自由とは

日本には、明治時代まで「自由」という言葉は存在しなかった。
言葉は、概念そのものとすれば日本にはそれまで、
「自由」は存在しなかったのである。

だが、明治初頭にかの有名な福沢諭吉が英語のFreedomを訳す言葉として、
「自由」と言う言葉を作ったのである。
福沢諭吉に曰く、「自らを由とすること、此れ即ち自由なり」
なかなか難しいことを言うものだ。果たして、当時の人でもどれくらいこの言葉の意味を理解していただろう。
僕は、子供のころ何も知らずに「自分の自由だろう!」とよく主張していたことが、多々あった。まぁ、あながち間違ってはいないのだが、それだけでは子供の主張で終わってしまう。
しかし、自由という言葉には必ず制約という言葉が見え隠れしている。
多分、どこの社会でも自由の裏には制約が付きまとっているだろう。此れは否めない。
自らを由とすることは、社会に対してという前提があってのことだ。
もし、そこに前提がなければ社会はめちゃくちゃになり、
自分の身も危うくなってしまう。
極端 な例を挙げると、 例えば僕が誰かを殺めたとする。だが自由だから自分がよければ、問題はない。しかし、僕が殺めた肉親に今度は僕が殺される。それもまた、自分が良ければ問題ない。こんな社会に誰が住みたいと思うだろうか。
殺人・恐喝・強盗・強姦などが当たり前で、常に死と隣り合わせの生活。
見方によってはかなりスリリングでそれはそれで楽しいかもしれないが、僕はあまり住みたくない。
今の例はかなり極端だが、実際何も前提がない自由ではこういう社会が誕生する。
健全な社会生活だけを考えれば、別に封建制度や独裁体制でも問題はないのだ。
だが、人間とは欲深い生き物である為、健全な社会生活はもとより、より良い社会生活を営みたいと願う。
そうして、自由のある生活を渇望しその生活をするわけだ。

日本国憲法には、ご丁寧にも「法のものとでの平等」の記述が載っている。
日本国憲法下では、誰もが平等な市民生活を送ることが出来ると、約束されている。
自由もまた然り。法の下では誰もが自由であるが、法を逸脱(破る)ことになれば、その人の自由はすぐになくなってしまう。

ここまでの話では、自由は人間がよりよく生きる為に必要だといっているが、自由は、そんなにもに必要なものなのだろうか。
答えは否。
自由は必ずしも必要なものではない。
ただ、人間の欲望が求めるだけでしかない。
現に、北朝鮮などでは自由は制限されているが、今でも多くの人々がそこで生活を送っている。
第二次世界大戦中のドイツでも独裁政権に国民が走っていった理由を、自由という観点から考察した社会学者がいた。
その人(E・フロム)は「自由からの逃走」という著書の中で、

「近代ヨーロッパにおける資本主義的生産様式の発達は、一方では、社会的・経済的自由空間と自由な個人を創出しつつ、しかし同時に、その自由を恐れ、そこからの逃避を志向するような性格特性を深く内面化した人間類型をも生み出した。」

と語っている。
要するに、自由が人を孤独にするから、その寂しさから逃れる為に強いものに惹かれるのだ。今の日本も、まさに同じ状況ではないか。我々は、孤独感にさいなまれ独裁者を待っているのかもしれない。もしくは、西欧文明それ自体か。

自由は良いものか、それとも悪か。
結論は、はさみは使いようで如何様にも変わるということだ。
核エネルギーは、地球を半殺しにすることも可能だが、温暖化を防ぐエネルギーとしても利用できる。
「自由」も同じで、人を殺すことも出来るが、人を生かすこともまた可能だ。
結局、それを扱う人に委ねられているということだろう。

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