性善説と性悪説

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簡単に説明すると、
人はもともと善い人間であるとするのが、性善説。
人はもともと悪い人間であるとするのが、性悪説。

ただ、人が誰しも善い人間であれば、警察はいらないし法律もいらないのです。誰もが善い人であれば、危機管理は必要も無いし、
セキュリティーも必要なのです。なぜ必要なのかという根底には、人はみな少なからず悪いことをするという前提があるからです。
僕自身もその考え方は正しいと思っています。聖人でもない限り誰もが少なからず、正義や良心に背く行いをしたことがあるでしょう。
そんなことはしたこと無いという人は、正義や良心に対する認識があまいのです。
特に宗教的正義や良心が欠如している現代人にとってはそれは顕著かもしれませんが。

ここまで書いてきたことからも分かるように、僕は性悪説を基本としています。
警察も公安局もネットワークエンジニアもこの考え方が行動原則にあるべきなのです。

ただ、常にそんなことを考えているとはっきり言って人とは付き合えません。なぜなら、誰もが悪人に見えてしまうのですから。

そんな状態になったら、家から一歩も外に出れなくなってしまいます。

人間はよく社会的動物であるといわれますが、外へ一歩も外に出れない生活は、人間らしい生活とはいえません。
人間らしい生活をするには、他人を信じることが必要になるのです。

今日、電車で財布を落としてしまいました。性悪説であれば、絶対に財布は戻ってこないばかりか、
クレジットカードなどを悪用される恐れをすぐに考えます。この場合、楽観的に考える人のほうが少ないと思いますが。

通常この場合、現金の帰ってくる確率は低いです。性善説と性悪説で考えれば50%という確率のはずですが、
なぜか低いように感じるのは、なぜでしょうか。

僕の財布は実際どうなったかというと、ちゃんと帰ってきました。もちろん現金もしっかりと。

財布を取りに行った時、駅員さんの話では通常届け出があった場合、
権利を主張すればその現金の中から何パーセントかを出すことになっているらしいのですが、その届けてくれた方は、
権利を主張することなく名前も語らず置いていってくれたそうです。

どこの誰かは分かりませんが、本当にありがとうございます。

もう諦めていたところに吉報が届いたわけなので、感動しました。
人のやさしさにふれると、性善説を信じてみたくなります。どちらが良いかではなく、どちらも大切というバランスなのかもしれません。