文字について #2

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 文字と、言葉のギャップについてだが、日本語で言うと「注連縄」などがある。音読みすれば、「ちゅうれんじょう」となり、訓読みでは「そそつらなわ」と
なるはずだが、「しめなわ」と読む。英語に関しても、「Debut」なのに、「デビュット」と読まずに「デビュー」と読む。
 ドイツ語やラテン語には、それほど大きな違いは見られないが、ドイツ語であれば「Eine」と表記して、「エイネ」とは読まずに「アイン」と読む。

 このように、統一された規則性が文字と言葉の間にはない。それは、他の言語にも言えることであり、規則性があるように見えても、その言語でしか通用しない規則性なのである。

 ちょっと脱線した話になるが、【バビロンの塔】の話をご存知だろうか。その昔、高度な文明を持った古代人が神に近づくために、巨大な塔を作ったが、神の
怒りに触れその塔はもろくも崩れ去ってしまったという話である。この話には神の怒りが雷となって塔に落ちた時に二度とこのような過ちを繰り返さないよう
に、神は人間の言葉をばらばらにしてしまったのだという。神話ではあるが、ここまで世界統一された規則性がないと、この話もまんざら嘘ではないような気が
してならない。それに、バビロンの塔は存在したという話もある。
 言葉そのものは、人間がテレパシーを使わない限り、今までのそしてこれからも使われていくことだろう。人が一人で生きて以降としない限り、コミュニケー
ションの道具として未来永劫使用されていくに違いない。しかし、文字は必要なくなる可能性もあり、人類の歴史で必要でない時代もあった。しかも、文化に
よっては現在も使用していない文化もある。文字は人類にとって必ずしも必要な道具ではない。もし文字がなければ、人類の英知は後世の子孫には受け継ぐこと
が出来ないし、我々もまた授かることが出来なかった。しかも、今の発達した文明を作り上げることもなかっただろうし、常に同じ過ちを繰り返していただろ
う。しかし、地球の自然や資源を過剰に浪費したりもしなかっただろう。
 文字や言葉は、人にとってはただの道具であるが、その道具の使い方一つで良くも悪くも働くことを忘れてはならない。