面白い話ができるでしょう。
「そんな事を言っても、結局は物語上の話であって、人生はそんな物語のようにうまく話は進まないよ。」と思われるかもしれません。しかし、事実は小説よりも奇なりという言葉もあるように、物語よりも人生のほうが物語らしいです。
人生はドラマだということを言った人もいますが、人生はむしろ、旅立ち~終焉までの連続です。そして常に試練に向かい合わなければなりません。それが、物語とは大きく違うところです。一つの物事が終わりを迎えても、次に新たな試練が立ちはだかり、そしてそれをまた乗り越える。乗り越えられなければ、試練はそのまま続いていくのです。たとえそこから逃げようとも同じような試練がまた立ちはだかります。結局はその試練を乗り越えなければ先には進めないのです。
神話や物語には、そうした教えがひそかに隠されています。似たような話が多いのも、結局は人が主役である以上、人生という物語がすべての物語のベースになっているからなのだと思います。
仕事やビジネスにおいても、一連の流れは変わりません。ただし、人生同様、大小さまざまな物語の連続なのです。
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個人としての社会的責任
CSRについては、今の社会状況から発したものだとだれもが理解できるかと思います。そして、今後、企業として取るべき方向性というのも見えてきました。
それは、企業は永続して、自社の商品やサービスを提供し続けることこそが、社会に対する責任だということです。
しかし、忘れてならないのは、企業といってもそれは人が作り出したものであり、企業そのものが人であるということです。
企業に対する責任を考えるとき、そこで働く人たちの責任はどうなるのか?
いまはまだそこまでの議論はあまりなされていないように思いますが、根本的なところとしては、この部分は避けては通れないのではないでしょうか。
それでは、個人としての社会的責任とはなにか?
企業の社会的責任は永続して自社の商品やサービスを提供し続けることと位置付けるならば、個人の社会的責任は、永続して、幸福を享受することなのだと思います。
特に、日本においては憲法の中で、日本に住むすべての国民が幸福に生活することをうたっています。
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
All of the people shall be respected as individuals. Their right to life, liberty, and the pursuit of happiness shall, to the extent that it does not interfere with the public welfare, be the supreme consideration in legislation and in other governmental affairs.
憲法第13条の条文ですが、ここで出てくる「自由及び幸福追求に対する国民の権利」については、幸福追求権ともいわれ、1960年代以降の経済・社会の変容は新たな権利を求めるようになり、また学説も次第に13条に具体的権利性を認める説が主流となってきました。しかし、「人権のインフレ化」という現象が懸念されることもあります。
我々日本人が享受すべき権利を主張する時、必ずそこには、社会的責任が存在します。もし、その社会的責任を果たさなければ、権利を主張べきではありません。
では、個人の社会的責任を実行するためには何を行えばよいのでしょうか?
基本的にはCSRと同じ事です。
- 法令遵守
- 社会貢献
- 情報公開
ただし、個人の場合、最後の情報公開という部分については議論の余地はあります。プライバシーが尊重される現代において、どんな形でどういった情報公開がなされるべきか?そもそも、この部分は必要なのか?といった意見はこれから出てくるでしょう。
しかし、法令遵守と社会貢献については、むしろ当たり前のこと過ぎていまさら...と思われるかもしれませんが、完全に法律を守っている人がどれだけいるでしょうか?
法令遵守については多少許容したとしても、社会貢献はほとんどの個人は行っていないと思います。たとえば、ボランティア活動。または、地域活動への積極的参加。そうしたことが必要とされているにもかかわらず、行動を起こさないのは、個人としての社会的責任を果たしていないことにもつながると思います。
世の中が乱れる原因には、こうした責任を放棄したからだと思います。
ただ、救いなのは企業がそうした活動を積極的に行い始めたということです。いい会社に所属している人であれば、自然とそうした発想や価値観は身に付くものですし、そうした価値観を持たなければ、今後いい会社に就職はできなくなってくるでしょう。
個人が、伴うべき社会的責任をどこで果たすかというのはそれぞれの自由だとは思いますが、少なくともそうした活動が行えるところにいたいものです。
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ウェブ時代をゆく
「ウェブ進化論
もちろん、このブログでも触れています。(検索して知ったのですが、ウェブ進化論に関する記事は4つもありました。その時の衝撃はそこから今でもうかがえます。)
それだけ私に衝撃を与えた本ですし、今回新書が出ていた事を見たときは全く何の躊躇もせず購入しました。
ただ、目次だけ見れば正直買わなくてもいいかとも思ったのですが。
実際に呼んでみて感じた事は、「ウェブ進化論
しかし、私の評価はかなり高いです。私の考える良い本とは、多くの気づきを得られる本の事ですが、今回の「ウェブ時代をゆく
しかし、梅田氏の生き方は、自分の考えるそれとよく似ていると思います。場所は違いますが、私も2年前何を思ったか田舎暮らしをすることにした訳ですから。そしてそれを実践している。
自分の好きを突き詰めていくと、自分らしい生き方を得る事になると思います。東京での生活も不満ではありませんでしたし、むしろそっちの方が楽しかったですが、自信の成長とともに環境を変える必要性を感じてもいました。結局、自分が欲しかったのは時間です。収入は正直激減しましたが、それでも時間を得るためには仕方のない事だと考えました。お金は無限に得る事は可能でしょうが、人生という時間は有限であり、そのとき何をするのか?何をしたいのか?何をすべきなのか?そう考えた結果、時間を取ったわけです。
梅田さんのように独立して自分でビジネスを行っていく事も可能だとは思いますし、一時期そうしようとも考えていた時期は確かにありました。また、それに向かって動いていた事もあります。
でも、現在は会社勤めをしています。
会社勤めでは自分の好きが貫き通せない事というのは、ないというのが私の考えです。自分の好きが貫き通せなくなった時は独立するのも仕方ないと思いますが、自分の好きを貫き通せる環境を提供してくれる場があるのであれば、そこにいた方が絶対に幸せだと思います。
大きい会社ではそれは無理だという人もいるかもしれません。しかし、それは自分がそう結論づけているだけの話であって、自分のやりやすいような環境に近づける努力はしたのでしょうか?
私は、今の時代に逆行した生き方に見えるかもしれませんが、世の中には、こうして会社を支えていくことをする人も必要なのではないかと強く感じています。特に、一人でもやっていける時代だからこそ、それは強く感じます。
独立して成功する人はおそらく全体の20%未満です。大成功と言われる人たちについては2%程度ではないでしょうか?それでもそこそこやっていける人はいるでしょうし、それで満足だという人もいるでしょう。
自分の満足の行く生活ができれば、好きを貫き通した方が幸せですが、それは環境をどこに置くのかというのはあまり問題ではありません。たまたま梅田氏はシリコンバレーに自分の好きを貫き通せる環境があり、私は山形にその環境があると考えているだけの話です。
しかも、その環境は自分の今後の成長によって変わってくるとも考えられます。これは、自分を中心にした考え方がなければ成立しない発想です。自分中心と言っても自己中心というのではなく、自分本位。外的環境によって左右されるのではなく、自分の内面と向き合い自分を軸として考えられる発想。
ウェブ時代はより進化し、ユビキタス社会とまで言われるほど情報の取得は恐ろしく容易になりました。私は、ネットがあればどこでも一緒だと考えていますが、ネットがない生活は無理だとも思います。これだけ依存してしまうと、インターネットを切り離した際、私のパフォーマンスは40%低下します。それは、仕事、生活両面においてです。逆に言うと、本来は今の60%ぐらいのパフォーマンスが関の山でしょう。ただ、これはコンピュータの性能と比較した例えばなしですが。
私は、以前より自分の内面世界が今後重要になってくるのではないだろうかと考え、行動していきました。そういう結論に至ったのは、日本の様々な神話の崩壊によるものです。安全・生活・幸せ・価値観、そのすべてがそれまでの常識が通用しなくなった。そうした状況に身を置けば、何を信じればいいのか見えなくなるのも当然ですし、何かに道を示されたいという欲求も高まりますが、何を頼っても結局は自分自身が最後に残るのです。
自分がどうあるべきか?ここにこそ、次の100年を生きていくための答えがあるのではないかというのが私の結論です。
それの結論を証明するかのように今まさに、自己の内面に向かう人たちが多くなってきているように感じます。
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情報の価値
「情報は明文化した時点で価値が半減する」のです。
これ以降の文章は、理由について延々と語っていくため、結論だけで十分な人は読まなくてかまいません。
いつも結論をもったいつけて、うんちくを延々と書き続けるマルコ式には珍しい文体で驚いた方もいるかもしれませんが、この事については、先に結論を持ってきた方が話として落としやすいと思ったのです。
なぜ、こんな事を思ったのか?それは自分でもわかりません。ふと、閃いたのです。
誰かとそんな話をしていた訳ではないのです。
いつもと同じようにブログを書いていたときに、思ったのです。
はじめに、情報とは何かという事を考えていました。
それは以前、情報について「情報を制するものは世界を制する」という事で書いています。
それを書いているときに、インターネットが普及して以降、情報の価値が著しく低下しているようにも思ったのです。情報が今以上に取得が容易でなかった時代には、ほんの些細な出来事ですら重要な情報だったと思います。
また、遠くはなれた人が、昨日、何をしていたかなどという事も知る由もなかった訳です。(別に今でも知る必要はありませんが、それが好きな人だったら話は別でしょう)
口頭伝承方式(口伝)による情報の伝達は、時として正確な情報を伝える事ができないため、多くの情報は明文化されることによって正確に後世まで伝える事ができるのです。
しかし、明文化をよしとせず、口伝のみだけの分野も存在します。それは、職人の世界に顕著に現れています。特に独自の技を持っている職人の多くは、明文化せず口伝のみでその技を後世に伝えているのです。
決して、明文化するのが面倒だからという理由ではありません。明文化をし、誰にでもできるようなると、価値がなくなってしまうからです。
私が、はじめに結論を持ってきたのはそうした理由もあったからです。
誰もがそれを知ってしまえば、私の考えについての価値は無いに等しいのです。コロンブスの卵が物語るように、知ってしまえば誰でもそれは容易な事だと認識するものなのです。
多くの高名な哲学者の書物が難解なのは、そんな理由もあるのかもしれません。
また、宗教の教義もしかり。難解にする事によって、代弁者の存在意義が成立します。もっと簡単で誰でも一言で理解できる教義だとすれば、代弁者はいりませんし、存在意義もありません。
私にとって、考えを巡らせている瞬間が最も価値のある時間なのかも知れません。そして、最も充実している時間だと私は感じます。それを、明文化していく作業は、既に終わった事に対する記録をとっているにすぎないのです。
しかし、明文化する事によってよい事もあります。情報の価値はなくなるかもしれませんが、それが良い情報であればあるほど、その情報を出した人の価値は高まるのです。
価値のある存在になりたければ、価値のある情報を出し続ける事です。
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志向性とコミュニケーション
WEB2.0と言われるようになってから、それはよりいっそう重要性を増しています。
ブログやSNSなどでは、それが顕著です。
去年、一昨年ぐらいにトラックバックマーケティングについて研究した事がありましたが、多くのお礼のコメントと同じくらいの割合で、手厳しいコメントやメールまでもいただきました。その人たちにとっては、私の行為には誠意を感じかなった訳です。しかし、その行為について誠意を感じだ人は、わざわざブログの記事にしてくれたり、お礼のコメントをくれたりと、見知らぬ人同士でコミュニケーションが成立していたのです。
良かれと思った事であっても、受け手にとってみればそれは、単に嫌がらせにしか感じないという事は多々あります。しかも顔が見えない分、その気持ちは強くなるという危険性もあります。
この問題には「志向性」というものが大きく関与しています。
志向性が同じ人同士であれば、コミュニケーションが成立しますが、志向性が極端に異なる場合、そこにコミュニケーションは存在しません。
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新しい秩序とは?
しかし、社会学とは何か?と問われても、今となってはうまく説明できません。
大学の勉強はそんなものです。
ただし、社会学は好きです。卒業してもう5年以上たちますが、今でもその気持ちは変わりません。社会学というよりも社会科学全般ですが。
大学を卒業したからといって、勉強をやめるつもりはありませんでした。大学院にも行ってみたいとは思ったのですが、それよりも、社会に出て社会経験を積む事が最も勉強になるのではないだろうか?と考えたのです。
そもそも、社会の勉強をするのに社会に出ずしていったい何を勉強するのでしょうか。(こんなことを言うと、いわゆる社会学者に失礼ですが)
仕事、特にビジネスに携わるようになって感じた事は、人が関わりを持つ場には必ずルール(秩序)が存在するのです。
もちろん、そんな事は、誰もが知っている訳ですが。
改めて、この秩序について考えてみると、インターネット(向こう側)でいったい何がおこっているのか?という事が容易に説明できるのです。
結論としては、インターネットは新しい秩序です。
この話自体も、今さら改めて言う事もありませんが。
しかし、この新しい秩序は、インターネットというインタラクティブなコミュニケーションツールによって、加速度的に進化しているという事は、まだあまり知られていないと思います。
人が集まる場所には、必ず秩序は存在します。秩序がない場合、自由そうに見えますが、その場にいる人たちは、不自由と感じるでしょう。
誰もが好き勝手な事を言って、勝手な事をしている状態を想像してみてください。
以前のインターネットでは、そうした状況も確かにありましたし、今もその傾向は多少残っています。
しかし、多くの利用者はその空間においてルールが存在することに気がついています。そのルールを破るとどうなるか?
いわゆる「炎上」という現象が起きます。
そのルールをバーチャル上に存在するものとして、切り離して考えてはいけません。なぜなら、インターネットを利用しているのは人間ですから。
多くの「炎上」したサイトやコミュニティーを見てきましたが、どれもが「炎上」して当然という原因がそこには存在していました。その原因の多くには、「誠実さ」がかけていました。
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ネットの社会学
テレビニュースで、インターネット関連による事件が報道さるようなってから久しいですが、もともと、そうしたニュースや社会問題は、 ありませんでした。ややもすると、インターネット自体が、何らかの事件に関与していると思われてしまうので、 テレビニュースの報道が事件や事故ばかりだからです。
しかし、インターネットがもたらしたものは、そうした社会問題ではなく、全く新しい社会です。
ベストセラーとなったWEB進化論をはじめ、多くのインターネット関連の書籍が出版されるようになっていますが、 インターネット自体を一つの社会としてとらえ、その切り口だけに絞ったものはまだまだ少ないです。
しかし、徐々にそうした書籍が出始めているということは、インターネットの深くかかわる人の間では、 インターネットを一つの社会としてとらえる見方が行われているからでしょう。
仮想現実という視点からいえば、そこに社会が構築されても不思議ではありませんし、すでにそうした動きは存在しています。
社会は、人間の関係性が形作っているとすれば、すでにインターネット上には、社会が存在しているといえます。
特に、その傾向は強まっています。
それまでは、単に情報を公開することが目的とされていましたが、現在は、 コミュニケーションを図る場としてのニーズのほうが高いからです。
仮想現実をより分かりやすいものとしたのが、Second Lifeとよばれるサービスです。あえて、 ゲームと言わなかったのは、それ自体がゲームの枠を超え、その環境下で社会らしきものを形成しているからです。
このサービスは、アメリカの本社を置く リンデンラボ( Linden Lab )社が運営するバーチャル世界として500万アカウントを誇る世界でも有数のサービスへと成長してきています。
現実世界にも実存するデルコンピュータや、IMBがセカンドライフ内で記者会見を開いたという話や、 トヨタや日産が既にセカンドライフ上に土地を所有しているなどといった話もあり、企業戦略の一環として既に大手でも先進的な企業は、 このサービスを利用しています。
企業が参入してくるということは、その場で何らかの経済活動もしくは、実質社会での利益が見込めると踏んでいるからです。
日本語版のサービスは現時点ではまだ行われておりませんが、出資、運営企業が既に決まっており、現在は秒読み段階といったところです。
このサービスが軌道に乗ってくると、似たようなサービスが生まれ、インターネットの目的がまた変化してくると思われます。
他人とのコミュニケーションに重点を置くサービスが主流となっています。これは、 人と人との関係性を持つことのできる存在を人間とするならば、現在は、原始的な人間を形作っている段階といえます。
こうした関係がより広がりを見せ、多様な目的へと変化したとき、それは社会と呼ぶべきものへと昇華されています。
ただ、リアルと異なる点は、すべてにおいてプラトニックだということです。
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情報を編集するという技術 〜第1孝〜
ブログなどのCGMで誰でも簡単に情報を配信できるようになった事によって、確かにそれまでのメディアとは明らかに変わってきました。 それは、限られた人だけが、情報を配信できるという点においてです。
しかし、インターネットが世に出たときには既に、誰でも情報を配信できる事は、既にわかっていたはずなのです。 私が、 インターネットで情報を配信し始めたのは、ちょうど、大学2年生だった2000年頃からでした。その頃は、 ネットバブルが始まりそうな雰囲気でインターネットが一般の人たちにも普及し始めた頃です。その当時は、今ほど回線速度が早くなく、 文字情報が基本でした。ISDNの64Kで最速と言う時代ですので、 動画コンテンツなどは重くてコンテンツとして機能しているのはアダルトサイトぐらいのものです。しかもそれは、 テレビの品質を遥かに下回るクオリティーだったわけです。 そんな時代ですから、基本はすべて文字情報でした。もちろん、 画像も重くなるという理由でなるべく小さく、軽いものをちょっとだけ載せてる事が主流だったのです。
現在ほど、製作用アプリケーションも使いやすくなく、正直HTMLは手打ちでコーディングした方が絶対に早かったです。 そもそも、 インターネットという技術自体、アメリカの大学での研究をより効率的に行うために情報を共有していくための技術として広まったものですし、 (発端は軍事目的ですが)検索エンジンは、アメリカの大学院生が考えた技術です。
ですから、インターネットはアメリカとかなり密接な関係が今でもあります。これは、 ネットワークの技術的な話と深く関係してくるのですが、ルートサーバというものが世界中に13個存在していますが、 そのほとんどはアメリカ合衆国の団体が管理しています。
また、アメリカの大学で生まれたインターネットは、大学という枠組みの中での進化もあります。 インターネットの世界標準を進めるW3Cのひとつは慶応大学にあります。 (もともとは、MITやCERNが中心となっていた)
アメリカの大学とインターネットの関連性はそれだけではありません。 関連性が最も顕著に現れているのは、SEOに現れています。 SEOの高いサイトというのは、基本的に論文形式に書かれているものです。大学で論文を書いた経験がある人や、 レポートや論文を書く事に長けている人は、どうやらSEOが好きな傾向にあるようです。なぜなら、1次元的な文字情報が主体だからです。 画像を多用した2次元的な画像情報は、感覚的に情報を得る事ができますが、SEOが好きな1次元的人たちは、 次元が違うのでそうした情報をあまり好みません。
また、画像に動きが生まれ平面的な情報からより3次元的な立体情報へとシフトしている現在に置いては、まだその可能性は未知数です。 ここで、何の説明もなしにいきなりよくわからない用語が出てきました。実は、あえてその言い回しを使いました。理由は、 そういう言い方をした方が、これから話す内容がわかりやすいかと思ったのです。
先に、次元的情報区分について説明します。 1次元的情報とは、基本的にすべて文字で構成された情報です。 書籍や小説と言った情報などは、それに最も近い情報もしくは、そのものと言ってもよいでしょう。また、私のブログなどは、 ほぼ内容は文字しかありませんから、1次元的情報ブログ問い得るでしょう。ただ、文字だけの情報だと万人受けしませんが・・・。
というのも、情報は感覚的であればあるほど、受けとりやすいのです。 頭で理解するよりも体の感覚を使えるだけ使った方が情報は処理しやすいように人間はできています。そもそも、 人間は5もの感覚がある訳ですから。 平面的な画像というのは、それだけで情報として成立します。例えば、写真や絵などは、 まさに2次元的情報と言えます。
ブログも、私のように文字だけのものよりも写真が入っている方が、見やすくてわかりやすいというのは、言わずもがなです。 「百聞は一見にしかず」と言います。1次元的情報よりも2次元的情報の方が、より理解度ははやいことを表しています。ただ、 「百聞は一見にしかず」ということわざには、ただ、見るだけではなく体験する事も含まれています。 実は、見るよりも、 体験する方が情報としては処理しやすかったりします。
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言葉が持つイメージ
- 2007年5月 9日 16:05
- マルコ式社会学
言葉には、 シニフィエとシニフィアンが存在していることは前回説明しました。
それを踏まえた上で、次の言葉を考えてみます。
- 遊び
- プレジャー
- pleasure
- 娯楽
- あそび
- アソビ
同じものを指していますが、その言葉が持つイメージはそれぞれ違っていると思います。その違いは感覚的なものですが、 それを言葉で表現すれば、こんな風にとらえることができます。
- 遊び・・・普通、中性的、日本的
- プレジャー・・・かっこいい、男性的、つめたい、イメージしにくい
- pleasure・・・イメージしにくい、海外的、つめたい
- 娯楽・・・かたい、男性的、つめたい、享楽的
- あそび・・・かわいい、やわらかい、女性的、こどもっぽい、日本的、あったかい
- アソビ・・・変わっている、イメージしにくい、子供っぽい
これ以外にも、いろんなイメージが浮かんでくるかもしれませんし、(主観的なイメージのため) ここに書いたイメージを持たないかもしれません。
しかし、その言葉が持つイメージですが、同じ意味だとしても、言葉が持つイメージは、だいぶ違います。
そうした形で、ことばそのものをイメージだけで見ていくことは、以外とキャッチコピーやネーミングなどの場面で効力を発揮します。
たとえば、新商品を販売するときに、どんなネーミングで売り出そうか?と考えるともいますが、 こうした言葉が持つイメージによって分析することによって、ターゲットに即したネーミングが可能になります。
たとえば、「明治おいしい牛乳」

このネーミングには、以下のようなストーリーがあります。
新商品となる牛乳のネーミングにあたり、 アイデア段階から数百にのぼる案が出ていました。「明治おいしい牛乳」の「おいしい」は、 一般的にごく普通用語であり、 味の印象は人それぞれが感じるものであるため、ネーミングとしての適切性などが議論されました。しかし、 ナチュラルテイスト製法による味に対する自信を最もストレートに伝えるものであること、老若男女、誰にでも分かりやすいこと、 加えて、 「おいしい」とあれば、買う側が味を試してみたくなるであろうという期待、これらの考え方から「明治おいしい牛乳」 に決定しました。
文字も重要な視覚的要素であるため、 使用する書体も既成のものをそのまま使うのではなく、 商品のイメージや特徴をお客さまに早く、 確実に伝えるためのデザインが必要です。パッケージ全体のデザインと並行して、 中身である牛乳のおいしさをイメージする書体、 牛乳らしい書体が検討されました。
機能的でもなく、洗練されすぎない、味わいのあるおいしそうな書体に絞られ、毛筆による書き文字をもとに制作された、分かりやすく、 読みやすい書体に決定しました。さらに商品名がもつ「まろやかさ」 という味覚的特徴を喚起させるために一旦全体に膨らみと丸みがつけられましたが、「後味すっきり感」も強調することが望ましいとされ、 角の丸みをとり、シャープな印象を持たせました。
牛乳は、基本的に誰でも飲めるものですし、老若男女問わずに、 みんなに飲んでもらいたい商品です。ということは、 ターゲットはかなり広いわけです。また、製品は、 製法にこだわり自信があったため、それを一言で表現しなければなりません。 より多くの人にわかりやすく、 おいしさを伝える必要があったのです。
一見するとあまりにもストレートなネーミングにも見えますが、分析してみると、 非常に考え抜かれた素晴らしいネーミングであることがわかります。今でも、コンビニではよく見かける商品ですが、 一般的にコンビニにおかれている商品は、たいていこのような形で、ネーミングが行われている場合が多いです。(コンビニは、 マーケティングの完成系ともいわれますが、その話はまた別の機会に…)
言葉には、 普段考えている以上に受けて側に伝わるイメージというものがあります。
そのイメージと、そのものが持っているイメージがマッチしたとき、 絶大な効果を発揮します。
実は、これは人の名前にもある程度当てはまります。 親は子供に対していろいろな想いを寄せて名前を付けるわけですが、 ある程度はその言葉通りの人に成長します。ただ、人間の場合、 環境がもろに影響してくるため、そうでない人も中にはいますが。
言葉は、言霊を持っており、その力はとても強いと言われますが、 それを科学的に分析することが言語学では可能なのです。
良い印象やイメージを持つ言葉と、悪い印象やイメージを持つ言葉も存在します。
たとえば、いい印象やイメージを持つ言葉としては、
- 新しい
- ありがとう
- うれしい
- 好き
- 生きる
などが挙げられます。反対に悪い印象やイメージを持つ言葉は、
- 古い
- 逝ってよし
- 悲しい
- 嫌い
- 死ぬ
このように、いい印象と悪い印象とがはっきりしている場合は、わかりやすいのですが、普段会話の中で、 それを意識して話している人はいないと思います。
言葉が持つイメージについては、ドイツ語やフランス語などは顕著で名詞に対して男性名詞、女性名詞、 中性名詞などと分けているものもあります。ただ、ドイツ語やフランス語が堪能な方なら、わかると思いますが、なぜそれが男性名詞なのか? 女性名詞になるのか?日本語に訳すとよくわからない言葉も多いです。
それは、日本語が持っているイメージとドイツ語やフランス語持っているイメージが異なっているから、そう感じるのであって、 日本語では男性的だと思うような言葉でも、ほかの言葉では女性名詞だったりする場合があるのです。
これらのことを踏まえると、人からどう思われたいかによって、使う言葉をうまく選んでいくと、 人間関係はスムーズにいくかもしれません。
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カルチュラル・スタディーズ
- 2007年5月 8日 09:22
- マルコ式社会学
カルチュラル・スタディーズ (Cultural studies) は、主にイギリスに始まり20世紀後半に盛んになった学問の傾向を意味している。サブカルチャーなどを手がかりに文化と政治に関わる状況を分析しようとするもの。バーミンガム大学現代文化研究センター(CCCS - Centre for Contemporary Cultural Studies)が主要な震源地となった。
日本語に直訳すれば「文化研究」だが、日本国内ではもっぱら「カルチュラル・スタディーズ」と表記される。通称カルスタ。ただしこれには若干軽蔑的なニュアンスを伴う。その理由は、文学・社会学・歴史学・文化人類学・メディア論・現代思想などといった多様な学問領域を「お手軽に」横断してしまうからである。
概要
ジャウディン・サルダーはその著書「INTRODUCING カルチュラル・スタディーズ」で以下のようにカルチュラル・スタディーズの主要な特徴を五つ挙げている。
- カルチュラル・スタディーズはその主題とする事象を文化的実践と権力との関係という見地から吟味する。
- その目的には文化をその複雑な形式すべてにおいて捉えること、そしてそれが自らを浮き立たせている文化的・社会的コンテキストを分析することが含まれる。
- それは学問分野であると同時に、政治的批判と行動の場でもある。
- それは知識分野のあいだの乖離を露呈させ調停することを試み、暗黙の「文化的知識」と、客観的で「普遍的」な形式の知識とのあいだの分離に打ち勝とうと試みる。
- それは近現代社会に対する倫理的評価と政治的行動の急進的な路線へのコミットメントを行う。
関連する理論家
- レイモンド・ウィリアムズ (Raymond Williams)
- リチャード・ホガート (Richard Hoggard)
- ポール・ギルロイ (Paul Gilroy)
- スチュアート・ホール (Stuart Hall)
- テオドール・アドルノ (Theodor Adorno)
- ミシェル・フーコー (Michel Foucault)
- ルイ・アルチュセール(Louis Althusser)
- ジャック・ラカン (Jacques Lacan)
- ジャック・デリダ (Jacques Derrida)
- ユルゲン・ハーバーマス (Jurgen Habermas)
- ジャン・ボードリヤール (Jean Baudrillard)
- ロラン・バルト (Roland Barthes)
- ヴァルター・ベンヤミン (Walter Benjamin)
- ピエール・ブルデュー (Pierre Bourdieu)
関連文献
- 上野俊哉・毛利嘉孝『カルチュラル・スタディーズ入門』、ちくま新書、2000年
- 上野俊哉・毛利嘉孝『実践カルチュラル・スタディーズ』、ちくま新書、2002年
- ターナー、グレアム『カルチュラル・スタディーズ入門-理論と英国での発展-』、作品社、1999年
- 本橋哲也『ポストコロニアリズム』、岩波新書、2005年
- 吉見俊哉『カルチュラル・スタディーズ』、岩波書店、2000年
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合理的選択理論
- 2007年5月 8日 09:22
- マルコ式社会学
政治学と合理的選択理論
政治現象を自己の利益・効用を最大化しようと行動するアクターの相互作用の総体として捉えるのが、政治学における合理的選択論である。1950年代より経済学的アプローチを政治現象の分析に取り入れる形でスタートした。政治過程を主に扱う場合公共選択論と呼ばれ、しばしば合理的選択理論と公共選択論は同じものとして扱われる。また経済学的方法論を応用することから、政治経済学として扱われる場合がある。
政治学において合理的選択理論が移入される以前から、経済学者ケネス・アローは集合的意思決定に関する先駆的研究を行っている。その知見は一般可能性定理(不可能性定理)として知られており、合理的選択理論のうち特に社会的選択理論(集合的選択理論)と呼ばれる分野を確立した。
政治学における合理的選択理論の確立に大きな役割を果たしたのがアンソニー・ダウンズと彼の著書「民主主義の経済理論」(1957)である。さらにダウンズの示したモデルに多大な影響を与える先駆的業績を残したダンカン・ブラックの名も挙げることができる。これらの業績により合理的選択理論は、集合的決定のみならず政党や政治家、官僚、有権者といった多様な政治的アクターの行動とその相互作用を射程に収める事が可能となった。すなわち、マクロの政治現象や政治過程をミクロの視点から分析しミクロな基礎付けを行う理論として合理的選択理論が確立されたわけである。
政治学の分析における制度的文脈の軽視が批判されるようになると、合理的選択論も次第に制度の分析に取り組み始める。こうして合理的選択新制度論が確立されることとなる。アクターと、その行動を意味づけ媒介し拘束する制度の相互作用に着目する理論である。同時に合理的選択新制度論は、制度がアクターの合理的・戦略的行動の帰結として生成することを強調する立場をとる。
合理的選択理論は政治学の様々な分野に影響を及ぼし、きわめて重要な方法論となっている。その影響力は従来の公共選択論の範囲に留まらない。例えば政治哲学においてもジョン・ロールズやロバート・ノージック以降、合理的選択理論の前提となるアクターの合理性に立脚した理論が多く見られる。国際関係論にあってはリアリズム(ネオリアリズム)とネオ・リベラル制度主義という2つの重要なアプローチが合理的選択理論の方法論を受け入れている。
社会学と合理的選択理論
行為がしばしば合理的に選択される(少なくとも合理的であるかのように見える)ことは、社会学の成立したころからよく知られていた。ヴィルフレド・パレートは、論理的行為と非論理的行為に行為一般を分類したし、マックス・ヴェーバーは、目的合理的行為、価値合理的行為、伝統的行為、感情的行為の四類型を考案した。
しかし、社会学の力点は、一見合理的に見える行為の非合理的な側面におかれることが多い。
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シンボリック相互作用論
- 2007年5月 8日 09:22
- マルコ式社会学
シンボリック相互作用論(Symbolic Interactionism)とは、1960年代初頭にアメリカの社会学者H・G・ブルーマーが創始した、社会学的・社会心理学的パースペクティブの1つである。それは、人間間の社会的相互作用、特にシンボリックな相互作用(symbolic interaction)を主たる研究対象とし、そうした現象を「行為者の観点」から明らかにしようとするものである。
シンボリック相互作用論は通常、その歴史的由来をG・H・ミードの 業績に遡ることが出来る。ミードは生前数多くの論文を執筆したが、ミードのシンボリック相互作用論に対する影響の大部分は、彼の講義を聴講していた学生ら による講義録やメモの出版を通じて、あるいは当時ミードに学んだ学生の一人であったH・G・ブルーマーによるミード解釈を通じて及ぼされたと言われてい る。ブルーマーは、主として1950年代と60年代に数多くの論文を執筆し、シンボリック相互作用論の体系化を図った。
H・G・ブルーマーのシンボリック相互作用論が、T・パーソンズを 中心とする構造機能主義社会学や、G・A・ランドバーグを中心とする社会学的実証主義(操作主義)を批判し、それに代わる分析枠組みや研究手法を発展させ ようとしたことは良く知られている。とりわけ、その分析枠組みに関しては、これまでの日本の研究においては、それが提示する「動的社会」観が高く評価され てきた。すなわち、社会を、「主体的人間」によって、形成・再形成される「流動的な過程」ないしは「変動的」「生成発展的」なものと捉える、そうした社会 観が高く評価されてきた。
当初「シンボリック相互作用論」とは言えば、それはイコール「ブルーマー」という時代がしばらくの間続いた。とはいえその後、70年代、80年代に なると、シンボリック相互作用論を担う新しいリーダーとして、N・デンジン、T・シブタニ、A・L・ストラウス、R・H・ターナー、S・ストライカー、 G・ファインなどが登場し、この理論の新たな方向性が模索されるとともに、ブルーマーの理論化に対する種々の批判が展開されるに至った。80年代にはさら に、E・ゴフマンが登場し、「ドラマツルギー」(dramaturgy)と呼ばれる手法が提示された。
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エスノメソドロジー
- 2007年5月 8日 09:22
- マルコ式社会学
概要
ガーフィンケルはタルコット・パーソンズを指導教授としてハーバード大学に博士論文を提出した。この論文は、パーソンズの提示した社会秩序問題(ホッブズ問題)に研究の端緒を得るが、現象学的社会学といわれるアルフレッド・シュッツの研究にも影響を受けた。その後、彼は1967年に『エスノメソドロジー研究』を著し、現代社会学に一石を投じることになった。
エスノメソドロジーでは、人と人との相互行為(interaction)にも注目する。この相互行為研究のひとつの方向性が、会話分析である。
エスノメソドロジーは、人類学などで使われる一つの調査方法、「エスノグラフィー」と混同されることがある。両者は共に、社会調査で一般的に使われ る量的調査(quantitative research、アンケートなどの方法)に対して、質的調査(qualitative research)に分類される。この質的調査によく使われる方法に、参与観察(participant observation)、つまり、調査の対象となるグループ等とともに時間を過ごし、”かれらの”社会の見方を知るという方法がある。アンケートなどの 情報収集方法に比べて、質疑応答形態のみにとらわれないため、調査対象となる人々の社会に対する見方、つまりかれら独自の社会秩序を理解する方法を知るこ とが出来る。このことは、量的調査の研究者には、調査対象者にでたらめの情報を吹き込まれ、しばしば調査結果が台無しになると誤解されている。
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構造機能主義
- 2007年5月 8日 09:22
- マルコ式社会学
構造機能主義(こうぞうきのうしゅぎ、structural-functionalism)は、社会学における立場のひとつ。中心人物としては、タルコット・パーソンズ、ロバート・キング・マートンというアメリカの社会学者たちを挙げることが出来る。
社会学の根本問題は「個人と社会との関係」をどう捉えるか、という問題である。
こうした問題に対して、個人というものが、その個人が所属する社会によって社会化される側面をとりわけ強調する社会学の流派として挙げられるのが、この構造機能主義社会学である。
この構造機能主義社会学の「構造」と「機能」という言葉から説明することにしよう。まず「構造」であるが、これは社会を構成する諸要素のうち、比較 的変化しにくい部分(種々の社会関係がパターン化され統合されたもの)、と説明することが出来るであろうか。教科書的には、“社会の骨組み”と説明されて いる(文章で言うならば「文法規則」にあたる)。これに対して機能とは、そうした構造が互いに他の構造に対して、また社会全体に対して果たしている貢献な いしは作用、と定義することが出来る。構造機能主義社会学は、各種の構造が如何にして社会全体を維持しているのか、これを解明しようとする社会学理論であ ると言える。とはいえ他方では、この理論に関しては、社会の構造と機能が主たる研究単位となり、社会の実質であるはずの個々の人間は研究対象としては後景 に退いてしまっている、という常套句批判が存在する。例えば日本の社会学者である船津衛は、 “D・ロングによれば、現代社会学における人間の捉え方は、『社会化過剰的人間観』(oversocialized conception of man)として規定される。T・パーソンズを中心とする現代社会学は、人間は社会という鋳型にはめ込まれ、個性や独自性を奪われ、画一化された存在として 考えられている。それはあまりにも社会化されすぎた人間のイメージに囚われている。・・・パーソンズ社会学においては、人間による『社会規範の内面化』の メカニズムを解明することが、その中心的テーマとなっている。そのことから、社会の維持、安定を旨として、人間は社会化によって既成社会の中に組み込まれ てしまう存在として描かれる。そして、人間が社会から逸脱したり、反抗したりする場合には、必ず社会統制が加えられると考えられている。その理論は、きわ めて統合的イメージの強いものとなっている”と批判している。
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フランクフルト学派
- 2007年5月 8日 09:22
- マルコ式社会学
フランクフルト学派(Frankfurter Schule)は、マルクス主義等を基に、批判理論による社会理論、哲学を研究しているグループの名称。
フランクフルト学派の設立は1930年にマックス・ホルクハイマーがドイツのフランクフルト大学の社会研究所(Institut für Sozialforschung) の所長に就任した時にさかのぼる。ナチスが政権を獲得すると、メンバーの多くが亡命したため、活動拠点がアメリカ合衆国へと移った。第二次世界大戦後、再 び活動はドイツが中心となった。1960年代、世界各地で大学紛争の渦が巻き起こった時代に、ニューレフトの運動の支柱となる理論を求めて、このグループ に注目が集まった。
フランクフルト学派の主な思想家、研究者
- テオドール・アドルノ
- マックス・ホルクハイマー
- ヴァルター・ベンヤミン
- エーリヒ・フロム
- ヘルベルト・マルクーゼ
- フランツ・ノイマン
- フレッド・ポロック
- アルフレート・シュミット
- ユルゲン・ハーバーマス
- アクセル・ホネット
- カール・ウィットフォーゲル
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シカゴ学派 (社会学)
- 2007年5月 8日 09:22
- マルコ式社会学
シカゴ学派(シカゴがくは、英:Chicago school)は、社会学の学派の一つ。
石油王ロックフェラーが多大な資金を投入し、1891年にシカゴ大学が創立された。 その翌年、1892年に社会学部が創設され、その初代学部長に就任したのが、A・W・スモールである。
社会学の「シカゴ学派」とは、このスモールら(G・ヴィンセント、W・I・トーマス、C・R・ヘンダーソン)を第1世代とし、第2世代にその黄金期を迎えた、アメリカで最初の社会学の「学派」を指す。多くの代表者は、ドイツのベルリン大学に留学、哲学、社会哲学のゲオルク・ジンメルに直接師事し、彼から多くの影響を受けていることは、特筆すべきだろう。
第2世代の中核をになったジャーナリスト出身のR・E・パークとE・W・バージェスは、急速な産業発展に伴う大量の移民の流入に起因する社会問題のメッカ「シカゴ市」を「社会学的実験室」と捉え、そこに数多くのシカゴ大学大学院生を投入し、続々と「シカゴモノグラフ」を産出させた。都市社会学(都市生態学)の誕生である。彼らの共著『社会学という科学への誘い』(1921年)は「グリーンバイブル」と呼ばれ、シカゴ学派の社会学、および、その後のアメリカの社会学の方向性を決定づける書となった。
また第1世代に位置する--より正確には第1世代と第2世代の双方にまたがって活躍した--W・I・トーマスが、F・ズナニエッキと 共著で著した『ヨーロッパとアメリカにおけるポーランド農民』(1918-1920:その総ページ数は2250頁に及ぶ大部の書である)は、アメリカ社会 学の(ヨーロッパ社会学からの)独立宣言を象徴する記念碑的作品として社会学史の中に位置づけられているものである。 第2世代の教え子でシカゴ大学のスタッフとなったハーバート・ブルーマー、L・ワース、E・C・ヒューズ、S・ストゥーファーは、この学派の第3世代を構成し、ブルーマーとヒューズはシンボリック相互作用論・集合行動論・プロフェッション論の定式化に、ワースは都市社会学の発展に貢献した(「生活様式としてのアーバニズム」)。
こうした第3世代の教え子たちは、主としてシカゴから離れて活躍したが、一般に「シカゴ学派第4世代」として位置づけられており、ネオ・シカゴ学派とも呼ばれている。そうした中には、ラベリング理論で有名なH・S・ベッカー、医療社会学・グラウンデッド・セオリー(grounded theory)で有名なA・L・ストラウス、ドラマツルギーという手法で有名なE・ゴフマン、「シカゴ学派の遺産シリーズ」のエディターとして貢献したM・ジャノヴィッツらが含まれている。
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社会学の目的
- 2007年5月 8日 09:22
- マルコ式社会学
社会学は本来、さまざまな社会現象の実態や、現象の起こる原因を解明するための学問である。社会学の目的として、秩序問題、すなわち社会秩序がなぜ成立しているかについての研究を、とくに重視することもある。これは社会秩序や、何らかの社会への協力行動と関連する研究であり、治安や犯罪、逸脱行動、社会統合、利他的行動、向社会的行動、環境配慮行動研究、社会的ジレンマ研究などと呼ばれる研究分野である。この研究分野は社会心理学や小集団実験と関連する研究も多い。
秩序問題とは別に、産業構造や労働市場の構造、社会階層構造、学歴不平等の構造、家族や地域社会の構造、権力構造、女性差別や人種差別など、社会の構造について研究がなされることも多い。社会構造やその時代的変化、すなわち社会変動の研究も、社会学の主要な分野の一つであり、主として大規模な調査データを元に、研究成果を挙げている。社会変動研究は、もともとマルクス主義的研究が多かったが、今日ではそのような研究とは別に、脱産業社会におけるさまざまな社会現象とその変化に関する研究が行われている。
しかしながら、日本では長年、海外の理論を輸入することが社会学の目的とされてきたため、現実の社会現象の解明には、必ずしも積極的でない研究者 も多い。むしろ哲学的議論や、理論のみの研究、歴史や学説史のみを重視する研究も、いまだに多数存在するのが事実である。例えば東京大学や京都大学、早稲 田大学、慶應義塾大学などの伝統ある社会学研究部門では、理論研究者は多いが調査経験は少ない教員が多く、専任教員だけでは社会調査教育や社会調査士資格 に対応できない現実もある。それらの大学では、教員の多くが理論の輸入や解釈を主目的としているため、新しい知見の発見は困難である。そのため国際学会で の発表経験が乏しいか、発表能力がほとんどない教員も多い。このような深刻な事態の背景には、かつて日本の大学に予算や調査能力がなかった時代には、理論 研究のみしかできなくても、やむをえなかったという事情もある。しかし今日では、現実社会と距離のある抽象的な理論社会学研究に対しては、かなりの社会的 批判が存在するのも事実である。本稿の記述も以下を見ると歴史的な内容が多く、大規模な社会調査の内容には対応できていないのである。残念ながら日本の社 会学は政策への影響力は少なく、多くの社会学者には政策形成や提言能力はない。しかし近年では、社会調査の実施能力や、現実のデータを分析する研究も重視 されつつある、と言えなくもない。以下のように、日本の社会調査の中には、国際的に高く評価されているものもある(社会学の方法の項を参照)。最近では社会調査士資格など、社会調査法への対応の努力もあり、大学によっては充実した教育を行っている。東北大学や関西学院大学、大阪大学などは社会調査に関する研究教育が評価され文部科学省のCOEに採用されたほか、国際学会での発表実績もある。
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社会学の対象
- 2007年5月 8日 09:22
- マルコ式社会学
研究対象は、人間行動( 行為)や相互作用、役割、集団や組織研究、家族、コミュニティ、より大規模な社会構造や社会変動な どである。研究分野の一つは秩序問題、つまり社会秩序や、何らかの社会への協力行動と関連する研究である。治安や犯罪、逸脱行動、社会統合、利他的行動、 向社会的行動、環境配慮行動研究、社会的ジレンマ研究などもこれに含まれると考えてよい。この研究分野は社会心理学や小集団実験と関連する研究も多い。日 本においてはこれまで社会の分裂や治安が問題になることは少なかったが、近年ではやや注目されている。数理社会学や合理的選択理論により、この研究に取り組むこともある。
他の研究分野として、様々な社会構造やその時代的変化、すなわち社会変動の研究がある。もともとマルクス主義社 会学では資本主義社会から革命を経て共産主義社会が実現することを、主要な社会変動として想定していた。しかし多くの先進諸国ではそのようなことは起きな かった。ベルリンの壁崩壊や共産主義各国の経済低迷、政治腐敗のためマルクス主義的な研究は沈滞していると言わざるをえない。高度経済成長期以降の日本の社会学では、産業化、都市化、高学歴化という社会変動を扱うことが多い。その他、最近では、大衆化、少子化、高齢化、情報化など、個別具体的な社会変動を研究することが多い。 社会システム論は、社会構造と社会変動を理論的にとらえるためのものだが、抽象的議論が多く現実の社会を分析するためにはあまり役に立たないため、誇大理論と批判されることも多い。経済システムや政治システムの研究に比べ遅れていると言わざるを得ない。構造機能主義のような研究も最近では盛んではない。むしろ、情報化や科学技術が社会にどのような影響を与えるかについての個別具体的な研究、たとえば遺伝子組み換え技術や電子マネー、インターネット、文化産業などが社会に与える影響が注目されている。
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社会学の方法
- 2007年5月 8日 09:22
- マルコ式社会学
社会学は、現実の社会からデータを取らなくてはならないため、さまざまな方法が考えられている。主として社会調査が用いられるが、調査の他に、実験、観察、内容分析(文書や映像資料等の分析)、マクロデータ(集計された統計データ)の利用などの手法がある。どれも一長一短があるが、それぞれが重要な研究手法である。
日本の社会調査は、これまでは比較的、回収率もよく、データの質もよく、国際的にも評価が高かった。「社会階層と社会移動全国調査」 (SSM調査)や、家族社会学会による調査など、社会学者による大規模な調査も存在する。統計数理研究所による日本人の国民性調査や、日本版総合社会調査 (JGSS調査)なども存在する。SSM調査の成果は、米国で数冊の本が出版された他、韓国や中国でも翻訳が出版されており、国際的にも高く評価されてい る。例えば原純輔・盛山和夫による『社会階層』は韓国、中国、米国で出版されている。詳しくは「社会調査」の項を参照。
米国の社会学においては、公開されている既存の社会調査データが多いこともあり、大規模なデータファイルの計量分析をもとにした計量社会学が、近年では非常に盛んである。アメリカ社会学会の 機関誌American Sociological Review (ASR)も論文の7割前後が計量分析を用いた論文である。実験や観察、質的調査による研究、理論研究などもあるが、最近はやや沈滞気味で数は多くはな い。米国では理論だけの研究はほとんどなく理論と実証の往復が重視される。質的調査は米国において1990年代以前に小規模な流行があったが、米国では社 会学における科学主義や実証主義の考え方が強いためあまり重視されず、とくに2000年以降は研究は少ない。
残念ながら、近年の日本においては、著者が読書した本を「参考文献」と称して引用し、その引用の上に多少の個人的私見を述べるのみの書籍が大多数で あり、例外を見つけることは難しい状況である。またそれらの書籍は、欧米に住んだことがなく現実社会を知らない社会学者が、文献研究だけを行い欧米の社会 を語ることが多いため、抽象的で的はずれな議論が目立つことも事実である(「反社会学講座」)。
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歴史
- 2007年5月 8日 09:22
- マルコ式社会学
社会学の歴史は、様々な形で記述することができるが、通常次のようなものが含まれる。
1)ヨーロッパにおける先駆的な思想、研究
上述のコントの思想は、その師であるサン・シモンに遡る。一方、コントの方法はジョン・スチュアート・ミル、ハーバート・スペンサー、カール・マルクスなどに受け継がれ、それぞれ独自に社会についての包括的な把握が試みられた。
2)ヨーロッパにおける著名な社会学者の台頭
19世紀末から20世紀にかけて、マックス・ウェーバー、エミール・デュルケーム、ヴィルフレド・パレート、ゲオルグ・ジンメルらが相次いで研究著作を発表した。その方法論、キー概念などがその後の社会学に受け継がれることになる。
3)シカゴ学派の誕生
20世紀初頭まではヨーロッパが社会学の主流を成していたが,第一次世界大戦後にはアメリカにおいて顕著な展開を見せ,やがて社会学研究の中心として発展を遂げていくことになった。
アメリカ社会学が,社会学研究の中心的地位を築き上げる背景には,19世紀末から20世紀初頭にかけての急激な経済・社会の変化があった。南北戦争から第一次世界大戦へ至る半世紀の間にアメリカ産業は急ピッチな発展を遂げ,それに伴って都市化が進行し,民衆の生活様式も大きく変わっていった。このような大きく変貌を遂げるアメリカ社会の実態を捉えることが,社会学の課題として要請されるようになっていったのである。
当初アメリカの社会学は,1893年に創設されたシカゴ大学を中心に,人種・移民をめぐる問題,犯罪,非行,労働問題,地域的コミュニティの変貌などの現象的な側面を実証的に解明する社会心理学や都市社会学が興隆していった。アルビオン・スモール,ウィリアム・トマス,ジョージ・ハーバード・ミード,ロバート・パーク,アーネスト・バージェス,ルイス・ワースら,有能な研究者たちの活躍によって,1920~30年代にシカゴ大学は,アメリカの学会において強い影響力を及ぼすようになり,シカゴ学派と呼ばれる有力な研究者グループを形成するまでになった。
ヨーロッパの社会学は観念的・方法論的側面を重視する傾向が強かったが,アメリカ社会学は現実の問題を解決する方向性を示すという実践的側面が強い。それは,有用性を重視するプラグマティズムの精神的な伝統によるところが大きく,また,前述のような社会的要請もあって,地域社会や家族などの具体的な対象を研究する個別科学としての傾向を持つようになった。
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機能主義社会学の台頭
- 2007年5月 8日 09:22
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第二次大戦後のアメリカにおいて、タルコット・パーソンズやロバート・キング・マートンら による機能主義が提唱され、社会学全体に大きな影響を及ぼした。特にパーソンズの社会システム論は,社会学における統一理論を築き上げる意図を持って提起 され,多くの社会学者に影響を与え,20世紀半ばにおける"主流を成す見解"となったとされるが、実態がそのようであったのかは大きく疑問である。これは 分野の統一、体系化が実現するかに見えた社会学の稀有な時期であるとされる。
しかしパーソンズの理論は、その科学論的・政治思想的な構想があまりに遠大かつ複雑であったことから、正しく評価されたとは言えず、また、合理的選択論のケネス・アローら が指摘したように、パーソンズ自身が掲げた要求にしたがった理論形成がなされていたとも言えなかった。また、1960年代以降には、「観念的傾向が強い」 「現状の体制を維持しようという傾向がある」「個人の非合理的な行為についての視点が欠けている」などといった、半ば誤解混じりの数多くの批判ないし断罪 を受けることになった。いずれにせよ、結局、統一理論構築にまではいたらず、その後シンボリック相互作用論、現象学的社会学、エスノメソドロジー、紛争理論など、さまざまな立場から独自の視点に立った理論が提唱されるようになった。
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多様化
- 2007年5月 8日 09:22
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1960年代に機能主義からの離反が起きた後、いわゆるミニパラダイム(この語法は本来は誤りである)の乱立と称される時代を迎えた。現象学的社会 学、エスノメソドロジーなどが出現し、社会学が多様化し、研究対象となる領域も拡大はしたが、同時に社会学というディシプリン内部での対話の共通基盤が失 われもした。上述のような歴史的文脈が忘却されると、機能主義に対するカウンターとしての意義をもった諸ミニパラダイムは逆に混迷を深めた。一方で、(クーンが本来意図した意味での)パラダイム、すなわち経験的統計データに基づく調査研究は疑問視されることなく確立していったが、他方でかかる研究のよって立つべき思想・視点、つまりは社会学の独自性とは何なのかという問題は依然として不明なままに推移している。
1960年代にパーソンズのもとに留学し、ドイツに帰国後、社会学者として活動を開始したニクラス・ルーマン、1990年代末以降の英国ブレア労働党政権のブレーンとして名を馳せたアンソニー・ギデンズらは、それぞれ異なった系譜からではあるが、政策科学としての社会学という立場を打ち出した。すなわち、ルーマンの場合であれば、科学的にSollen(~すべき)を言わなければならない行政学の伝統を継承する形で、ギデンズの場合は、社会問題への関与をことするイギリス社会学の伝統とリベラリズムの政治思想への関わりから、そうした方向性をとり、それぞれに反響を呼びをしたが、広がりをもつものにはなったとはいえない。
わずか200年ほどという歴史は、学問が自らのアイデンティティを獲得するには浅すぎるのかもしれない。いずれにせよ、クーン的意味でのパラダイムが揺るがない一方で、思想的・理論的空白が存続しているのが現状である。
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総合社会学
- 2007年5月 8日 09:22
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初期社会学における総合社会学の構想
初期の社会学における代表的な2人の思想家,オーギュスト・コントとハーバート・スペンサーがこの立場に立っている。もともと社会学は,社会全体の構造と変動をトータルに把握しようという発想の元に誕生した学問である。つまりコントやスペンサーは,社会学を政治・経済・哲学・芸術・科学などの広範な分野をまとめ上げる百科事典的な学問と考えていたのである。
このような考え方は,やがて社会学をあらゆる学問を統合し,その頂点に立つ帝王科学であるという思い上がった主張を生み出すようになった。もちろんそのような主張は,社会学は独自性のない他分野からの受け売りの学問であるという批判を受けることになる。
やがて,他の学問分野からの批判と社会学の低迷が続く中で,社会学独自の視点から社会を分析し,把握することを目指して,総合社会学としてではなく特殊科学としてゲオルグ・ジンメルは形式社会学を,マックス・ヴェーバーは理解社会学を提唱するようになった。
デュルケームの総合社会学
初期社会学における総合社会学の構想は,明確な方法論を打ち立てることができず,科学的な分析の視点が欠落していたところから,社会全体のトータルな把握は難しいものと思われた。そこで,コントやスペンサーの未成熟な総合社会学を,新たな体系として再定義したのがエミール・デュルケームである。
デュルケームは,「社会的事実を物のように観察する」ことによって社会の実態を客観的に捉え,その成果を各学問分野に生かしていく ことが社会学の課題だと考えた。つまり,彼はあらゆる学問分野をつなぎ合わせる役割を負うのが社会学であると考えたのである。そのような発想から,デュル ケームは総合社会学を3つの分野からなる体系であると定義づけた。
- 社会形態学:社会を客観的な形・状態から捉えるもので,例えば,人口の大小,地域的な密集度,どのような住居であるかといった形態学的な視点に立つ社会学体系の基礎的な部分を成す。
- 社会生理学:社会における習俗,集団成員の意識・行動の傾向など,社会や集団の機能的な部分を研究する分野で,社会形態学がハードの部分を扱うのに対し,社会生理学はソフトの部分を扱うということができる。
- 一般社会学:社会形態学と社会生理学それぞれの特殊研究を理論的に統合する分野。
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形式社会学
- 2007年5月 8日 09:22
- マルコ式社会学
成立の背景
ジンメルが形式社会学を提唱することになった背景は、オーギュスト・コント以来の総合社会学が、学問としての独自性を確立することなく、すべての学問を包み込む総合科学としての立場を強調していたことに対して、社会学以外の専門分野からの批判を強く受けていたことが挙げられる。つまり、社会学は他の学問分野をつなぎ合わせただけで実体がないという批判を受けていたのである。
19世紀後半より資本主義社会の複雑化・高度化が進んでいく中で、学問もそれに伴って専門化の傾向が顕著となってきており、そのような状況にあって初期の総合社会学は時代遅れの学問とみなされるようになってきていた。
特殊科学としての社会学の提唱
このような背景にあってジンメルは、他の学問にはない社会学独自の研究対象を模索する中で、人間相互の関係の形式(社会化の形式あるいは心的相互作用)に注目し、これを社会学が扱うべき対象であると考えるようになった。
社会化の形式あるいは心的相互作用とは、人間が目的や意図をもって他者と関わる行為のあり方のことであり、具体的には、愛情による親密な関係、憎悪に基づく敵対関係、社会的地位によって結ばれる上下関係などが挙げられる。これに対して、他の学問分野が扱う政治、法律、経済、宗教、芸術などを「内容」と呼び、「形式」を通じて実現されるものだとジンメルは考えた。
ジンメルによる対象の分類
形式社会学の位置づけ
当初ジンメルは、特殊科学としての社会学の確立を目的として形式社会学を提唱したが、晩年に著した『社会学の根本問題』(1917)において、一般社会 学、特殊社会学(形式社会学)、哲学的社会学という3つ分野から成る、より大きな社会学の体系を構想するようになった。しかし、その中心となる分野はあく まで形式社会学であり、彼が残した研究実績は形式社会学の方法論に基づいたものである。ラベル: 社会学基本講義
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クロード・レヴィ=ストロース
- 2007年5月 8日 09:22
- マルコ式社会学
クロード・ギュスタヴ・レヴィ=ストロース(Claude Gustave Lévi-Strauss, 1908年11月28日 - )はフランスの文化人類学者、思想家。一般的な意味においての構造主義の祖。
1908年にベルギーに生まれる。祖先はアルザス出身のユダヤ人。パリ大学で哲学を学ぶ。 ブラジルを中心にフィールドワークを行なう。2度の落選を経て、1959年からコレージュ・ド・フランス教授。 言語学特に、ソシュール、ヤコブソン等の構造言語学やフランス社会学、とりわけデュルケムの流れを汲む社会学者マルセル・モースに影響を受ける。
未開社会の婚姻規則の体系、神話、無文字社会を贈与の問題や、記号学的立場から分析し、数学の群論を使った分析(実際にはアンドレ・ヴェイユが行なった)等の業績がある。オーストラリアと東南アジアの婚姻規則の体系を構造言語学のインスピレーションをもとにして統一的観点からの分析し、博士論文となった1949年の『親族の基本構造』において自らの基本的立場を明らかにした。
その後、しだいに研究の舞台を親族関係から神話へと移していったが、1962年の『野生の思考』の最終章「歴史と弁証法」においてサルトルの実存主義を 強烈に批判した。このことから、実存主義に対立しそれを乗り越えるものとして構造主義の思潮がときには過剰なまでにもてはやされる契機となった。本人はそ の後も、センセーショナルな流行からはつねに距離をとり、10年もの歳月をかけて、ライフワークとなった4巻に及ぶ『神話論理』(『生のものと火にかけた もの』、『蜜から灰へ』、『テーブルマナーの起源』、『裸の人』)を完成させ、神話研究において不滅の業績を残した。
彼の問題意識はサルトルの実存主義という主体偏重を批判し、 西洋社会における、西洋中心主義に対する批判的意識から出発している。 前者に対しては、主体ではなく、主体間の構造こそが重要だと主張し(主体が使う言語は共同体社会によって生み出された構造主義的なものなので、絶対的な主 体ではありえない)、 後者に対しては、どのような民族においてもその民族独自の構造を持つもので、西洋側の構造でその他の構造に対して優劣をつけることなど無意味だと主張し た。
名前がリーヴァイ・ストラウス(Levi Strauss)と紛らわしいため、時にジーンズ屋(リーバイス) と間違えられたという逸話があるが、実際にリーバイスの創業者とは遠縁に当たるため、 おそらく創作であろう。
主要著作
他の「構造主義者」とことなり、レヴィ・ストロースの文章はその明晰さから高い評価を受けている。
- Les structures élémentaires de la parenté, (1949)
- 『親族の基本構造』 青弓社
- Tristes tropiques (1955)
- Anthropologie structurale (1958)
- 『構造人類学』 みすず書房
- La pensée sauvage (1962)
- 『野生の思考』 みすず書房
- Les mythologiques (1964 - 71)
- 『神話論理』 みすず書房
- Le regard éloigné (1983)
- 『はるかなる視線』 みすず書房
- La potière jalouse (1985)
- 『やきもち焼きの土器作り』 みすず書房
- De près et de loin (1988)
- 『遠近の回想』(ディディエ・エリボンとの共著) みすず書房
- Saudades do Brasil (1994)
- 『ブラジルへの郷愁』 みすず書房
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学問史
- 2007年5月 8日 09:22
- マルコ式社会学
一般に人類学の学説史は、このマリノフスキーを境にして前史と近代人類学に分けられる。この時期、マリノフスキーが確立したフィールドワークの手法によってデータの体系的収集が可能になり、さらにその同時代人であるラドクリフ=ブラウンによってフランスの社会学者デュルケームの社会理論に基づいた構造機能主義理論が確立され、社会科学としてのその基礎が築かれた。
マリノフスキーとラドクリフ=ブラウンはともにイギリスを中心にして活躍したため(もっとも両者はともにアメリカで教鞭をとっている)、第二次大戦 後は彼らの後を受けたイギリス社会人類学の伝統が人類学の本流として認識されるようになった。しかし、各国の人類学にはこれとは異なる伝統が存在してお り、その中でもアメリカとフランスの伝統はしばしば強い影響力を持った。
特にアメリカには、フランツ・ボアズを中心とした独特の学派が受け継がれてきた。この学派では社会関係と社会構造に注目する社会人類学よりもより包含的なアプローチを取り、人間の慣習や社会制度、心理的傾向性、言語、物質文化と言った多様な要素からなる広義の文化に焦点を当てた。 この学派は、この幅広い文化の概念を用いて各民族(具体的には北米原住民)の固有文化を記述することに専念し、社会人類学のような理論化に対しては批判的であった。こうした姿勢は乏しい資料を基に自民族中心主義的な理論化を行った進化主義への反発から来ていると言われ、ボアズらはこのような進化主義的立場に抗してそれぞれの文化はそれぞれの価値において記述・評価されるべしであると言う文化相対主義を主張した。このように理論を排除する立場をとったため、アメリカ文化人類学派はイギリス社会人類学に対して理論的な発展では後れを取ったが、一方で社会関係にこだわらない包括的な立場を取り、言語や心理過程、地理的範疇や生態系にも焦点を当てたために、後に心理人類学(文化とパーソナリティ論)、生態人類学(新進化主義)、といった数多くの下位分野を生み出すことになった。
日本では、イギリスに留学して社会人類学を修めた中根千枝を招いた東京大学や都立大学(現首都大学東京)においてイギリス流の社会人類学が受容された。一方、関西では生態学者今西錦司の弟子である梅棹忠夫を中心とした京都大学人文科学研究所がアジア・アフリカ各地に探検隊を派遣して多くの研究を行った。その成果は大阪万国博覧会(万博)におけるメイン館の展示となり、その後同跡地には国立民族学博物館(大阪府吹田市の万博記念公園)が設立されて日本における文化人類学の研究拠点となった。生態学者今西錦司の影響下に発展した京都の人類学は霊長類学との協力が盛んで理系の人材が多く、そのため環境利用や生業、技術、進化など人類社会の生態学的側面に焦点を当てた優れた研究を行ってきた。 また、梅棹忠夫が50年代に著した文明の生態史観は人類学だけでなく、当時の日本の論壇に大きな衝撃を与えた。
文化人類学は様々な国でその国独自の事情を反映して多様に発展してきた。イギリスにおいては社会人類学、アメリカにおいては総合的な文化人類学、日 本では生態人類学がそれぞれ各国の個性を代表していると言えよう。しかし、近年は交流の活発化に伴ってかつてのような国ごとの個性はそれぞれのフィールド ごとに再編されつつあり、国による違いは徐々になくなりつつある。 また70年代以降、文化人類学がおもな対象としてきた発展途上国社会で急激に開発が進み(ポストコロニアル)、新たな社会問題が発生するようになるに伴って学問の性格も徐々に変化してきた。特に80年代以降は、開発、医療、エイズ、環境問題、教育、観光などの社会問題を扱う応用人類学の分野が急成長し、急激に多様化が進みつつある。さらに、エドワード・サイードのオリエンタリズムやポストモダンの潮流に関連して、文化人類学者が異文化を「書く」とはどういうことなのか、という学問の根幹に関わる問題も提起された。同様に人類学的行為の政治性や方法論・理念(文化相対主義、社会構築主義など)についての議論も盛んに行なわれている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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文化人類学
- 2007年5月 8日 09:22
- マルコ式社会学
文化人類学(ぶんかじんるいがく)は、社会科学のひとつである、人類学の一分野である。人類学は一般に人類の進化や生物学的側面を研究する自然人類学とその社会的・文化的側面を研究する文化人類学に大別される。文化人類学と言う学問分野はアメリカにおいて用いられてきたもので、イギリスおよび多くのヨーロッパ諸国では社会人類学の名称が用いられている。両者の間には歴史的な相違が存在していたが、現在では研究内容がほぼ収斂し同じ分野の異称であると考えて差し支えない。またヨーロッパ諸国や日本においては民族学(Ethnology, Ethnologie)の名称も用いられている(民族学を一分野とする場合も多い)。また民俗学(Folklore)は隣接分野である。
広く捉えると文化人類学は、人類を進化の過程によって形作られてきた生物学的側面から捉える自然人類学に対して、自然とは対比される文化という側面から研究しようとする学問分野である。ここで言う文化とは進化の過程を経て形成される遺伝形質ではなく、人類が後天的に学習した行動パターンや言語、人工物の総体を指す。このような広義の文化概念をとった場合、文化人類学には言語学と考古学が含まれることがあり、アメリカではこのような広義のくくり方が一般的である。
これに対して狭い意味では、民族・社会間の文化や社会構造の比較研究として定義される。社会人類学や民族学というラベルはまさにこの狭く定義された文化人類学と同義である。ブロニスロウ・マリノフスキー以後、この分野では数ヶ月から数年に渡って研究対象となる社会に滞在し、メンバーの一員として生活する参与観察(フィールドワーク《実地調査》の1手法。人類学者が用いるフィールドワークには、観察、参与観察、面接《インタビュー》、心理テストなどの手法がある)の手法を用いることが一般的となった。
このフィールドワーク(実地調査)においてどんな調査結果が得られるかについて、調査する者の価値観、調査対象を好きか嫌いか、調査者と調査対象の間に生まれた関係(ラポール、rapport)、などが関係するところが、文化人類学が持つ課題である。さらに1970年代頃から、調査される側の迷惑、調査する側の倫理、が課題としてクローズアップされている。アメリカ人類学会には倫理委員会 ( Committee on Ethics ) が設けられ、1975年に綱領「職業的責任の原理」が、1984年に「倫理コード」が作成された。日本では1988年の第25回日本民族学会研究大会にてシンポジウム「民族学と少数民族-調査する側と調査される側」が催され、これをきっかけに研究倫理委員会が設置された。
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連字符社会学
- 2007年5月 8日 09:22
- マルコ式社会学
- 医療社会学
- エスニシティの社会学
- 音楽社会学
- 科学社会学
- 家族社会学
- 環境社会学
- 教育社会学
- 経営社会学
- 経済社会学
- 国際社会学
- 産業社会学
- ジェンダーの社会学
- 社会学の社会学
- 宗教社会学
- 情報社会学
- スポーツ社会学
- 政治社会学
- セクシュアリティの社会学
- 地域社会学
- 知識社会学
- 都市社会学
- 農村社会学
- 犯罪社会学
- 比較社会学
- フェミニズムの社会学
- 文学社会学
- 文化社会学
- 法社会学
- 歴史社会学
- 労働社会学
- 老年社会学
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マスコミュニケーション
- 2007年5月 8日 09:22
- マルコ式社会学
マス・コミュニケーション(マスコミ、Mass Communication)とは、受信能力を有するすべての人々に公開されたコミュニケーション活動であり、寡占的状態にある大規模組織である送り手から、大量の不特定多数の受け手に対し、高度な機械技術体系を使って大量の情報・記号を一方的に伝達するコミュニケーション手段ではない。
マスコミに対しての送り手としてマスメディアがある。人によってはマスコミといえばマスメディアを意味するととらえる人もいる。マスコミには両方の意味が存在してしまうため、マスメディアのことはマスメディアと言った方が好ましい場合もあるが、このあたりをわからずに書いた文章はやや読みにくいことがある。
マスコミュニケーションの現代的性格
- 公開性
- 同時性
- 時事性
- 画一性
- 定期性
- 受け手の匿名性
- 送り手の寡占性
- 単方向性
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構造主義
- 2007年2月11日 01:35
- マルコ式社会学
構造主義(こうぞうしゅぎ)とは、数学、言語学、精神分析学、文芸批評、生物学、文化人類学などにおいて何らかの形で構造を重視する立場である。
一般的には、研究対象を構成要素に分解して、その要素間の関係を整理統合することでその対象を理解しようとする点に特徴がある。例えば、言語を研究 する際、構造主義では特定の言語、例えば日本語だけに注目するのではなく、英語、フランス語など他言語との共通点を探り出していくメタ的なアプローチをと り、さらに、数学、社会学、心理学、人類学など他の対象との構造の共通性、非共通性などを論じる。
構造について
数学において、ブルバキというグループが公理主義的な数学の体系化を進めているが、その中心人物であるアンドレ・ヴェイユは言語学者エミール・バンヴェニストからの影響を認めている。ブルバキはしばしば「構造主義」と呼ばれるため、「構造」の起源を求めると循環論になってしまう恐れがある。しかし少なくとも文化人類学においては、婚姻体系の「構造」は数学の群論(group theory)と直接の関係がある。群論は代数学のひとつで、クロード・レヴィ=ストロースによるムルンギン族の婚姻体系の研究を聞いたアンドレ・ヴェイユが群論を活用して体系を解明した。現代思想としての構造主義
言語、文学作品、神話などを対象として分析するにあたって、語や表現などが形作っている構造に注目することで対象についての重要な理解を得ようとす るアプローチがなされている。構造を見出すことができる対象は商品や映像作品などを含み、言語作品に限らない。こうした象徴表現一般を扱う学問は記号論と呼ばれる。
神話分析におけるユングのアーキタイバル・イメージ(元型)を手がかりとしたアプローチ(すなわち「グレートマザー」「シャドウ」など特定のイメージがそこにどのように用いられているかを解釈して行くことが重要な理解をもたらすとするアプローチ)や、文学作品や神話が担う社会的機能を分析することで理解しようとする機能主義的なアプローチなどとは大きく異なるアプローチである。
フェルディナン・ド・ソシュールの言語学や文芸批評におけるロマーン・ヤーコブソンらのロシア・フォルマリズム、プラハ学派、アレクサンドル・コジェーヴのヘーゲル理解などを祖とする。1960年代、人類学者のクロード・レヴィ=ストロースによって普及することになった。レヴィ=ストロースはサルトルとの論争(この論争により、事実上、サルトルと実存主義は葬られた)を展開したことなども手伝ってフランス語圏で影響力を増し、ロラン・バルト(文芸批評)、ジュリア・クリステヴァ(文芸批評、言語学)、ジャック・ラカン(精神分析)、ミシェル・フーコー(哲学)、ルイ・アルチュセール(マルクス主義理論社会学)など人文系の諸分野でその発想を受け継ぐ者が現れた。但し、この継承の過程で、静的な構造のみによって対象を説明することに対する批判から、構造の生成過程や変動の可能性に注目する視点が導入された。これは今日ポスト構造主義として知られる立場の成立につながった。
生物学における構造主義(構造主義生物学)
進化の過程に単なる突然変異の偶然性や自然選択の原理を見るだけではなく、それ以外にも突然変異の生起を一定の形で拘束している構造的要因が生物にはあると考え、それによって進化の重要な部分を理解できると考える立場を構造主義進化論と呼ぶ。
一般に生物の行動や形質を構造的要因に帰する生物学の一派を構造主義的生物学という。遺伝子学が代表的なものである。
ラベル: 文化人類学
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情報・メディア・コミュニケーション研究
- 2007年2月10日 11:49
- マルコ式社会学
概要
「情報・メディア・コミュニケーション研究」は、現時点において明確に確立された1つの学問としては、認知されていない。メディア学やコミュニケーション学といった名称は、教育研究組織、学術雑誌、学会、学術会議などでしばしば用いられるが、日本においては、メディア学、コミュニケーション学については、研究者、対象領域、研究方法、基礎知識などの面において互いに重複する部分も多い。なお、情報学については、一般的な名称として徐々に認知されつつある。
情報学(英称: informatics)という名称は、ヨーロッパを除く地域において比較的最近になって認知され始めた学問である。一方、メディアやコミュニケーションの研究は、報道研究、マスメディア/マスコミュニケーション研究、スピーチ研究などの名称の下に以前から存在してきた。
研究領域は、情報処理、情報伝達、コミュニケーション行為などの社会的側面や人間との関わり、といった形で大まかに括ることができる。
領域の源流として、次のような研究が挙げられる。
- アリストテレスなど、古代ギリシアにおける修辞学(レトリック)や演説についての研究
- 社会における知識やイデオロギーの役割を考察したカール・マルクスやカール・マンハイム
- 新聞などのメディアがもたらす社会変革を考察したアメリカ合衆国20世紀初頭の進歩派思想家
- 第二次世界大戦中のプロパガンダ研究や情報理論の発達
応用的側面ではこれらの諸学問は、以下にあげるように、職業的技術の習得から芸術的制作活動まで広範囲の実践と結びついた分野である。
こうした事情から、学部の教育課程、 研究者に期待される基礎知識、実践と研究の関わり方、研究手法、基本概念の定義などの諸面において、かなりの重複が認められるものの、同時に多様性が見ら れ、どのような研究、教育のあり方が正統的・主流派であるかについて合意が形成されていないのがこの分野の特徴であるといえる。
また、近年の動向として、関連諸分野との密な相互作用が挙げられる。これは既存学問分野との相互作用、新興分野との相互作用、の2種類がある。すなわち:
- 経済学、社会学、政治学など、既存の諸学問における、情報、メディア、コミュニケーションを重視した研究の活発化。
- カルチュラル・スタディーズ(Cultural studies)、記号論、メディア・エコロジー、コンピュータ科学、認知科学、技術と社会研究(STS)、イノベーション・マネジメント、図書館情報学など関連の深い分野の出現。
多様性について
比較的体系化と専門分化が進んだ学問分野においては、専門分化ゆえの多様性が見られることが多い。社会学や経済学はその好例であろう。だが、どのよ うな基礎教育カリキュラムが主流であるか、その学問分野の歴史に影響を与えた主要な研究者は誰か、主要な著作はどれか、などについての合意は、情報・メ ディア・コミュニケーション研究を行う諸学の場合ほど、困難ではないだろう。
また、宗教学、公共政策、環境問題研究、都市研究など、学際的な研究分野において学問体系が確立しないことや他の諸学との交流が活発に行われることは、それほど珍しいとは言えない。法律、経済分析技法、統計や数理モデル、 対象に関する詳細な知識、歴史的事例や海外の事例についての詳細な知識、社会学や政治学などにおけるキー概念や理論的論争についての知識、など、様々な専 門性を持つ様々な研究者が互いの研究を参照しつつ分野が展開することは、理由のないことではないだろう。情報・メディア・コミュニケーション研究について も、学問として体系化は不可能か不必要で、学際的な交流の場のようなものとしてあるべきだと考える研究者も少なくない。
主な研究機関
日本国内:
- 東京大学 大学院情報学環・学際情報学府
- 慶應義塾大学 メディア・コミュニケーション研究所
- 北海道大学 大学院国際広報メディア研究科
- 同志社大学 メディア・コミュニケーション研究センター
- 国際大学 グローバル・コミュニケーション・センター (GLOCOM)
- 筑波大学 図書館情報メディア研究科
- 関西大学 社会学部 マス・コミュニケーション学専攻
- 明治大学 情報コミュニケーション学部
日本国外:
- ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス・アンド・ポリティカル・サイエンス メディア・コミュニケーション学部
- オックスフォード大学 インターネット研究院 (イギリス)
- コロンビア大学
- ハーバード大学 ケネディ・スクール
- ペンシルバニア大学、南カリフォルニア大学 アネンバーグ・スクール・フォー・コミュニケーション(両大学に設置)
- カリフォルニア大学バークレー校
- ウィスコンシン大学マディソン校
主な学会
日本国内
- 日本社会情報学会 (JSIS)
- 日本社会情報学会 (JASI)
- 日本マス・コミュニケーション学会
- 日本コミュニケーション学会
- 情報文化学会
- 情報通信学会
- 情報処理学会
- 情報知識学会
- 情報メディア学会
- 日本図書館情報学会
- ヒューマンインタフェース学会
- 情報コミュニケーション学会
日本国外
- ACM - Association for Computing Machinery (米国コンピュータ学会)
- AoIR - Association for Internet Researchers (インターネット研究者協会)
- IACMR - International Association for Communication and Media Research (コミュニケーションとメディア調査のための国際協会)
- ICA - International Communications Association (国際通信協会)
- ISCA - International Speech Communication Association (国際スピーチコミュニケーション協会)
- INET - The Internet Society (インターネット学会)
主な学術誌
- The Information Society (情報社会)
- Journal of Communication (コミュニケーションのジャーナル)
- Media, Culture & Society (メディア・文化・社会)
- Theory, Culture & Society (理論・文化・社会)
- Critical Theory (批判理論)
主な研究領域、研究アプローチ
- 言語、レトリック及びスピーチ・コミュニケーション
- ノンバーバル・ランゲージ
- テクスト論、ディスコース
- ジェンダー、セクシュアリティ、エスニシティ
- 国民国家
- 家族
- メディア・エコロジー
- 記号論
- サイバネティクスおよびシステム理論
- 情報処理過程とメディアの影響
- 政治経済学、批判理論によるメディア産業批判
- 言論の自由
- 通信政策
- 知的財産権
- メディア、民主主義、言論、公共圏
- 近代と脱近代
- 消費と社会、資本主義と象徴/記号
- 脱工業社会、情報産業
- 情報都市
- 都市情報化
- 先端技術産業の地理学
- 科学的知識の社会学
- 技術の形成過程についてのアクター・ネットワーク・セオリー及び社会的構築理論
- インターネット (インターネットコミュニティ)
- 非生命体進化論
- メディア・プラクティス
- コミュニティ・デザイン
主な関連領域
上述のように、人文・社会科学の様々な領域で、情報、メディア、コミュニケーションに注目した研究が出現したが、その代表的なものとして、次のようなものが挙げられる。
- 経済学:
- 市場メカニズムにおいて情報が果たす役割の研究
- 産業構造の変動、とりわけ、情報、知識、サービス、先端技術産業へのシフトの研究
- ポスト・フォーディズムやネオ・フォーディズムの理論との関係で経済や労働の変質と情報技術の関係を考えるもの。
- ネットワーク産業における企業行動、競争、規制の研究
- 社会学:
- ハーバーマスのコミュニケーション行為の理論の普及、公共圏の概念の普及
- ポストモダニティの研究
- ブルデューなどによる、社会的行為の象徴的次元の研究
- ヴァーチャルコミュニティーなど、コンピュータネットワーク上での人々の振る舞いの研究
- 科学的知識や技術の形成過程への社会学的アプローチ、とりわけアクター・ネットワーク・セオリーや技術の社会的構築理論に基づく研究
- 都市社会学にけるロサンゼルス学派
- 地理学:
- シリコンバレーなどをモデルとした、先端技術産業集中立地による地域経済開発研究
- 都市情報化、地域情報化の研究
- 情報技術やグローバリゼーションが大都市にもたらす分散化や集中化の研究
- 文学:
- 記号、テキスト、ディスコースに関する諸研究
- 哲学:
- ポスト構造主義など、他者やコミュニケーションについての思想
著名な研究者及び関連分野の主要研究者 (五十音順)
日本
浅田彰 - 池田謙一 - 伊藤俊治 - 伊藤守- 伊藤陽一- 稲増龍夫 - 梅棹忠夫 - 大石裕 大澤真幸 - 鬼木甫
加藤晴明 - 川浦康至 - 柄谷行人 - 北田暁大 - 公文俊平 - 児島和人 - 粉川哲夫
正村俊之 - 増田祐司 - 増田米二 - 松岡正剛 - 水越伸 - 水野博介 - 見田宗介 - 宮原哲
日本以外
テオドール・アドルノ - ジョン・アーリ - アリストテレス - ハロルド・イニス - ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン - レイモンド・ウィリアムス - ポール・ヴィリリオ - ソースティン・ヴェブレン - ジョン・オースティン - ウォルター・オング
マニュエル・カステル - キケロ - アンソニー・ギデンズ - フリードリッヒ・キットラー - アーヴィング・ゴッフマン
ジョン・サール - マックス・シェーラー - クロード・シャノン - マーク・ジョンソン
シェリー・ターケル - ドナルド・デイヴィッドソン - ジャック・デリダ
ジグムント・バウマン - ピーター・バーガー - ケネス・バーク - ユルゲン・ハーバーマス - ロラン・バルト - クロード・フィッシャー - マイク・フェザーストーン - ミシェル・フーコー - エーリッヒ・フロム - グレゴリー・ベイトソン - ダニエル・ベル - ヴァルター・ベンヤミン - マーク・ポスター - ジャン・ボードリヤール - エドワード・ホール - スチュアート・ホール - マーク・ポラト
ジョン・マカラップ - マーシャル・マクルーハン - カール・マンハイム
ポール・ラザースフェルト - スコット・ラッシュ - フランソワ・リオタール - デイヴィッド・リースマン - ジョージ・レイコフ ローレンス・レッシグ - エヴェリット・ロジャース
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社会学とは
- 2007年2月 6日 20:42
- マルコ式社会学
ラベル: 社会学基本講義
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