don’t be evil

Googleのモットーに”don’t be evil”というものがあります。

Web2.0などと騒がれてた2006年頃に話題になったわけですが、今思えば、その真意というのは、Googleが行っていることそのものに対してではなく、組織のあり方ということに対して説いたものだったのではないかと感じます。

性善説と性悪説という人間の根本的問いに対しての一つの答えが、この言葉に隠されているのではないでしょうか?

人間は生まれながらに悪であるという性悪説、それに対して人間は生まれたときは善であるという性善説。

この哲学的問いは、人間と組織を考える上で最も重要なファクターだと考えています。

個々人を見れば悪い人は一人もいないとしても、組織全体では悪であるという出来事が昨年は特に露呈しました。食品偽装や品質管理問題などは、人間個人が行った悪ではありません。しかし、そこで働いていた人たちも悪とされてしまうのが現実です。

組織は、常に悪への方向性と戦い続けなければなりません。それが、組織を永続させていく上で最も重要なことなのです。たった一人が行ったことは、組織内においてはさほど大きな問題にはなりませんが、組織として悪を行った場合、社会に背反する行為としてとられます。

Googleはそうした、組織の持っている内在的悪を否定しているのだと思うのです。

社会に背反した組織だとしても個々人は、善でありまた、悪の意識はないのです。

赤信号もみんなで渡れば怖くないというのが、組織内の心理です。そして、それを一度見逃すと、次第に慣れていき慣習的になり、日常的になっていくのです。

社会学では、犯罪は他者から犯罪者との指摘がなければ犯罪としては認められず、逆に他者から犯罪者と指摘があれば、いかなる場合でもそれは犯罪だといいます。

人間は生まれたときは完全なる善であると、私は考えます。そして、家族、社会、会社、国家といった組織とかかわり合うことによって次第に悪になっていくのだとも思うのです。

真なる善を貫き通す覚悟があれば、まずは、俗世と関わりを捨てることが望ましいでしょう。また、そうしている人はたくさんいます。

人間は生まれながらに罪を背負ってきたのではなく、他者とのかかわり合いの中から罪を学んでいくのです。

昔インドで発見されたオオカミに育てられた少女は、全く罪を持っていませんでした。なぜなら、人間が罪と思うことは彼女にとってみれば、罪ではなかったのです。衣服を着ずに徘徊したとしても、彼女にとってみれば、罪ではないのです。

アダムとイブも禁断の果実を口にしたから、追放されたのではなく、禁断の果実こそが罪の意識だったと神学者は説きます。

こうしたことから、Google自体は、組織として活動する以上、何らかの罪を背をっていることを自覚しているのではないでしょうか。ただし、その罪に溺れ悪になることだけは否定しているだと思うのです。

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