南米日系移民の歴史

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初めに

現在、日本人の海外旅行者数17,819,000人(2000年)【JNTO:国際観光振興会】といわれており、不況と言われる最中でも毎年その数は増加の一途にたどる。日本は四方を海に囲まれた列島ということもあり、日本人の海外に対する憧れは昔から強いようだったが、今と昔では海外に行く目的と事情が全く違う。

第二次世界大戦前は、観光というより移民としてその土地で生活するために出向くものが多かった。夢を見て外国の土地を踏んでも、実際その生活は過酷で凄惨なものであることも少なくはなかった。

「元年者」

  • アメリカ領事館員のヴァンリード(資料1)の進言によって始まった
  • 「グァム島移民42人は江戸開城の前日、1868年5月2日のことだった。ハワイ移民は明治新政府になってからのことだった。政府は奴隷貿易反対の立場から移民を禁止しようとしたが、ヴァンリードは政府に抗議する一方、5月17日、密かに船を出港させてしまった。」【高橋:10】
  • グァムに渡った移民は過酷な労働や賃金の不払い、劣悪な食事で病死者が続出したため、1868年から2年間に渡り帰国する事になる。(42人中28人が帰国)
  • ハワイでも、帰国の嘆願書を日本政府に送ったが、調査した結果、状態はそれほど悪くなく、言葉と風習の違いからくる誤解や仕事の不慣れが主な原因であった。調査を行った使節団はハワイ政府と協議(注Ⅰ)し、43人が1870年に帰国した。
  • これらの失敗から日本政府は移民に消極的だったが、国政経済が行き詰まり(注Ⅱ)移民を送出する事になる。

→1883年には、「オーストラリア行きの採貝潜水夫が許可されたのを契機に、ハワイ移民が開始される。政府はハワイ王国と移民協定を結び、1885年、官約移民944人を送出した。」【高橋:10】

アメリカ移民

  • 官営で行われていた移民事業が1894年に民会へと委託された事によって、民間移民会社が続々誕生。(1900年代には60社もの移民会社があった)
  • アメリカに移住するつもりで渡った者は皆無に等しかった。

→移民の目的はあくまでも出稼ぎであり、故郷に錦を飾ると言う事がアメリカンドリームだった。

  • 低賃金(アメリカ人にとってみれば)で働く日本人は、アメリカ人労働者との間で利害対立を生むようになる。この軋轢は、徐々に黄色人種排斥や排日運動へと発展していく。
  • 1908年に日米紳士協定が結ばれたため、日本人の出稼ぎ労働は事実上困難になった。もっと言えば、日本人が北米に進出すること自体が困難になったのである。

ペルー移民

  • 北米(特にアメリカ)の次に移民候補地に挙がったのはペルーだった。
  • 日本とペルーとの関係は、1873年に「日秘修交通商航海仮条約」によって国交はあったものの、互いに公館を置いていないという状況だった。
  • ペルーの農場経営者は奴隷制が廃止された当時でも、奴隷を扱っているという感覚で農場を経営していた為(タリア制と言われる完全出来高制)、日本人労働者にも同じように接した

→低賃金で過酷な労働を強いて働きが悪いといって鞭で打ったり、賃金を払わなかったりした。

  • こうした仕打ちに、日本人が黙っていたわけではなく、ストライキなどで抵抗していた。

→しかし、この結果農場主との間で抗争が絶えなかった。

  • ペルーに渡った移民の殆どは、帰国を希望していたが船が無い為に叶わず、その仕打ちに耐え忍ぶか若しくは、逃走するしか手は無かった。
  • 日本の外務省も対策を講じたが、ストライキが蔓延していたため労働改善までには至らず、当時蔓延していたマラリアを予防・治療のために医師団を派遣するまでに留まった。
  • ペルーに渡った移民の多くは、帰国する為の金が貯まらず、結局現地に残るしかなかったのだが、置き去りにされたといっても過言ではない。

ブラジル移民

  • ブラジルにも移民の送出を行ったが、その理由は今までのものと、日露戦争終結後の帰還兵士の失業を防ぐという目的もあったようである。
  • ブラジル移民を開始する前までの日本政府は、ペルー、ボリビアと南米において痛い目を見ているので南米移民に関して消極的態度だった。(資料4)
  • しかし、三代目杉村公使になると事態は急変する。初代、二代目公使は否定的な報告書を送っていたが、三代目杉村公使(注Ⅳ)によって徐々に日本側も移民送出に傾き始めた。
  • そこへ、大量帰還兵士問題も重なり、ブラジル移民が開始された。
  • 第一回目の移民は167家族791人と、通訳として東京外国語大学スペイン語科卒業生・在学生の中から5人(注Ⅴ)の796人であった。
  • ブラジル移民は主にコーヒー農園での労働を行っていた。しかし、ブラジル農園主も奴隷制の感覚が抜けておらず、過酷な労働を強いられ移民はここでもストライキを起こし、確執が深まるばかりであった。
  • 日系移民が入る前まで主な労働力はイタリア人によってまかなわれていたが、本国イタリアでは、農園の過酷な労働などの理由から移民者を引き上げている時期だった。
  • ブラジル移民は1913年12月まで合計8回も行われたが、翌年1914年には第一次世界大戦が勃発している。また、日本でも関東大震災で全てを失った人が新天地ブラジルを目指すと言う事も珍しくなかったのである。

南米日系人の排斥

  • ブラジル労働商工省移民局に残されている日本人移民の入国者数は、1908年から1941年までに188,309人となっている。
  • これだけ多くの日本人が渡ったということによって、次第に日本人会というコミュニティーが出来始めた。

→主な取り組みは、日本人学校の設立であるが、教育資格を持つ者も無く(中学校卒業者や中退者が教壇に立った)、泥と茅葺の粗末な掘っ立て小屋だった。

「1932年には各地に創立された日本人学校は187校にも及んでいる。生徒は約一万人程度だったと思われる。」【高橋:114】

  • だた、こうした試みは他のブラジル人に不信感を抱かせるようになる。

→ブラジルでも排斥をするような動きが起こり始めていたが、当初は移民受け入れ賛成派と反対派の二つに分かれていた。これは、受け入れを行っていない州は日本人に対して甘かったという事が理由として挙げられる。

  • 1930年以降移民二分法が制定された後は、ブラジルに入国できる日本人移民は2,800人程度と制限されるようになる

→「最近50年間にブラジルに定着したる当該国人の総数の2パーセントを超えることを得ず」【高橋:116】

  • だが、実際は後続移民が途絶えてしまう事によってブラジルが孤立してしまうと言う不安からこの法律は事実上適用されていなかったのである。
  • 日本が、日中戦争・真珠湾攻撃を行い第二次世界大戦へと突入するにつれ、ペルー・ボリビア・ブラジルなどの日本人を受けいれた南米各国は、日系移民に対して圧力をかけるようになる。(国交断絶による合憲的な略奪・無実逮捕など)

→財産の凍結、日本語教師の逮捕、外出や出国に関する規制など

まとめ

  • 日系移民はグァム、アメリカ、カナダ、メキシコ、ブラジル、ペルー、ボリビアなどに渡ったが、どの国に渡った移民も帰国する事を大前提として出国している。
  • 日系移民の多くは、出稼ぎ目的で渡っている。
  • 南米に渡った移民は、労働条件や生活条件が著しく悪く(資料5)、病死者が多く出ている。
  • 迫害などは言葉の違いや風習の違いなどから、どの国に渡った移民にも当てはまり、第二次世界大戦中の日系移民は強制収容や財産の凍結などの処置を受けていた。
  • 日系移民の同化(注Ⅵ)
  • 新たな疑問点

→初め移民として渡った人たちの多くは、なぜ日本に帰ることを願っていたのだろうか?なぜ、その地で骨をうずめる覚悟が無かったのだろうか?

注釈一覧

(注Ⅰ)
日本側の要求として、残留者の待遇改善、違反事項の是正、即時帰国希望者の容認、移住契約期限(3年)満了の後、帰国希望者はハワイ側の費用負担で帰国などを日本政府は要求し、「元年者」移民を日本政府が公認知ることを取り決めた。

(注Ⅱ)
当時の日本は、脱亜入欧の理念の下で近代化政策を行っていた。その過程で、多くの農村が崩壊していった。地租改正により農民には国家財政を担うという大きな負担が圧し掛かってきた。1884年から1886年の2年間に、全耕地の1/7が負債により抵当流れをしており、1890年までに地租滞納で強制処分を受けた者は367,000人にも上る。こうした背景から、農村から都会への人口流出が起こったが、当時の日本はそれほど近代化が進んでいたわけではないので、この都市から溢れた過剰人口が移民へと変容していったわけである。

(注Ⅲ)
1900年に調査員として、当時、メキシコ公使館野田良治書記を任命した。彼は同年に在リマ領事館付にも任命されている。

(注Ⅳ)
杉村氏はブラジル人がヨーロッパから「未開人」と思われていて、ロシアが負けたという事実は、痛快な出来事であり其れが親日に影響していると解釈していたが、実際これは、ブラジル人の持つラテン的気質を知らないことによって、引き起こされたものだった。
当のブラジル人は、ヨーロッパから未開人扱いされたことに対する憤りは無かったし、ロシアに対しても敵意は無かったという。視察先でブラジル人有力者が、日露戦争の事を賞賛したが、それは弱者が強者を破ったことに対するものの驚嘆でしかなかった。ブラジル人特有のジェスチャーを交えた話し方も、彼らにとっては其れが普通であり、特に親日的な理由から来るものではなかったのである。

(注Ⅴ)
大野基尚、仁平高、平野運平、嶺昌、加藤順之助ら5人

(注Ⅵ)
イデオロギーを構築するのも、改革するのも全て教育が行うものだと考えている。多文化社会アメリカが行った国民総合を基本理念とする日系人教育や、アメリカ日系移民の2世、3世に見られるような同化、また、本文でも述べた南米における日本語教育の禁止などは、まさに日本人のイデオロギーをその土地で根付かせないために行ったものだと容易に考えられる。
日系人に行ったアメリカの教育や同化教育は、『多文化社会アメリカにおける国民総合と日系人学習』や『教育における文化同化』、『アメリカの日系人―都市・社会・生活―』に詳しい。

資料編

(資料1)
~引用文~

1868年、横浜在住アメリカ商人ユージン・バンリードは、およそ150人の日本人労働者をハワイの砂糖プランテーションへ、そのほか40人をグァムへ送りました。この出稼ぎ労働者の一団は一般に「元年者」として知られ、政府の許可や旅券を受けることなく日本を出国しました。近代日本最初の海外「移民」だった「元年者」は、渡航地で奴隷にも等しい取扱を受け、結局、国家の体面保持ということもあり、明治政府が救出に乗り出さなければなりませんでした。「元年者」の失敗もあり、政府はこののち二十年近く日本人の海外移住を許さず、かわりに北海道開拓を推進しました。【Japanese American National Museum】

(資料2)
~引用文~

1896年に制定された移民保護法は移民の渡航を行政庁の許可を条件とし(第二条)、移住を周旋する移民取扱人は行政官庁の許可を必要とした(第五条および第六条)。この移民取扱人は通常の営業と異なり、鉱産資源の採掘など特殊事業を目的とする営業と同様、「帝国臣民又はこれを社員若しくは株主とする会社」に限定されていた(第七条)。さらに移民取扱人は渡航援の周旋を行った移民に対しては、満十年間、その移民の「疾病、其の他の困難の場合に於いて之を援助若しくは帰国せしむる」義務を負い、行政庁がこの種の行為を為した時はその費用を弁償しなければならないと定められていた(第三条、第七条)。しかもこの義務は移民取扱人が営業停止処分を受け、休業した後も子の義務から逃れることは出来なかった(第九条)。【高橋:42】

(資料3)
【高橋:43】より抜粋

1909年10月まで
ペルー向けの移民回数:10回
合計移民者数:6,295人
ペルーに残る移民:5,158人
死亡者数:481人
ブラジル・ボリビアへの再移住者:242人
日本に帰国した者:414人

(資料4)

1899年着任:2代目大越成徳大使の報告
「移民会社のブラジルの宣伝は極力之を警戒すべし」【高橋:49】
これは、コーヒー農場の労働力を支えていたイタリア移民の貧窮があまりにひどかったため送られた。
その後、イタリア公使との対話をして次に報告書を送っている。
「(イタリア)公使いわく、移民の惨状の実際は、当地にありて聞きし所より尚一層惨状にて、実に困厄の極み陥るとも評す可き有様にして、彼等数ヶ月前より其労働賃金を請取らざるのみならず、中には一年も賃金不渡のもの尠からずとの事に候(中略)而も其賃金不渡の移民の数は、伊国労働者の過半、即ち三万人に達せり候云々」【高橋:50】

(資料5)【高橋:44】
~引用文~

「来た時は大変じゃったよ。食べるもんはなにもなかったとよ。日曜日にゃ耕地を流れる小川にはえているベーロ(セロリ)をよく摘みに行ったよ」と、 石井シゲは語る。白髪で深い皺が一世紀を生き抜いてきたことを無言のうちに物語っていた。
「 ワシの家は百姓じゃったが、食べるものにはセンファウタ(不足しなかった)。嫁に行った先がボーブレ(貧乏)で、それでペルーでもうけようとこっちに来たとよ。」
福井県出身の彼女はスペイン語をまじえて移住の動機について説明してくれた。ペルーがどこにもあるか知らず、1903年に神戸港を離れたという。
「朝五時に起きて御飯を炊いて食べ、六時にはもう仕事に行かにゃならんとよ。ワシは百姓じゃからキビ狩りもなんでもなかったが、慣れん者は苦労したよ」

先行研究一覧

  • 牛島秀彦 1989 『行こかメリケン、戻ろかジャパン ―ハワイ移民の100年―』講談社
  • 篠田佐多江 北米日系移民史(アメリカ史) 東京家政大学
  • 高橋幸春 1997 『日系人 その移民の歴史』三一書房
  • 日本移民学会非公式ページ http://camp.ff.tku.ac.jp/YAMADA-KEN/JAMS.html
  • 山田晴通『移住研究』http://camp.ff.tku.ac.jp/tool-box/mig/iju.html
  • 米山裕助教授 アメリカ史(日系移民史) 立命館大学

参考文献一覧

  • 高橋幸春 1997 『日系人 その移民の歴史』三一書房
  • 田中圭治郎 1986 『教育における文化同化―日系アメリカ人の場合―』 本邦書籍
  • 森茂岳雄 1999 『多文化社会アメリカにおける国民総合と日系人学習』 明石書店
  • 柳田利夫 1999 『アメリカの日系人―都市・社会・生活―』 同文館出版
  • 中国の在留邦人者数と日経企業進出数http://www.shanghai-dweller.com/index.html
  • 国際観光振興会:JNTO http://www.jnto.go.jp/info/
  • Japanese American National Museum http://www.janm.org/main.htm